華と龍神 後悔
夜になって、景華はいつものように柳鏡に兵法を習っていた。昼間のことがあったせいだろうか、何となく心が震えて落ちつかない。柳鏡がお茶を飲もうと器を手に取る度に、ビクリと体を震わせる始末だ。
「おい、どうした? あんた、さっきからおかしいぞ?」
「なっ、何でもないよ!」
あきらかに挙動不審なのだが、彼女がそう答える以上は仕方がない。いつものように誘導尋問で聞きだすことも可能なのだろうが、ひどく悩んでいる様子でもないので、そこまでする必要はないだろう。彼はそう考えて、考え事をする時間、休憩の時間を取ってやることにした。
「ほら、休憩だ。考え事しながらやったって、あんたの悪い頭に入る訳ないだろ?」
「失礼ね!」
そう答えながらも、考え事をする時の体勢、膝を抱える姿勢を取る。彼女の溜息に合わせて、室内の明かりが柔らかく揺れた。
「……ねえ、柳鏡?」
「何だよ?」
急に考え込むような表情を見せた彼女は、そのまま真剣そのものといった声音で彼に話しかけて来た。できるだけ真面目に返事をしてやろうと心の中で密かに誓ってから、その声に答えてやる。
「柳鏡は……好きな人って、いないの?」
「ぶっ!」
ゴホ、ゴホッ! あまりに突拍子のない、予期することも不可能だった質問に、彼はひどく動揺してしまい、口に含んでいたお茶をあらかた吹き出してしまった。お茶が入った器も彼の手から滑り落ち、机の上にあっという間に池ができる。
「もう、大丈夫?」
仕方ないなあ、と言いながら景華は机の上にこぼれたお茶をふき、彼の背をさすってやった。お茶がどこかおかしな所に入ってしまったらしく、彼はしばらくむせ込んでいたが、やがてそれはピタリとやんだ。実際にはとっくにおかしな引っ掛かりはとれていたのだが、背中に添えられた手の優しさが嬉しくて、ずるいかな、とは思いながらもむせ込んだふりをしてしまったのだ。
「ああ、もう大丈夫だ。どうして突然そんなこと聞こうと思ったんだよ?」
「あ、ほら、昼間の子たち、かわいかったでしょ? だからね、もしそうだったなら邪魔して悪いことしたな、と思って……。明鈴さんが、最近よく来てる子たちだって言ってたから」
本当は、少し違う。自分が、なぜかはっきりさせておきたかったから。それを彼に伝えられずに、彼女は真紅の瞳を物憂げに伏せた。彼はその短い時間に余裕と言うものを取り戻したらしく、意地悪くニヤリと笑った。
「あんた、それ、冗談抜きに焼き餅か?」
「……もしかしたら、そうかも……」
そこで敢えて否定しないのかよ、と思いながらも、彼女のその言葉にどう答えていいものか迷った。下手な期待を持たせるのはやめてくれ、と心の中で呟きながら……。
自分の想いに気付かせる訳にはいかない。それだけは、彼の中では変わらない決意だった。他に頼るもののない彼女の弱みをつくような卑怯な行為だけは、彼はしたくないと思っていた。
「……俺にだって、多少大事に思う奴位いるさ。でも別にこの先どうこう、とかいうことを考えてる訳でもねえし」
「そっか、そうなんだ……」
何かが、彼女の中で疼いた。チクリ、と心に刺さった何かが痛い。そうか、彼も、いつかは自分を置いて行ってしまうのか……。膝を抱える腕に、ギュッと力が込められる。その痛みの、正体は。
(私、柳鏡のことが好きだったんだ……)
それは彼女の中に、ストン、と素直に落とされた。そして、心に小さな波紋を広げて行く。趙雨に対して感じていた好き、とは、何かが違う。心の芯から温まるような、趙雨への温かい想い。それは、今でも消えずに彼女の中に残されている。それとは大分違っていたので、自分でも気付かなかった。彼に対する好きは、もっと熱く、苦しく、切ない……。その想いがあまりにも苦しいから、小さな頃から今まで、見ないふりをし続けてしまっていたのだ。でも。
(今更気付いても、遅いのに……)
後悔の念と、自責の念。もっと早くに気付いていれば、おそらく彼女は何も失わずに済んでいた。優しい父親の死も、恐怖に震えながらの逃亡も、親友たちの裏切りも、何も経験する必要などなかったのに。元はと言えば、趙雨との婚約がこの悲劇の発端だったのだから……。それに。
それに、今更自分の想いを認識しても、彼に想う人がいるのならば、どうしようもない。
「お馬鹿過ぎて、嫌になっちゃう……」
彼女が再び本を開いたので、彼は、兵法が頭に入らないことで彼女が自分を責めているのだろうと勘違いをした。
「元からだろ」
それだけ言ってまた師匠の顔に戻った柳鏡に、景華は曖昧な笑みだけを返した。




