華と龍神 姉弟
すっかり暗くなった窓の外をよそに、室内からは子供に物語を聞かせている母親の声と、その声が止む度に続きをせがむ子供の声がしていた。
「ほら、そろそろ寝なさい。続きはまた明日ね」
そう言って自分たちの頭を撫でる母親に、幼い兄妹は口々に抗議の声を上げる。
「ダメ、お母様! まだやめちゃダメ!」
「まだ眠くないよ、お母様! それに、今やめたら続きが気になって仕方ないじゃないか!」
兄のその言葉に、妹の方も二度、頷いてみせる。これは強い肯定を表す時に彼女が見せる動作で、この娘は姿かたちだけではなく、細かな動作までが母親とそっくりだった。
「仕方ないわね……。じゃあ、続けますよ?」
「「うん!」」
母親のその言葉に声を揃えて頷くと、二人は母親を見上げて押し黙った。
「それから景華姫は、柳鏡や明鈴に手伝ってもらって、より良い国を創るための色々なお勉強を始めました」
「ほら、あんた用だ」
そう言って、景華の目の前に細身の剣が差し出された。剣を差し出した長身の青年は、くせ毛の黒髪を無造作に切っていて、深緑の、どことなく不思議な色合いの目をしている。
差し出された剣は練習用ということで装飾などが一切ないものだったが、彼女はそれを手にとってまじまじと見つめた。
「あんたでも扱えそうな物を選んで来た。さすがに、大剣を使わせる訳にはいかないからな。まず構えからだ」
その声を合図に景華は立ち上がって、一応それらしく構えてみた。
「ほら、違う違う。まず、両足を揃えるな。力が入らなくなるからな。それから、どちらか片方に傾けて持つのも良くない。反対側からの攻撃に対処するのが遅れるんだ」
コクリと素直に頷いてから指摘された部分を直し、もう一度構え直す。
「うん、今度はまあまあだな。次は振り方だな」
冬に入り寒さも本格的になってきていたが、景華はこの頃、昼間柳鏡がいる内は彼から剣術を教わり、いない時は明鈴と政策などについての本を読み漁っていた。夜は夜で柳鏡に兵法について教えてもらったり、繕い物の仕事をしたりしている。もっとも、剣術は習う前に体力作りが必要だとかで、今日からやっと本格的に剣を扱うようになったばかりだった。
景華が清龍の里に来てから、二か月が経った。彼女はここの生活にも慣れ、家事全般は一人でできるようになっていた。それも、何もかもを根気よく教えてくれる柳鏡と明鈴のおかげだ。
「疲れたか? 休憩にするか」
景華の息が上がっていることに気がついて、柳鏡はそう提案するとその場に腰を下ろした。その隣にちょこんと腰掛けて、景華は再び細い剣をじっと見つめた。その研ぎ澄まされた切っ先は、忘れられないあの記憶を呼び覚ます。一国の姫として城で生活していた彼女が、その国の辺境の里で暮らすことになった原因とも言える、あの事件……。そのせいで、彼女は今、声を失っていた。
「飲まないのか?」
ハッとなって目の前に差し出された水筒を手に取る。自分が何を考えていたのか、おそらく彼はわかっているだろう。口をきけなくなってしまってからでも、彼は自分の言いたいことを常に正確に読み取ってくれていた。
「……また、あの時のこと考えていたのか?」
さりげない調子で訊ねてくる彼に、黙って水筒を返して膝を抱える。それだけで、彼の問いかけに対する答えとなる。
「考えるなとは言わないが……。あまり深く考え過ぎるのも良くないだろ。あんたは大きなことを決めたんだ。今はそれだけで十分じゃないか?」
そう、彼女はここでできる限りのことを学び、国民全てに望まれるような王となって再び城に戻ると誓ったのだ。それでも。
(私、焦っているのかもしれない……)
一刻も早く城に戻りたいという心とは裏腹に、彼女のやらなければならないことはあまりにも多く、勉強もあまりはかどっていないというのが現状だ。元々頭の悪い方ではないが、今まで何も教えられていなかったようなことばかりで、基礎も何も全くない状態から学び始めていることが原因だった。
(どうして、城にいる時にもっと勉強しておかなかったのかしら……)
今は、後悔ばかりが募る。最近の彼女は、自分を責めることが多くなっていた。
「ほら、いつまでもウジウジと考えていたって仕方ないだろうが。続けるぞ」
その言葉に頷いて立ち上がる。柳鏡は、最近の彼女のそんな思考に不安を感じていた。彼女の決意は、大きなものだった。そして、自分はそんな決断を下した彼女を全力で支えるとも誓った。だが、最近はそんな自分が彼女の重荷になっているのではないだろうか。そんな気がして、落ちつかない。
「景華ーっ!」
そこへ、明鈴が走って来た。柳鏡の腹違いの姉である彼女は、景華に政治について色々と教えてやっている。
「姉さん、どうかしましたか?」
呼ばれた景華も、剣を構えたまま止まっている。
「もうすぐ終わるでしょ? 一緒にお風呂に行こうと思って。この冬に汗の始末もしないでいたら風邪引いちゃうからね。ん? なになに? ……ご飯の……仕度、がまだ? 大丈夫、柳鏡にさせればいいって」
景華が彼女の手のひらに書いた言葉に対しからからと笑ってそう言う明鈴に、柳鏡が笑顔で答えた。
「姉さん、俺が風邪を引いてもいいと言うんですね? それに、俺の料理なんか食べたら再起不能になりますよ?」
「あんたは風邪なんて引かないでしょ? 何とかは風邪引かないって言うし。でも、そうか……。あんたの料理が壊滅的だったのを忘れてたわ……」
明鈴が真剣な顔をして唸った。柳鏡は、ここに来てから一度も彼女たちを手伝って台所に立つことがなかった。だが、どうやらそれは彼の面倒くさがりな性格からではなく、能力の問題からきているようだ。景華が、今度は柳鏡の手を取った。
「夕飯……少し、遅くなっても、いい? ああ、別にそれは構わないが……」
その答えに、景華がニッコリと微笑んで続きを書いた。
「柳、鏡も……一緒に、行こう? ……風邪、引くよ?」
「へぇ、景華は優しいねぇ。よかったわねぇ、柳鏡! よし、じゃあ、今日はこれで練習はおしまい! さあ、仕度していらっしゃい!」
明鈴の声でパタパタと景華は家の方へ駆けて行った。その後に、柳鏡がついて行く。その後ろ姿を見送ってから、明鈴は小さく呟いた。
「景華の声、いつになったら出るんだろう……」
医者ではない彼女に詳しいことはわからないが、事件のショックで声を失ったとすれば、その傷が癒えれば元のように話せるようになるのではないだろうか。そう思っていた。しかし、二月経って本来の明るさを大分取り戻した今になっても、彼女の声は戻る気配もない。何か他に、彼女の喉を締め付けている物があるのかもしれない。
「なんか、切ないな……」
必死になって彼女を救い出して来た弟の心情を慮って溜息をこぼしたところで、景華が家の戸口から顔を覗かせてまたパタパタと駆けて戻って来た。
「おい、走るな! 転んだらどうする!」
その後ろから、柳鏡の声が追いかけてくる。案の定、彼女は躓いて転びそうになった。後から追いついた柳鏡が、その上体を引き戻す。明鈴から見れば、それはなんとも微笑ましい光景だった。
「ま、いつか良くなるよね?」
いつものようにくだらない喧嘩をしている二人を見て、明鈴はそう願った。放っておけば収拾がつかなくなってしまうので、自分もそちらへ歩く。
「大体、あんたは昔からそうなんだよ! 絶対に緩い下りで転ぶんだ!」
それは冷静に聞けば、彼女の小さな癖も見逃さない程見ていたという台詞……。口を尖らせて反抗的な目で柳鏡を見ている景華は、そんなことには絶対に気付いていないだろう。
「ほらほら、喧嘩ばっかりしてないの。行くよ」
昔は二人の喧嘩には、別の人間が割って入った。幼馴染の、趙雨と春蘭だ。しかし、その二人は景華から大切な物をほとんど奪った。彼女の頭には、今もあの夜の言葉が反響する……。それが、彼女の焦りに繋がっていたのだ。
「ほら、今度は転ぶなよ」
柳鏡は、そう言って今までつかんだままだった景華の腕を放した。余計なお世話、という言葉が彼の頭に浮かんだ。おそらく、彼女が話せる状態だったなら間違いなくそう答えただろう。子供の頃から一番近くで、一番大切だと思って見守っていた存在だ。好きな物や嫌いな物、どんな時にどんな言葉を返すかということ、彼女自身も気付いていないような小さな癖まで、彼は全部知っていた。
「今、余計なお世話、って思っただろ?」
物は試し、と思って、そう彼女に問いかける。ほんの少し目を丸くして、彼女は頷いた。やっぱり。
「そうだと思った」
彼がそう言って小さく微笑んだ理由は、景華にも明鈴にもわからなかった。小さな手に重そうに提げられていた荷物が、大きな手によってそっと奪われる。今度は、景華は目を大きく見開いた。彼のこの行動は、全く予期していなかったようだ。
「重いだろ?」
ぶっきらぼうにそう言って、視線を逸らす。そんなに重いと思っていた訳ではないが、彼のその優しさが嬉しくて、その手に荷物を預けた。ほんの少し目を細める、独特の笑顔を向けながら……。
「いいなぁ、景華。柳鏡、私のも!」
明鈴がふざけて柳鏡の方に荷物を差し出した。
「嫌ですよ。姉さんは怪力なんだから、自分で持って下さい」
笑顔で毒々しい台詞を言ってのけた彼の背を明鈴の平手が激しく打って、柳鏡はむせ込んだ。
「……だから怪力だって……」
「もう一回言ったら、今度は地獄を見せるわよ?」
「いえ、遠慮しておきます」
兄弟がいない景華は二人のやり取りを見て、羨ましいなぁ、と思いながら小さく笑っていた。
第2章に入りました。今後もどうぞよろしくお願いいたします。