華と龍神 月夜
あくる日の夜、父親に呼ばれたとかで、柳鏡は家を空けた。景華は一人で繕い物の仕事をしながら、彼の帰りを待っていた。よく晴れていて、ふと窓の外を見上げた景華の瞳に、満天の星空が映し出される。そうしていると、昔はよく父の膝に乗せてもらって一緒に星を眺めていたな、ということが急に思い出された。しかし今、彼女は一人でその空を眺めている……。
「柳鏡、遅いな……」
月の位置がかなり高くなっていることから、景華はふとそう思った。真珠のような月は、中空近くまで昇っている。
「どうしたんだろう? 何か良くない話だったのかも……」
そう思って不安げに眉根を寄せた時だった。
ガタンッ! 戸口で突然物音がしたので、景華の肩が一瞬すくんだ。慌ててそちらに歩く。
「誰?」
「こんな時間に客が来る訳ないだろ」
前に確かめろと言ったくせに、と思いながらも、その声に景華はほっとしてかんぬきを外し、戸を開けてやる。
「随分時間かかったのね」
「ああ、趙雨の奴がとんでもないことをやらかしてくれたからな……」
「え?」
そのまま彼が定位置に腰を下ろしたので、彼女もその隣に座った。普段は微塵も感じさせないような黒い感情の渦巻きを、彼は抑えることもできずにいる。その様子から景華は、彼が聞いて来た話は間違いなく悪いことだと悟った。それも、おそらくは最悪のこと……。
「あんた、死んだことになっているぞ。一週間前に川から死体であがったことになってる。朽ちていて誰の死体かわからないそうだが、髪の色があんたと同じだったのと、あんたの簪をつけてたとかで断定されたらしい。あいつら、俺たちが見つからないものだからそんな手に出やがった!」
そう話す柳鏡は、ものすごい剣幕だった。握り締めている拳は、血管が浮き出てぶるぶると震えている。
「でも……私、生きているのに……」
「そうだ。でも、見つからないから始末することもできないし、おそらく俺たちには何もできないと思っていやがる。だから、そんな卑劣な手に出たんだろ……。しかも、それだけじゃない!」
柳鏡の話が続けられた。趙雨に対する激しい憎悪が、彼の言葉の端々から感じられる。燃えたぎる怒りが、その全身を駆け巡っている……。
「あいつ、あんたの死体もあがって王家の直系が絶えたから、法によって継承権を得ている自分が王になる、なんて言い出したんだ! そして自分の王位継承を認めさせるために各部族長を召喚するそうだ! いいか? 陛下を殺害した真犯人でありながら、そんなことを言い出したんだぞ!」
柳鏡は怒り心頭に発するという様子で、そこまで一気に景華に聞かせた。一方の景華はなぜか冷静で、そこまで柳鏡が話し終えてから、彼に水を差し出した。
「ああ、悪ぃ……。……おい、どうしてあんたは怒らないんだよ? 自分の死体まで仕立て上げられて、死んだことにされたんだぞっ?」
景華も、ふとそれを疑問に思った。確かに、その仕打ちは許せるようなものではない。でも。
「うーん……。なんか、柳鏡が私の分まで怒ってくれてるから気が抜けちゃって……」
「は?」
柳鏡はそんな彼女の発言を訝しんだが、それはまさに彼女の今の心情を的確に表現した物だった。
「それで? 連瑛様は趙雨を王に承認されるの?」
景華はうまく話をすり替えて、柳鏡の気を逸らした。
「……ああ、反対したら、俺たちを匿っているのがばれるかもしれないからな……。あんたが本当に死んでいたら、趙雨の王位継承権は正統な物だし……。清龍の里は外交用の里と、こっちの本当に生活をする里とに分かれているんだが、外交用の里には城からの迎えも来ているしな」
「そう……」
景華の表情が曇ったのを見て取った柳鏡は、何か言わなくてはと焦った。その表情が、たまらなく寂しげに見えたからだ。
「ああ、でも、ほら。あんたが生きているのがわかれば、趙雨の罪が少なからずあきらかになる訳だし。王位の奪還も、少しはやり易くなったってことだ」
「うん……」
だから、そんな顔をするのはやめてくれ……。彼は、その言葉を辛うじて飲み込んだ。父親を殺し、自分を裏切った婚約者が、今度は自分を亡き者に仕立て上げた。その心情は、柳鏡にははかり知ることもできない。それでも現実を受け止め、耐えている彼女に自分がしてやれることは、安心して泣ける場所、辛い時に寄りかかれる場所を提供してやること位だ……。
「……泣きたきゃ泣けよ」
「へ?」
突如柳鏡が発した不器用な言葉に、彼女はあっけにとられてしまった。
「別に、我慢しろなんて言わねえよ……。辛いだろ?」
そのまま視線を逸らす。景華はその様子を見て、気弱な笑みを浮かべた。
「うん……。でも、平気だよ? 柳鏡、泣かれるの嫌いでしょ?」
その言葉には、彼は答えなかった。確かに、彼女に泣かれるのは嫌いだ。でもそれは、単にメソメソとされるのが嫌な訳ではなく、彼女の心を守り切れなかった自分の不甲斐なさを思い知らされるからだ。
「それにね」
景華の言葉が続く。今度は、彼女はニコッと微笑んでみせた。
「前とは違って、一人だって思わなくてよくなったから、平気なの。柳鏡もいてくれるし、ね?」
「っ……!」
顔が熱い。彼は、夜の闇が部屋の中を支配していることに感謝した。もし、昼間の明かりの中なら、彼女に全て見られてしまったはずだ。自分の頬が真っ赤な色をしていることも、心臓が抑えようもない程暴走していることも……。それでも。
「調子に乗るな」
彼は恥ずかしさを誤魔化すために、景華の額をピンッと指で弾いた。彼女が痛っと言って、抗議の視線を彼に向けてくる。彼は、その短い時間で冷静さを取り戻していた。
「とにかく、あいつらの妙な策略はうまく使えばこっちもいいように使うことができる。あんた、亀水族の長には会ったことがあるか?」
景華がきょとんとした。
「おじいさまでしょ? もちろんよ」
景華の母は、亀水族の族長の娘だった。彼女の深緑色の髪は、この母親譲りのものだ。
「そうか、そう言えば王妃様は、亀水の出身でいらっしゃったからな。今度の趙雨の即位式が終われば、どの一族の長も里に戻るはずだ。それが終わったら、会いに行くぞ」
景華が、先程の表情のまま目をぱちくりさせた。
「どうして? それに、私たちを見つけたら捕まえろって命令が出てるはずよね……?」
柳鏡がわざとらしく溜息をついた。
「あんたなぁ……。反乱の際の助力を求めに行くに決まっているだろうが。清龍の兵士たちだけじゃあ全然数が足りねえんだよ。砂嵐族はどっちに転ぶかわからねえし。大体、死んだ奴を捕まえろなんて命令がどうして出ているんだよ? あんたが死んだから命令は解除に決まっているだろうが。まぁ、俺はまだ危ないからな、変装でもして行くさ」
「どんな風に……?」
柳鏡が少しの間腕組みして唸った。
「そうだな……髪を染める位かな? 目の色は変えられねえし……。あとは、服装だな。異国の商人のふりでもして行くしかないだろ」
少し考えただけで、彼は綿密な計画を練っていく。景華は、彼のその力が羨ましいと思ったが、それは彼が今までに数多くの苦難を乗り越えて来た証でもあった。
「よし、それで決まりだな。あんたも俺も、西の国の商人のふりをする。虎神族の奴らに見つかったら厄介だからな、あんたも念のために変装した方がいい。俺は髪の色も変えるが、あんたはそのままだ。そうしないと、亀水の長に会ってもあんたが誰かわからないからな」
「うん、わかった」
景華が元気よくそう返事をする。
「まぁ、もしそれでも俺たちだってばれたら……」
柳鏡の口調が急に暗くなった。その様子に景華もごくりと唾を飲み込んで、続きを聞く態勢を整える。
「全員俺がぶった斬る。わかったな?」
「ぷっ」
景華の肩の力が抜けて、思わず笑みがこぼれた。深刻な話かと思えば、彼の解決策はあまりにもあっさりしている。それでも、自分を気遣ってそんな話し方をしてくれる彼に、景華は内心感謝していた。