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旗印と龍神 雷鳴

 決起を三日後に控えたある日、突然降り出した雨に、景華は慌てて外に干していた洗濯物を取り込んだ。

「もう、夕立? すぐやむといいけど……」

 彼女がそう思った理由は、決起の準備の監督を行っている柳鏡がまだ戻って来ていないためであった。こんな強い雨に降られては、長の館からかなり離れたこの家まで戻って来る家に、ずぶ濡れになってしまうだろう。そんなことを考えながら、細く開けた窓から外を眺めていた、その時。

 ピカッ! 一瞬、空が眩しく光った。何が起きたのかわからず窓の外をじっと見つめ続けた彼女だったが、直後の轟音におののいて、飛び上がる。慌てて窓を閉めて、一人の部屋の中で震えた。窓や戸の隙間から、また一瞬、眩しい光が差す。そしてまた、恐ろしく轟く爆音。

「こ、怖いよ……。一体、何……?」

 彼女は、雷というものを今まで体験したことがなかった。城の周りは本当に気候が安定していたので、嵐など、天候がもたらす恐ろしさと言うものを体験したことがまるっきりなかったのだ。

 ガラッ。戸口が開けられて、長身の影が稲光の中に浮かび上がる。それが誰のものなのかを本能で一瞬の内に判断した景華の体は、真っ直ぐそちらに飛び出した。

「おわっ! な、何するんだよ!」

 突如景華に飛び付かれてかなり動揺した柳鏡だったが、濡れそぼった自分の体にしがみつく彼女が震えていることにすぐに気がついた。

「おい、大丈夫か? ああ、そう言えばあんた、雷なんて初めてだろうな。今までなかったのが不思議な位なんだ。滅多に落ちてなんか来ないから、大丈夫だ。……もういいか? 濡れてるから風邪引いちまうだろ。ほら見ろ、あんたの服も濡れただろうが」

 左腕の痛みと、右腕が意志に反して細い腰を自分の方へ抱き寄せようとするのを、彼は懸命に堪えていた。いや、正確には右腕が反抗していたのは、理性という名の砦にだったのかもしれない。激しい衝動を抑えて、自分の服が含んでいた水分が移って濡れてしまった彼女の袖をつかみ、内部の葛藤に気付かれないようにできるだけ優しく自分から引き離す。

「ほ、本当に大丈夫なの? すごく大きな音だし、ピカッて光るし……」

「ああ、大丈夫だ。……まったく、あんたまでびちょびちょになってどうするんだよ。ほら、先に着替えろ」

 まだ自分を見上げて不安げな顔をする彼女に、柳鏡は家の隅、天井から布が垂らされて仕切りが作られている部分を指差した。そこは、二人が共同生活を営む中で必要だと判断した、着替え用の場所だった。素直に頷いて、取り込んだばかりの洗濯物の中から着物を一枚持ち、その布の影に入る。それを確認してから柳鏡はホウ、と息をつき、厚めの布を隔てた向こう側にいる彼女に声をかけた。

「おい、俺もここで着替えるからな」

「うん、わかった」

 返事が返って来るのを確認してから、彼もまだ畳まれていない洗濯物の中から自分の着物をより出し、着替える。景華の心配通り、彼は一番下に着ている着物まで水が通ってしまい、嫌悪感を感じていた。羽織と上衣を脱ぎ捨て、一番内に着る着物にも手をかける。

「……」

 ちら、と自分の腕、龍神の紋章の部分に目をやって、彼は先程以上の嫌悪の表情を見せた。そしてその後、何事もなかったかのようにそれも着替える。腕の部分は、なるべく見ないようにしながら……。

「柳鏡、もういい?」

「ああ」

 厚い布のしきりの向こうからかかった、まだ恐ろしさで語尾が震えている声。上衣まで着替え終わっていた彼は特に問題もないだろうと判断して、彼女のその声に答えた。白い顔が、しきりの影から覗く。ちょこちょことその陰から出て来た彼女は、先程まで着ていた着物を洗濯物用の籠に入れ、柳鏡に乾いた白い布を差し出した。

「はい、髪、拭かなきゃ」

「ああ……」

 答えて布を手に取った彼から濡れた服を受け取って、先程と同じ籠に入れる。平静を装ってはいるが、彼女は雷鳴にかなり怯えていた。まだその足がすくんで震えているのが、彼の目に映っていた。

「これ、すぐやむかなぁ?」

 不安げな声で訊ねて来る彼女に、彼は首を振って答えた。

「どうだろうな。これだけひどい降り方をしてるから、今晩はやまないかもしれない」

 彼のその言葉に、景華はふくれっ面になった。

「絶対にやむの! だって、これじゃあ眠れないもん!」

「あんたさては、雷が怖いんだろ? 夜中にいきなり飛び上がったりするなよ」

「し、しないよ!」

 そう答えた瞳が恐ろしさで震えるのを、彼は見逃さなかった。どうせ怖くなって自分の方にやって来るのだろうということがわかっているから、ほんの少し意地悪を言ってしまう。

「まあ、せいぜい頑張れよ。一人で寝られたら大した快挙だな」

「放っておいて! 絶対柳鏡の方になんて行かないもん! 絶対にやむんだから!」

 景華はそのふくれっ面のまま、夕食の準備に取り掛かった。


 柳鏡は、自分が横になっている寝台の真正面、反対側の壁側にある景華の寝台、その上にいる芋虫を、興味津々に見つめていた。とにかく、面白い。雷鳴が響く度にその芋虫は震え、時に大きく飛び上がるのだ。

 今に我慢できなくなって、こっちに走って来るぞ。彼がそう思っていた矢先だった。

 一際大きな雷の音に今までにない程ビクリと大きく芋虫が跳ね上がり、次の瞬間には景華が柳鏡の寝台にもぐりこんでいた。真っ青な顔をして、カタカタと震えている……。

「何だよ、驚かせるな」

 再び轟く雷鳴に、彼女の小さな体が縮みあがる。それを見た彼は、ついいつもの癖で意地悪に笑ってしまった。

「なるほどな、やっぱり雷が怖いのか。……ほら」

 相変わらず青い顔で震えながら彼の言葉に頷く彼女に、自分の隣に入るように促してやる。それに大人しく従った彼女は、震える手で彼の襟元をギュッと握った。先程よりも近い場所で、雷の音がする。景華はビクリと肩を震わせて、柳鏡の胸に顔を埋めた。半分泣きそうになっているのが、その雰囲気だけで彼に通じる。震える手で握られたままの襟元に、彼はそっと溜息をついた。

「まったく、そんなに怖いのかよ……」

 彼はそう言って、彼女を抱き締めている手の片方でその耳を塞いでやった。もう片方の耳は、彼の胸に強く押し当てられている。彼女の耳に雷鳴は届かなくなり、代わりに彼の鼓動音が響くようになった。何度もゆっくりと穏やかに、規則正しく刻む音……。それにとてつもない優しさ、心地良さを感じるのは、なぜ……?

 また外で雷鳴が鳴り響いたが、今度は景華は何の反応も示さなかった。どうやら、本当に何も聞こえていないらしい……。

「いつか……誰の目も気にせずに、あんたとこうして眠れたらいいのにな。あの、城で……」

 それは彼女の配偶者として認められない限り、あり得ないこと。そして、彼はそんなことはできないということを十分に理解していた。運命とは、やはりどうしようもなく残酷なものらしい……。

「まあ、そんなこと、できる訳もねえんだけど……。願うだけ、思うだけなら、俺にだって権利位あるだろ?」

 何も聞こえていない彼女に、同意を求める。返答なんてものは、彼は期待していなかった。むしろ望んでいたのは、今の呟きを彼女にに聞かれていないこと。つまり先程の問いかけは、永遠に答えが得られない、得たくない問いかけなのだ。運命と言うものに、阻まれているせいで。そのせいで、彼らの距離がこれ以上縮むことはない。彼女の存在を害さないために彼がするべきことは、ひたすら自分の感情を抑え込むことなのだから。

 ふと自嘲的な笑みを漏らしてから、柳鏡の手が自然に動いた。その指は、絹糸のように柔らかい彼女の髪に絡められた。静かに、その髪を撫でる……。

「あったかい……」

 何も聞こえていない景華は、そう言って淡く微笑み、とろんとした目を閉じた。その後に聞こえて来る規則正しい吐息に、柳鏡は苦笑を漏らす。眠りの淵に運ばれた彼女には、心地良い温もりと、何度も繰り返し髪を撫でてくれる優しい手の感覚が、いつまでも残されていた。

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