旗印と龍神 水面
(お留守番かぁ、つまらないな)
景華はそう思って口を尖らせながら、一月ぶりの家に帰った。中の様子は全く変わっていない。明鈴が綺麗に掃除をしていてくれたおかげだ。いつも食事の支度をする台所も、柳鏡が座るすぐそばにある茶卓の位置も、いつも仕事で泥や血に塗れた彼の服を洗い終えてからしまう衣装箱も、何一つ変わってはいなかった。これの隅に、彼がくれた珊瑚の首飾りが入っていたという。そういえば、小さな布袋を見たような記憶もある。今その首飾りは、彼女の首にかけられ、襟の中に大切にしまわれていた。
(あ、そうだ。ご飯の準備、しておいた方がいいかな)
景華はそう思って、台所の隣に置かれている水瓶を覗き込んだ。当然のことながら、中は空っぽ。水がなくては話にならないので、家の裏手にある小さな池まで汲みに行く。
清龍の里には、浴場と同じようにいくつか生活用水を汲むための共用の井戸があったが、柳鏡はその水よりも裏の池の水の方が清潔だと言って、いつもそちらの方に水汲みに行っていた。村人と顔を合わせないように、という意図もあったのかもしれない。
普段なら柳鏡がやってくれていた仕事だったが、その彼が不在であるために、景華は仕方なく自分で水を汲みに出た。とりあえず、今必要な分だけを確保できる大きさの器を持って。
「わぁ、すっかり緑が濃くなっている」
景華は、昼の日差しを受けながらその葉を輝かせている木々に目を奪われた。むせ返る程の、緑の香り。そして、澄んだ水の香り。
「よいしょ」
誰も聞いていないのをいいことに、そう呟いてから池のほとりに腰を下ろす。水を汲もうと、水面に身を乗り出した時だった。
「あれ、この色……」
一陣の風で、小さな池が波立つ。彼女がふと気付いたものは、その瞬間に掻き消されてしまった。そして、さざ波が治まるのと同時に再び姿を現す。それは、澄んだ水面に映り込んだ柳の葉の色だった。その色に、景華の鼓動が一つ、高鳴る。何の色だろうか。その色は大きな安心感をもたらす色なのに、それでいて彼女の心を小さく、だが何度も波立たせる。……そうか。
「柳鏡の目と、同じ色……」
自分の口から思わずこぼれた言葉に、彼女は納得した。そして、同時に確信した。これが、彼の名前の由来なのだと。鏡のような水面に映る、柳の色。なんと美しく、心惹かれる色だろうか。
「綺麗……」
思わずそう言ってニッコリとする。そうだ、この話は、戻って来たら彼にも聞かせてあげよう。そう考えた景華は、少し惜しい気もしたが、器に水を汲んだ。水面が揺れて、柳の色が消えてしまう。それでも、彼女の心の中にあるその色は消えない……。もうすぐ、その色を瞳に宿した彼が家に戻って来るはずだ。早く食事の支度をしてあげなきゃ、と思って彼女は家へと急いだ。