旗印と龍神 帰還
二人が帰りつく頃には、清龍の里の桜はすっかり葉桜になってしまっていて、初夏の香りが漂っていた。緑の匂いが濃くなり、森独特の木の香りが辺りに立ち込めている。
「あっ、景華おかえり! 柳鏡も!」
里に帰りついた彼らを最初に迎えてくれたのは、柳鏡が春に借りた畑で野菜を世話してくれていた明鈴だった。少し日に焼けたその顔は、瞳の黒い色をより美しく見せている。
「明鈴さん、ただいま! お留守番ありがとう! あのね、お土産に……」
景華が笑顔で手を振って駆けて行く。緩やかな、下り坂を……。柳鏡が、慌てて止めた。
「だから走るな! 転んでも助けねえぞっ?」
やはり景華は、足をもつれさせてバランスを崩した。体勢は……もう立て直せない。せめて手をつこうと思って前に出した彼女だったが、地面にぶつかることはなかった。その前に、柳鏡の腕が彼女を受け止めていたのだ。
「アホが……。あんたみたいのを学習能力がないって言うんだ!」
「柳鏡うるさーい! そんなにお小言ばかり言ってたら、すぐにおじいちゃんになっちゃうよ?」
彼の腕にぶら下がった状態のまま、景華は柳鏡に反抗してみせた。彼の頬が、ヒクヒクと不穏な動き方をしている。こいつは、助けてもらっておきながらそんな生意気なことを言うのか、と……。
「俺が早死にしたらあんたのせいだって訳だ、なんなら毎日夢枕にでも立って呪いの言葉を呟いてやろうか……?」
「ひえぇー、明鈴さん、助けて!」
その一部始終を目の当たりにしていた明鈴は、ある言葉が頭の隅に浮かんだが、ギリギリのところで堪えて口には出さなかった。彼女はあの瞬間に納得したのだ。ああ、これが世に言うバカップルと言うものなのか、と……。よくも人の前でこんなに恥ずかしげもなくイチャイチャと……と思ったが、それも口には出さない。間違いなく大剣の錆にされてしまうから。
「ほら、もういいだけ遊んだでしょ。それで? 亀水の方は?」
そう言いながら景華を柳鏡の腕から引き離し、さりげなく話を逸らす。景華が遊んでないわ、などと言っていたが、それは無視。だんだん、この二人の扱いにも慣れてきた明鈴だった。
「亀水の方でも、協力を惜しまないそうです。まぁ、これでなんとか成功する見込みが出てきましたよ」
「えっ?」
柳鏡の言葉に、景華が妙な声を上げた。明鈴も柳鏡も、その突拍子もない声に驚きの顔を見せる。
「柳鏡、おじいさまに勝率は九割を超えるって言ってなかったっけ?」
「……」
景華のその言葉を聞いた柳鏡は、ばつの悪そうな表情で目線を逸らした。
「あの位はったりかまさないと、協力してもらえないだろうが……。あんた、まさか信じてたのかよ?」
あまりにも素直に頷いて見せる景華に、柳鏡はがっくりと肩を落とした。そういえば、前にもどこかでこんな光景を見た気がする。
「……まぁいい。これでまたあんたも一つ賢くなったはずだ。交渉っていうのはな、時には嘘や見栄が必要になることもあるんだ。わかったな?」
「うん!」
再び素直に頷いて見せる景華に、柳鏡は本当かよ、と言いながら明鈴の方に視線を当てた。
「父上は屋敷の方ですか? 色々と報告をしなければならないのですが……」
「多分ね。行くならついて行くけど? 私も色々と聞いておきたいから」
柳鏡がほんの少しの間思案顔になってから、景華に向かって話した。
「あんたは家で待っていろ。連れて歩くのも面倒だからな。いいな?」
柳鏡の隣で、明鈴が二マーッと笑った。
「疲れているだろうから休んでいろ、ってどうして素直に言えないのかしらねぇー?」
「姉さん、行きますよ!」
柳鏡が明鈴を引きずるようにして連れて行き、後には景華一人が残された。