旗印と龍神 本心
日が落ちるまではまだ間があるが、柳鏡は足早に家路を辿っていた。本当は明日の出兵にあたって彼が確認しておくべきことがまだ残っていたのだが、全部姉の明鈴に押しつけてきたのだった。いよいよ明日、趙雨や春蘭たちから玉座を奪還するために出兵するのだ。
柳鏡は、いささか複雑な気分だった。彼らが景華を傷つけ、陥れたその罪は、万死に値する。だが、例えどんなことをしたとしても、彼らは紛れもなく幼少期をともに過ごした大切な友人なのだ。その彼らを追い詰めると思うと、どうしても複雑な気分を拭えない……。そして、彼のそんな心情を理解してくれるのはおそらく景華一人だろう。そう感じる彼の心が、余計にその足を速めていた。
「……」
そして、彼はもう一つ別の決意もしていた。そちらの方は、景華にも決して打ち明けることはないだろう。急ぎ足で歩きながらも、彼は左腕の醜い痣を服の上からじっと見つめた。それはおそらく今も、その下で彼の身を蝕んでいるのだろう。ギュッと、彼の眉根が寄せられた。汚らしい物を見るような嫌悪の光が、その深緑の瞳に宿っている……。
「……着いた、か……」
すっかり見慣れた戸口の前で一呼吸置いてから、いつものように少し乱暴に戸を開ける。その視線の先には、いつものように小さな台所に向かって夕食を作っている景華の姿があった。慣れた手つきで野菜を切るその姿からは、約一年前にここに連れてきた時のような頼りなさは感じられない。彼がすっかり慣れてしまったこの日常も、今日で最後だ。いや、どちらかと言うと、こんな非日常の生活も今日で最後なのだ。それが、柳鏡の心を余計に締め付けていた。
「おかえりなさい」
いつもの乱暴な戸の開け方で柳鏡だとわかったに違いないが、景華は戸口の柳鏡の方を一度向いてそう言った。そして、切り終えた野菜を鍋の中へと落とす。柳鏡は、その様子を覗こうと彼女の方へ歩いた。
「何作っているんだ?」
「きゃっ!」
まさかそんなに近くに立たれていると思っていなかった景華は、驚いて熱くなっていた鍋の蓋に触れてしまった。
「熱っ……!」
「馬鹿、冷やせっ!」
彼女が慌てて引っ込めた手を掴んで、台所のすぐ横にある水瓶にそれをつけさせる。水が一杯に張られていたので、腰を屈めなくても水面に手がついた。彼女の手を水につけさせている柳鏡の指先も、冷たい水に触れている……。
「痛くないか?」
「うん、大丈夫だよ……?」
こんな何気ないやり取りも、今日で終わり……。その事実が、柳鏡にはたまらなく切なかった。
「ちょっと柳鏡? もう大丈……っ!」
自分でも気付かない内に、柳鏡は彼女を背中から抱き締めていた。その腕に込められている力が相当強いことに、彼は気付いていない。一方の景華の方は、ともすれば息が止まりそうだった。
「ずっと……あんたとこうやって、平和に暮らせれば良かったのにな……」
耳元で囁かれる、柳鏡の言葉。そのあまりにも切ない響きが、普段心にもないことばかり言っている彼が、この時ばかりは本心を言っていることを伝えている……。
「国も神もない、何もない所で、二人で……」
(鍋、噴きこぼれちゃうな)
景華は、必死でそんなくだらないことを考えようとしていた。そうでもしないと、溶けてしまいそうだ……。全身が熱い。先程の鍋の蓋なんて、比にもならない程に。彼女は、わざと息を止めた。そうしなければ、狂走した心臓が彼女の口から飛び出してきそうだった。そして、しばらくじっとしていよう、と彼女は思った。何より、柳鏡の心が落ち着くまで。景華自身がそれを望んだということも、事実だった。その腕の中は、彼女が世界で一番安心できる場所……。
「ふっ……」
どの位そうしていたのだろうか、柳鏡がそう自嘲気味な笑みを漏らした。
「そんなこと、できる訳もないのにな……」
そう呟いた後、柳鏡の唇が柔らかい髪にそっと触れる。そして、それと同時に少しずつ解かれていく、力強い腕……。景華は密かに名残惜しさを感じていたが、それを誤魔化すために慌てて鍋の方へと走った。熱くなり過ぎたそれを、なんとか竈から下ろそうと奮闘する。それを見た柳鏡は、本当に愛おしげに目を細めて笑うと、何も言わずに鍋をひょい、と持ち上げ、用意されていた鍋敷きの上に下ろしてやった。
「ありがとう」
「鈍くさいから、見ていられなくて」
笑顔の彼女に、いつものように答える。
「失礼しちゃうわね!」
そう言って答える彼女も、いつものようにふくれっ面。ここであったことは、思い出として大切にしておこう。人でいられる内は……。彼の瞳が不安定に揺れたことに、景華は気付かなかった。