華と龍神 逆転
亀水の里は、湿地の中にあった。さすが、水の神である玄武を祀っている里だ。景華と柳鏡は里のそばにある関所で、商売をしたい、と里への用向きを話し、案内人によって里の中に招き入れられた。亀水の里も、清龍の里と同じように、玄武の血を引く者でなければ見つけられないように守護の呪文がかけられている。
「亀水ノ長ニ織物、献上スル。会イタイ」
柳鏡がそう言うと、長の館に仕えている侍女がやって来た。
「長は明日までは予定が詰まっています。明後日以降になりますよ?」
その口調が、暗に彼らを長が歓迎していないことを意味していた。おそらく、商人などと会うのは面倒だと思ったのだろう。それに、趙雨の人事のせいで虫の居所が悪かったのかもしれない。
「待ツ……。ソノ、馬車」
柳鏡が乗って来た馬車を指差し、侍女はわかりました、と言って戻って行った。おそらく、商人はどうしても長に直接会いたいらしいと伝えるのだろう。
「まぁ、どんなに早くても長に会うのは明後日だな」
柳鏡はそう言って馬車の荷台に横になった。荷物の間に、人一人が横になれる分の空間があるのだ。いつもはここに景華が横になっていたので、柳鏡は御者席に座ったまま眠っていたのだが、それも仮眠程度のものだった。本当に眠るのは久しぶりだ。二人は今、里の外れに馬車を止めている。案内人が指定した場所だ。
「そうだね。おじいさまに会ったら、まずなんて言えばいいのかしら?」
景華は、普段柳鏡が座っている場所で膝を抱えていた。今夜はどうしても、そこで休むと言って聞かなかったのだ。
「まぁ、あんたは挨拶程度でいいさ。面倒な説明は俺が全部してやるよ。後は、聞かれたことに答えるだけでいい……」
欠伸混じりの声がそう言った。やはり、かなり疲労が溜まっていたようだ。彼女は、それがわかっていたので荷台の場所を彼に譲った。
「うん。ありがとう、柳鏡……。おやすみ」
春の夜は、まだ相当寒い。荷台は他の荷物があったりして暖かだったが、御者席はそうもいかなかった。柳鏡は、すでに規則正しい寝息を立てている。彼女は空を見上げた。今夜も、快晴だった。ふと、襟の中から首飾りを取り出す。それは、星明かりを受けて赤く煌めいた。柳鏡の、母親の形見……。
(どうして、こんなに大切な物くれたんだろう……?)
考えれば考える程わからなくなる。おそらく彼があの時不機嫌になった理由は、彼女がその意味を理解しなかったことだ。彼女の胸の中に、まさか、と思って浮かんではすぐに消えていってしまう考えがある。そんなはずがない。彼は子供の頃から意地悪で、乱暴で。対する自分も意地っ張りで、可愛げがなかった。それなのにどうしても一つ、都合の良い考えが浮かんでしまう……。
「私、変なのかも……」
ポツン、と呟いてから、苦笑が漏れた。彼が起きていたらきっと、元からだろうが、と言うに決まっている。彼は本当に口が悪くて、意地悪で、面倒くさがりで……。明鈴に聞かせた言葉が、彼女の頭に蘇る。でも、それでも。
(好き)
趙雨のことを聞いた時、明鈴が景華に言った言葉がある。失恋の傷は、新しい恋で癒せばいいんだよ、と。そんなつもりは全くなかったが、あの清龍の里で暮らす内に、景華の心に芽生えた感情があった。それが、先程の柳鏡に対する気持ち……。
いや、正確に言うと、芽吹いた、という言葉も正しくはない。具体的にいつから、ということが彼女自身にも記憶にない程、昔からあった感情。それが目覚めたのが、今更になってだったのだ。景華は清龍の里で過ごす内に、彼の不器用な優しさが彼女の心に残った傷を癒し、それと同時に、無条件に差し伸べてくれるその手のぬくもりが、自身に何よりも必要だったということに気が付いた。それが、彼女の心の奥深くに眠っていた感情を揺り起こしたのだ。
「柳鏡の、馬鹿……」
ここまで来れば、もはや八つ当たりと言う他ない。ただ、彼が自分の気も知らずに安息を得ているのが妙に腹立たしかった。いつもはこの逆であることを、景華は知らない。たった一つ、星の明かりだけがそんな彼女に同情を示すかのように、キラリと煌めいた。