姫と龍神 告白
「お姫様は、春蘭、趙雨、柳鏡という友達に囲まれて毎日を楽しく過ごしていました」
母親が、そこで話を一旦区切った。
「それで? どうなるの?」
子供たちがまだ起きていることを確認すると、母親はまた話を続けた。
「やがて、お姫様たちはどんどん大人になっていきました。そして、柳鏡と趙雨は立派な青年に、景華姫と春蘭も素晴らしい女性にそれぞれ成長していきました。そしてお姫様は、趙雨に恋をしました」
「どうして?」
小さな娘が、気に入らないというように小さなその口を尖らせた。
「どうして柳鏡じゃあないの? 喧嘩するほど仲がいいって、私聞いたことあるのに」
母親は、そっと口元を綻ばせた。
「そうねぇ。でも、この時のお姫様は、いつもいつも優しくしてくれる趙雨の方が好きだったの」
「ふうん」
まだ納得のいかない様子でいる娘を優しく撫でながら、母親は話を続けた。
「そしてお姫様は、十六歳になったある日、思い切って趙雨にそのことを話したのです」
「ゴホッ、ゴホッ! うう……」
熱風邪を引いてしまった景華は、自室の寝台に横になっていた。部屋の戸口、彼女から見える所には、相変わらず黒い髪を無造作に切った、護衛の青年の姿。
「柳鏡」
「何だよ?」
面倒そうに答えてから、立ち上がって彼女の枕元まで歩いて来てくれる。それから、熱に浮かされている真紅の丸い瞳を覗きこんだ。
「お水、飲みたい」
「面倒だな」
そうは言いながらも、彼は枕元の水差しに入っていた水を器に移してから、彼女を抱き起した。
「おい、女官はどうした?」
水を一口、緩慢な動作で口に含んでから、彼女がその言葉に答えた。
「柳鏡がいるから、他のお仕事してって言ったの。女官のお姉さんたちは、忙しいから」
「ほう、俺が暇だって言いたいのか?」
彼女が水の入った器を手渡して来たので、それを枕元の机に置いて彼女を寝かしつける。景華の白い手が、布団を首まで引っ張り上げた。また咳き込んでから、目を閉じる。
「だって、護衛のお仕事でずっとそこにいるんだもん。ついでだから、いいの」
「勝手に決めるな、アホ。いいか? 俺にうつしたらあんたに看病させるからな」
彼はそう言って、再び戸口、彼の定位置に戻って行った。
それからしばらく経った、ある日。初夏の風が、森のすがすがしい香りを城の中にまで運んで来る。十六歳になった景華は、少しだけ緑色がかった髪を、背中まで伸ばしていた。それに比べて瞳の色は相変わらず、不純物の一切混じらない真紅の色だった。まだほんの少しふらつく体で起き上がった彼女は、新鮮な空気を吸いたくて廊下に出た。
「あ、趙雨!」
彼女がその途端に出くわしたのは、一番会いたかった人だった。
「やあ、景華姫。今日はお見舞いに上がったのですが、もうお加減は良さそうですね。安堵しましたよ」
「うん、もう大丈夫よ」
その答えを受けてより一層嬉しそうに微笑む趙雨に、景華も幸せそうに笑みを返す。
「さっき柳鏡と会いましたが……」
「あ、うん。お見舞いに来てくれてたの。と言っても、私専属の護衛に雇われてるから、ずーっとそこにいたんだけどね。俺にうつしたらあんたに看病させるからな、とか言いながら」
趙雨がぷっとおかしそうに吹き出した。
「そうですね、その光景が目に浮かびますよ。あの柳鏡ならそう言うでしょう」
「本当に。趙雨はこんなに優しいのに、大違いだわ」
そう言ってつんとふてったような仕草を見せた景華の姿に、趙雨は柔らかく目を細める。
「当たり前だ。皆が皆あんたを甘やかすと思ったか?」
背後からの声に、二人が同時に振り返った。
「な、いつからいたのよ! と言うか、どうして戻って来たのよ? 休みに行ったんじゃなかったの?」
「あのなぁ、誰か他の奴に交代してもらってからでないと、休める訳ないだろうが。警護っていうのはな、面倒なことに四六時中あんたのそばに控えてないとならねえんだよ。……」
柳鏡はそこで意味ありげな沈黙を一瞬持たせ、じっと趙雨を見た。
「そういう訳で頼んだぞ、趙雨。じゃ」
柳鏡はそう言うと、軽く手を挙げて踵を返して行ってしまった。
(え、今のって、気を使ってくれたの?)
景華は一瞬、自分と趙雨が一緒にいるのを見て、柳鏡が気を利かせてさっさといなくなったのかと思った。
(そんな訳ないわね、あの柳鏡に限って)
景華がじとーっとした目で柳鏡の後姿を見つめていることに気がついて、趙雨は一呼吸置いてから景華に話しかけた。
「そんなに気になりますか、柳鏡が?」
景華の顔が、一瞬にして真っ赤になる。
「そ、そんな訳ないじゃない! 柳鏡は昔からただの喧嘩友達で……」
いつもは優しい趙雨の笑顔が少し強張って見えるのは、単なる彼女の思い過ごしかもしれない。でも……。
「ご、誤解しないで。私が小さな頃からずっと好きなのは、趙雨だから……。趙雨には、誤解されたくないの……」
言ってしまった後で、景華はハッとした。自分はなんということを言ってしまったのか! でも、もう後には引き下がれない。たとえどんな答えであっても、彼なら今までのように優しく接してくれるだろう。そう思っていながらも、やはり答えの恐ろしさから逃げ出したくなり、彼女はギュッと目をつぶった。
ポン、と温かい手のひらが彼女の頭の上に置かれた。
「よく言えましたね。あなたのそういう勇気のある所が、私も好きですよ」
「へっ?」
景華は、状況が飲み込めずにポカンとした顔で、彼女より頭一つ分背が高い趙雨の顔を見上げた。
「私も、姫様を長年お慕いしておりました」
「っ……」
景華は文字通り言葉をなくし、真っ赤になった顔の口元に手を当てた。
「……」
柳鏡は景華に薬を飲ませるのを忘れたと思って戻って来ていたが、柱の陰から出るに出られなくなってしまった。真紅の瞳が嬉しげに細められると、胸が痛む……。
(いつかこんな日が来ることはわかっていたはずだ。この日が来たら、笑って祝ってやろうと思っていたのに……)
「ダメだな、まだ、自信がない……」
彼は柱の陰というなんともいたたまれない場所から、景華の幸せそうに輝く笑顔を見つめていた。