華と龍神 初雪
「ふぅ、最高ね!」
明鈴がお湯につかって早々、そう声を上げた。景華も、ニッコリと笑ってその言葉に頷く。清龍の里にはいくつか公共の浴場があり、彼女たちは、その内の一番近くの浴場に足を運んでいたのだった。
「柳鏡ー、そっちは?」
明鈴が竹垣の向こうにそう声をかけた。
「繋がっているんだから、同じに決まってますよ!」
そして、反対側からも同じように答えが返って来る。この浴場は竹垣を隔てて男湯と女湯に分かれているので、反対側の会話も聞き取ることができた。珍しく貸切の状態だったので、いつも以上に声が聞き取りやすい。
「景華、体洗っちゃおうか。ついでに髪、洗ってあげる」
彼女が頷いたのだろう、その数秒後にザバッとお湯からあがる音がした。続いて、お湯をかける音。
「うわっ、景華肌すべすべ! 一体どんな手入れしてたらそうなるの?」
柳鏡の口が、湯船の中に沈んだ。空気を長く吐き出して、お湯をブクブクと言わせている。どうやら、隣から聞こえてくる音をかき消すつもりらしい。
「髪もさらさらだし、羨ましいなぁ。……え、なになに?」
そんな彼の努力も虚しく、隣からの会話は、まだ聞こえてくる。
「明鈴、さんは……スタイ、ルがいい……から……羨まし、い? そりゃもう二十歳だからね、景華も私位の年になればこの位になるよ。え? 疑わしい?」
おそらくじとーっとした目で明鈴を見上げたのだろう、柳鏡にはそれも予想がついた。
「何よー、信じなさいよ。お嫁さんになる頃にはきっと、ね。まぁ、ダメだったら柳鏡のお嫁さんにしてあげるよ!」
明鈴のその言葉で、柳鏡は湯船の中に完全に沈没した。
浴場でそのまま明鈴と別れて、景華と柳鏡は家へと戻った。外はかなり寒かったが、湯船からあがったばかりの彼らにはそんなことは関係なかった。帰りも、景華の手には荷物が提げられていない。
「……」
ふと景華が立ち止まって、空を見上げた。そして、その手をそっと空に向けて差し出す。手のひらに、ふわりと冷たい物が乗った。
「どうした? ……ああ、雪か。初雪だな」
柳鏡も立ち止まって、空を見上げる。真っ暗な空から、白い綿がふわふわと落ちてくる……。じっと空を見つめている景華に、ふと彼は問いかけた。
「そう言えば、あんたひょっとして雪を見るのは初めてか?」
空からほんの少し目線をずらして、すぐ隣に立っている頭一つ半位背が高い、彼の瞳を見上げた。それだけで、彼はきっと理解してくれるだろう。
「そうだな、城の辺りでは降らないからな」
そう言って空を見上げる柳鏡の息が白く曇った。その光景で、自分たちが寒い場所にいることを思い出す。お湯で温まった体も、いつの間にかすっかり冷えてしまっている。景華は、ぶるっと身震いした。
「寒いのか?」
その言葉には答えず、またじっと彼を見上げる……。
「早く言えよ。さっさと帰るぞ」
やっぱり。彼は、自分が考えていることを言葉に出さなくても簡単に理解してくれる。しかも、おそらくは短い答えなら、一字一句違えることなく。それに気付いたのは少し前だったが、もうあまり驚かなくなっていた。そして、その優しさに甘えてしまっている自分にも同時に気が付いた。甘えてはいけない、頼ってはいけないと思いながらも、心の奥底では常に彼の存在を期待しているのだ。
(ダメだってわかってるのに……)
眉根を寄せて、唇を噛み締めて俯く。彼女にとって、彼の存在はいつまで経っても甘えから脱出できない自分の存在を知らしめる物となっていた。もちろん、原因があるのは景華の方だ。
「何だよ、具合でも悪いのか?」
自分の顔を覗き込む彼に、慌てて首を振って見せる。そして、珍しく読み違えてくれたことに感謝した。いや、実際は柳鏡には景華が何か考え事をしているのだろうということがわかっていたが、彼女がああいった顔で考え事をする時は触れて欲しくないことについて考えている時なので、敢えて間違ったふりをしたのだった。
「着いたぞ」
柳鏡の声に、景華は視線をあげた。気付けば、そこはすでに家の前だった。先に戸口をくぐった柳鏡が、景華も家に入るのを待ってから後ろ手に戸を閉める。そしてそのまま、明かりを灯しに動いてくれた。それを台所の方へ持って行ってやると、景華がニコリと微笑んで夕食の支度を始める。彼の定位置である家の中央の茶卓の前に腰掛けて、柳鏡はその様子をじっと見つめた。さっき考えていたことはなんだろう、と思いながら……。いくらでも考え付く選択肢はあったが、おそらくそのどれでもない。柳鏡に考え付くものの多くは、彼女がすでに乗り越えたと思われる問題だった。例えば、趙雨のこと……。
「いや、あれは違うな……」
小さく呟いて、彼女の耳にその声が届いていなかったことを確認する。どうやら、材料を切る音にうまく紛れたようだ。それに、彼女からそれに対する答えはすでに聞いていた。趙雨に好かれなかったのは自分に悪い所があったせいだ、春蘭が彼の理想の女性なら二人を祝福する、と……。彼女は、ふっきれた顔で彼の手のひらにそう文字を落としたのだ。
「じゃあ、何なんだ……?」
彼女にとっては触れて欲しくないことだろうと思ってはいるが、あまり悩むようならそれを吐き出させる必要もあると、彼はよく物思いに耽っている彼女を見て、常に感じていた。
「っ……!」
「どうしたっ?」
彼女が急に声にならない声をあげたので、彼は驚いて駆け寄った。原因はすぐにわかった。彼女の指先から、血がうっすらと滲み出ている。包丁でほんの少し指を切ったようだ。迷わずにそこに唇を押し当てた柳鏡の口の中に、鉄の味が広がった。
「後は洗うだけだ……。ったく、ボヤボヤしながらやったら危ないだろうが! 何を考えていたっ?」
彼の我慢は限界だ。考え事をしていて怪我をされたとあっては、この先も不安で仕方ない。景華は、ちょっと手がすべっただけ、と言い訳をした。柳鏡の右手が、グッと景華の腕をつかんだ。
「嘘つけっ! 最近ずっと何か考えているだろ! さっき外でボーっとしていた時だってそうだ!」
景華は驚いて顔を上げた。まさか、ばれていたとは……。でも、自分が何を考えていたのかは言えない。特に、彼には絶対に。言ってしまえば、自分を守るためにここまでしてくれている彼の心に深い傷を負わせるようなことになりかねない。その一心で、本当に大丈夫、と彼の手に記す。彼がその嘘を信じてくれると祈りながら。
「どうして俺にも嘘をつくっ? そんなに俺は信用できないかっ?」
懸命に首を振る景華の様子を見て、柳鏡も心が痛んだ。本当は、彼だってこんな彼女を追い詰めるような真似は、したくない。いつかは、自分に打ち明けてくれると思っていた。だがその気配は一向になく、彼女は自分を責めるようになっていった……。そして、それを見ているだけの自分にも腹が立っていた。
この際、荒療治だが仕方がない。
「いつもそうやってあんたは誤魔化すんだ! どうして一人で抱え込もうとするっ? そんなにあんたの周りは頼りない奴ばかりなのかっ?」
先程と同じで、景華は力一杯首を振った。頼りないんじゃない、頼り過ぎて困っているんだ、ということを伝えたくて。
「それとも、周りを頼り過ぎているとでも思っているのかっ?」
ほら。どうしていつも、そうやって……。
(私が考えていること、わかっちゃうの? どうしていつも、甘えたくなっちゃうの……?)
視界がぼやけて、目の辺りが熱い。それでも、それを見られないように俯くことは忘れない。景華の様子から、柳鏡は自分の言ったことが図星だったことを読み取った。そして、自分が優しさだと思ってやっていたことが、彼女をがんじがらめに縛っていたということも……。
「あんた、本当に馬鹿だな」
自分の右手から、彼女が震えているのが伝わる。それでも、自分には決して涙を見せないようにする意地らしさが、本当に愛おしくて……。自然と、彼の二本の腕が小さな背中に回された。
「周りを一切頼らないで生きていける人間がいる訳ないだろうが。そんなに、俺や姉さんに頼るのが嫌だったのか?」
ふるふると彼の腕の中で首を小さく振ってから、右手で彼の左手を探す。仕方なく、彼は背中に回した腕をほどいた。
「甘え、ちゃいけない……のはわかって、いるのに……すぐに、甘えたく、なる……自分、に腹が……立つ。誰がいつ甘えちゃいけないなんて決めたんだ? そんな決まりないだろうが」
続きが、小さく迷いながら綴られる。
「王様、になっ……たら、誰……にも頼れ……ない? 別にそんなことないだろうが。ちゃんとした大臣を選べばいいだろ?」
おそらくその先を言うべきかどうか戸惑っているのだろう、やけに長く時間を開けてから、細い指が再び動いた。
「……一人じゃ何もできない、自分が、嫌? あんたなあ、そんなに何でも一人でできたら、誰も苦労しねえだろ?」
さらに迷う気配を漂わせてから、再び冷たい指が彼の手のひらの上を走った。
「それに……柳鏡、には頼……ってばかりで……迷惑、ばかりかけて……いる? ほう、俺に迷惑を掛けているという自覚はあったのか」
そのほんの少し嫌味な調子の言葉に、景華は小さく頷いた。
「それなら、もうこんな隠し事は金輪際やめることだな。あんたが一人でウジウジ悩んでいると思うと、こっちも気が気じゃないんだ。大体、あんたが俺に迷惑を掛けるのは今始まったことじゃないだろうが。今更気にするなよ」
ぶっきらぼうで、癪に触るような言い方で。それなのに、とても優しく感じるのはどうしてだろう?
「それに、あんたに迷惑かけられるのだってそんなに嫌じゃねえし……。むしろ、頼りたい時に頼ってもらえる方が、その……何となく嬉しいし……」
心に凝り固まっていたしこりが、溶けて行くのを感じる。
「ありがとう」
小さく、そう呟いた。
「は……?」
柳鏡が何やら奇妙な声を上げた。そしてその後、景華の肩をガッチリとつかんで揺すった。
「おい、あんた今ありがとう、って言ったよなっ? 俺の空耳じゃないよなっ?」
「へ……?」
そしてそれに驚いた自分の声が、確かに景華の耳に届いた。随分久しぶりに聞いた、懐かしい声……。
「声……。声が出る……! 柳鏡、私、声が……!」
戻った、という言葉を紡ぐ前に、彼女の体は彼の胸にすっぽりと包まれた。その腕に、先程とは違って強い力が込められる。景華の目から涙が、ぽとりとこぼれた。
「ああ、戻ったみたいだな……」
彼の声が、ほんの少し震えている。彼女の痛みも、喜びも、彼はいつも一緒に感じてくれた……。
「あのね、柳鏡。ありがとう。本当に、ありがとう……。治ったらまず、柳鏡にお礼がたくさん言いたかったの」
「そりゃ光栄だ」
いつもと同じ口調なのに、どことなく柔らかい。
「あの時、私を連れて逃げてくれてありがとう。それから、龍神の紋章を解放してまで私を助けてくれてありがとう。あの時、私は私だって言ってくれたこと、ありがとう。皆を頼ってもいいんだって教えてくれたこと、ありがとう……。それから」
景華は彼の腕をほどかせてその瞳を真っ直ぐに見つめた。それから、小さく目を細めて微笑む。
「いつも、ありがとう……」
大好き、という言葉を心で呟きながら、彼女はそう言った。柳鏡は照れた時に特有のあの仕草で景華から視線を逸らして、長い指を黒いくせ毛に絡ませる。
「別に。礼を言われるようなことはしてねえよ」
その不器用な言葉の陰に隠された同じ位不器用な優しさは、彼女を何度も癒してくれた。その言葉に小さく微笑み返して、彼女は作りかけだった夕食を再び調理し始めた。彼女は二度と指を切るような失敗はしないだろう。
初雪は本格的な冬を知らせるだけではなく、失った声が戻って来ることをも告げていたようだ。次の朝、明鈴に会ったら最初に何と言おうか。景華は、そのことばかりを考えながら眠りについた。
こんにちは、霜月璃音です。
初雪なんて季節はずれだな、とふと思ってしまったのですが、いかがでしたか?
もしよろしければ、一章が終わっての感想などをお聞かせいただけると嬉しいです。
どうもありがとうございました。