旗印と龍神 決起
「いよいよなんだね、お母様」
天連の方が、そう口を開く。彼の口調には、まるで彼自身がこれから戦いに赴くかのような緊張感があった。
「きっと、大丈夫だよね。だって景華姫はたくさん頑張って、たくさんお勉強したんだもの」
妹の蘭花の方は、少し眠そうに小さく欠伸をしながらそう言った。それでも、母親の口の動きにはしっかりと注目している。
「はいはい、続けましょうね。そして、ついに兵を起こす日になりました。清龍の里は、出兵を控えた兵士たちの声でかなり騒がしくなっていました」
ついに、出兵の朝がやってきた。東の空が、暁色に燃えている……。景華はあの戦衣を纏い、腰に剣を提げた。練習用のそれではなく、彼女のために作られた鉄剣だ。その柄には、赤い宝玉を抱く龍神の姿が彫られている。柳鏡の方も、鉄鎧に身を包んでこの上なく不満気な顔をしていた。彼は重装備で動きにくくなるのが嫌いなのだ。その不満そうな顔を見て、景華は思わず笑ってしまった。
「人の不幸を笑うとは、良い根性だな……」
「だって、あんまりにも面白くなさそうな顔しているから、おかしくて」
「何ならあんたも着てみるか? めちゃくちゃ重いんだぞ?」
柳鏡のその申し出には笑顔で丁重にお断りを入れて、景華は兵士たちの前に出た。その横には、連瑛や柳鏡の兄たち、そして、柳鏡の姿がある。
「姫君、どうぞ一言かけてやって下さい」
「えっ、私?」
連瑛の言葉に、景華は目を丸くして問いかけた。驚きのあまりに、普段のように敬語で話すことすら忘れてしまっている。
「当たり前だろ。あんたはこの軍の旗印なんだ、なんか皆の士気が上がるようなことを言えよ」
柳鏡のその言葉で景華は一瞬躊躇したが、馬の脚を一歩前に進ませて、大きく息を吸い込んだ。
「あの……。本当は戦いに行く人に、こういうことを言ってはいけないのかもしれません。でも、とても大切なことだから、言わせて下さい」
彼女のその姿に、五千人の目が向けられている。緊張した面持ちで、景華は話を続けた。
「どうか、命を捨てるようなことはしないで下さい。皆さんには、家族がいると思います。もしも私のせいで皆さんが亡くなったりしたら、私はご家族の方に合わせる顔がありません」
ザワ、と群衆がざわついた。自分が、おかしなことを言っていることはわかっている。だが……。
「命を、大切にして下さい。皆さんがいてこその乱です。成功するかどうかは、皆さんにかかっています。そして……」
そこで言葉を切って、もう一度大きく息を吸い込む。空の暁色と、一緒に……。
「この国の夜の闇のような政治の暗黒を拭い、新しい次代を築きましょう! 辰南の暁の為に!」
割れるような歓声が、大地に轟いた。そして……。
「景華姫の御為に! 辰南の暁の為に!」
そう掛け声が上がった。景華は最初こそ驚いたものの、あまりの嬉しさに呆然とその場に立ち尽くしてしまった。
「うまくやったじゃねえか。こんなこと、教えなかったのによ」
隣に来た柳鏡が、そう言葉をかける。そして、ふと旗の方を指差した。全軍、進軍開始! という、連瑛の掛け声が響く。
「見えるか? あの旗……」
王家の象徴である紫色の旗。その旗に描かれていたのは、金色に染め抜かれた龍と亀に守られている、銀色の百合の花。銀色の百合は、王家の姫の紋章である。
「すごい、あれ……」
感激のあまり言葉をなくしている景華に、柳鏡が説明を加えた。
「姉さんが考えて、清龍の里の女性陣が作ってくれたらしい。向こうの軍にも、同じものを掲げてもらうそうだ。伝令班の姉さんがあっちに持って行った」
「そう、なんだ……」
もう、まともに言葉さえ出て来ない……。口を開けば、一緒に涙までこぼれて来そうだった。それでも、隣にいる彼に、伝えたいことがある。
「ねえ、柳鏡?」
「何だよ?」
面倒そうな返事が返って来た。ザカザカという規則正しい行進の音に、景華の声は消されてしまいそうだ……。
「絶対に、勝とうね。それで私、絶対に良い王様になってみせる。だから……」
彼女たちが列に続いて行かなければならない番になった。馬の鼻先を兵士の列の方へ向けて、景華が続きを話す。彼が一番好きな、あの笑顔で……。
「だから、ずっと見ていてね……」
その言葉に、彼は曖昧に笑って応えた。それができないことを、知っていたから……。それでも、彼女に気付かれないように軽口を叩く。
「あんたの脚をか?」
「前言撤回! 柳鏡だけは三十回位死になさい!」
馬上でも真っ赤になって裾を下げようとする彼女を見て、柳鏡は少し目を細めて笑った。これもいつかは思い出になってしまうのか、という切なさを噛み締めて……。