旗印と龍神 桜園
「それで、お母様? 亀水族の人たちは景華姫に協力してくれるって言ったんでしょう?」
布団を自分の口のあたりまで引っ張り上げながら、小さな女の子が自分の母親を見上げてそう訊ねた。面差しは母親そっくりだが、その瞳の色は父親とよく似ている。隣にいる兄の方は、父親に生き写しだった。だんだんと冷え込んできたので、母親も肩掛けを羽織り直した。
「そう。それで、景華姫たちはいよいよ綿密な、ええと、細かい計画を練ることになったの。でも、景華姫はまだお勉強がたくさん残っていたから、一度柳鏡と一緒に清龍の里に戻ることになったの」
クシュン、と兄の方が小さくくしゃみをした。母親が、その襟元まで布団をかきあげてやる。
「続きを話して! お母様!」
母親は、その言葉に小さく微笑んで応えた。室内の明かりが、少し揺れた。
「柳鏡は、亀水の里からの帰り道は少し遠回りをして、景華姫に色々な物を見せてくれました。綺麗な景色や、珍しい物……。でも、それだけではありませんでした」
「わぁーっ! すごいよ、柳鏡! 見て見て!」
二人は、亀水の里からの帰途にあった。その途中で柳鏡は、景華に色々な物を見せてやりたいと思ってあちこち寄り道をしていた。そして、その内の一つでの景華の第一声が、先程のものだった。
「すごい、とっても綺麗!」
馬車を止めてやると、彼女ははしゃいで飛び出して行った。
「走るな、転ぶぞ!」
「きゃあ!」
彼の警告もすでに遅く、彼女は勢い良く足元を覆い尽くす薄桃色の花びらの中に埋もれた。
ここは桜の木が数多く自生している林で、その中でも飛び抜けて美しいと思われる場所に、彼は彼女を連れて来ていた。何十本もの桜の木が密生し、空を薄桃色に染めている。そしてそれは、彼らが立っている地面にも言えることだった。
「おい……」
彼女がいつまでたっても転んだ状態から起き上がらないことに不安を覚えた柳鏡は、少々大股でそちらへ歩いて膝を折った。その気配を感じた彼女がパッと起き上がって、笑顔を弾けさせる。
「すごい! 柔らかい! 痛くない! これなら柳鏡がいなくても大丈夫ね」
元気に笑う彼女に、呆れ顔で答えてやる。
「あのなぁ……。確かに、俺の仕事はあんたの護衛だ。もっとも、外敵からの、な。床や地面からあんたを護ることは、別に俺の仕事じゃねえんだ。俺がいなくても大丈夫で当たり前だろ。大体、背丈も短いんだから足も短いはずなのに、どうして転ぶんだよ?」
「余計なお世話!」
思い切り彼に向って舌を出してから、彼女はすっと立ち上がった。膝を折った状態のまま彼女を見上げる。
「どうした?」
彼の疑問の言葉に、彼女は振り返って答えた。
「あのね、私、桜の花って近くで見たことがないの。お城の桜は池のそばにあって危険だから近寄っちゃいけない、ってお父様に言われてて……」
「ああ、それは正しい言い付けだ。あんたなんかが池に近寄れば、間違いなく落ちるだろうからな」
「失礼ね!」
両腕をブンブンと上下に振ってみせると、彼女は頬を膨らませたまま歩き出した。
「目の届く範囲にしろよ」
「うん、わかった!」
彼に元気に返事をした彼女は、少し離れた所で足を止める。
「あっ、ちょうちょ!」
真っ白な翅をひらひらとさせて、一羽の蝶が彼女の目の前を通り過ぎた。それを追いかけて走りだした彼女だったが、足がもつれて転んでしまう。
「あーあ、何してるんだよ」
柳鏡は、そんな彼女の様子を見て苦笑した。
転んでしまったその場所から、景華はそのまま空を見上げた。青く澄んだ空、舞い散る幾千もの花びら……。何だかとても感傷的になってしまうような風景に、彼女は胸が詰まった。
一瞬彼女の瞳が切なげに細められた気がしたのは、気のせいだろうと彼は思った。その彼を不安にさせた表情を一転させて、彼女は勢い良く立ち上がる。そして、つま先立ちして精一杯手を伸ばした。しかし全体的に丈が足りない彼女の手は、一向に目的物に届く気配を見せない。彼女が何をしたいのか悟った柳鏡は、黙って立ち上がった。ポキッ、と小さく乾いた音がする。
「ほら」
「ありがとう!」
景華は一生懸命背伸びをして、桜の花を取ろうとしていたのだ。それがわかった彼は、一まとまりの花を手折って、彼女の手に持たせてやった、そしてそれが、白くて小さい手によって深緑の髪に挿される。
「どう? 綺麗でしょ?」
「花は、な」
明るく笑って見せる彼女に、間髪入れず何気ない口調でそう言ってやる。むくれる彼女は、本当のことを知らない。彼が薄桃色の花びらによく映える真紅の瞳、嬉しそうに笑う彼女に見とれていた、なんてこと……。
パキッ! もう一枝折り取って、反対側の髪にも挿してやる。真紅の瞳が、彼女の中にある感情をそのままに映し出す。彼女の柔らかい髪に触れる彼の指先は、ほんの少し震えていた。
「柳鏡?」
彼の様子がどことなくおかしいことに、鈍い彼女も気が付いたらしい。丸い瞳が、ぱちくりと彼を見上げて来る。彼は、身の内に生じた衝動を必死に抑え込んでいた。
「何でもねえよ」
そう言って、必要以上に乱暴に腰を下ろす。薄桃の絹が、ほんの少し舞い上がった。その隣に、彼女もちょこんと腰を下ろす。
「あっ、そうだ。柳鏡、ちょっと動かないでね」
彼女はそう言うと、先に挿した方の桜の髪飾りを抜いて、彼の上衣の胸に挿した。
「これでお揃いね!」
真紅の瞳を細めて、とびっきりの笑顔を見せる彼女。その存在は、彼にはとても眩しかった。許されざる想いが、彼のその身を焦がす。彼女は、魅かれてはならない存在。風に、花びらが乱舞する。それが、深緑の髪にふわりと落ちる……。深緑の地に浮かぶ薄桃色はとても艶やかに見えて惜しい気もしたが、それをそっと払ってやった彼の指は、そのまま彼女の髪に絡められた。
「柳鏡?」
髪に触れる優しい指先と彼の穏やかな表情がくすぐったくて、彼女は何だか逃げ出したい気分になっていた。それでも、その指先の意図が読めないので黙って彼を見上げる……。その指が、彼女の後頭部を捕らえた。そのまま、彼がゆっくりと動き出す。そこでやっと温かい指の真意を読み取った彼女は、真紅の瞳をゆるりと閉じた。時間の流れが、とてももどかしく感じる……。
ふと、何か柔らかいものが彼女の鼻をくすぐった。
「くしゅん!」
ゴッ! 強烈な頭突きが、彼に向って繰り出されてしまった。
「つっ……! あんたなぁ!」
「ご、ごめんね、柳鏡! ごめんね!」
景華の鼻をくすぐってくしゃみを誘発したのは、皮肉にも桜の花びらだった。彼女の頭突きをもろに喰らってしまった鼻を押さえながら、彼は恨みがましい目を向けて来る。
「嫌ならせめて口で言え、アホ。くしゃみのふりして頭突き、なんて、最悪だぞ?」
「違うのー! 今のは本当にくしゃみ! 桜の花びらで、鼻がむずむずしたの!」
真っ赤になって怒るその様子から察するに、どうやらそれは本当のことらしい……。だが、それなら。
「……行くぞ。もういいだろ?」
「柳鏡……?」
立ち上がってくるりと背を向けた彼は、そう言って歩き出した。その背中は、彼女の目にはやけに寂しげに映る。
「待って、柳鏡!」
慌てていつもの距離、半歩の距離まで追いかけた彼女には、彼の深緑の瞳に浮かぶ複雑な色の理由はわからない。
彼女が自分を拒絶した訳ではない。だがそれなら、やはり運命が、二人を許しはしないのだ。彼がその事実のせいで、自身が負わされた運命を呪っていたということに……。
柳鏡の左腕で、紋章が僅かに疼いた。
このお話は新しく書き加えた部分です。お楽しみいただけたでしょうか。
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