姫と龍神 怪我
柳鏡は、ふらりと足取りがおぼつかないものの、何とか山を降り、景華が待つはずの家へと歩いた。そして、戸を開けると同時に中に倒れ込んでしまった。
「っ……!」
声が出ない彼女の、精一杯の反応だった。彼に駆け寄って、何とかして助け起こす。彼の胸の辺りの服が、大きく引き裂かれていた。その部分がどす黒く変色していることから、傷の深さは容易に伺える。
(ど、どうしよう……柳鏡!)
真っ白になる頭を精一杯回転させようと試みる。自分がまずするべきことは、助けを呼ぶこと。景華は、慌てて明鈴を呼びに行った。
ドンッ!
「あら、景華。どうかした?」
洗濯をしていた明鈴の所に、景華が転がり込んで来た。その瞳から、何か切迫したものを読み取る。
「柳鏡、何かあったの?」
その言葉を聞くや否や駆け戻って行く彼女の後を、明鈴も追った。
「やれやれ、しかし、とんでもないヘマやったわねー」
柳鏡の傷口の薬草を塗った布を当てて、明鈴は器用に包帯を巻いた。
「放っておいて、下さい……」
彼は切れ切れにそう言って横になった。傷のせいで、高熱が出ている。景華はそんな柳鏡の枕元にペッタリと座り込んで、詰めていた息をようやく吐き出した。そして、この上なく不安そうな顔をして彼を見つめている。その表情を見ることが辛くなって、彼はパッと目を逸らした。
「やめろ……あんたに見、られてると……生きる気力が、失せて来る……」
景華はそれを聞いて頬をぷうっと膨らませた。明鈴は、そのやりとりを見て、目を細めて笑う。
「そんな軽口を叩けるなら、大丈夫ね。景華、後頼んでも良いかしら? 熱が出たらこれ、飲ませてやってね。額の濡れ布巾も時々換えてやって。昼過ぎにはまた様子見に来るから」
景華は明鈴のその言葉に素直に頷いて、彼女を送り出してから柳鏡の元に戻った。小さな手が、黒いくせ毛がかかる額に遠慮がちに触れた。そして、あまりの熱さに驚いたその手が一瞬で引っ込められる。その瞳がどうしようもなく不安そうに揺れるのが目の端に映って、柳鏡は慌てた。
「アホ……この位じゃ、死んだり、しねえよ……」
景華の顔の不安げな色は拭いきれなかったが、それでも彼のその言葉は彼女にいくらかの救いをもたらしたようだ。彼女の表情が、いくらか明るく戻った。白い手が、彼の額の濡れ布巾をそっと取り上げる。そこに籠った熱に驚きの表情を見せてから、冷水に浸して固く絞り、それをまた彼の額に優しく載せてくれる……。
「……」
母親とそっくりなその仕草に、柳鏡は胸の中で懐かしさを覚えた。子供の頃、風邪を引いて熱を上げた彼を看病してくれた母の、白い、優しい手……。その面影が、眼前の小さくて細い手に重なったのだ。
「そっくりだな……」
彼のその呟きに、景華は目で何が? と問って来た。つい、と真紅の瞳から目を逸らす。
「別に……」
それだけ答えて、彼は目を閉じた。ふわりと、体が楽になった気がした。
次に彼が目を覚ましたのは、昼過ぎだった。明鈴と並んで食事の支度をしていた景華が気付いて、彼の枕元に歩いて来た。そっと濡れ布巾を取って、彼の額に冷たい手を乗せる。それから、ニッコリと笑った。どうやら、彼の熱は大分引いたらしい。彼女に不安げな顔をさせずに済んだのは、ひとえに薬草のおかげだな、と思う。
彼の熱い手のひらの上を、冷たい指先が走った。
「お昼、もうすぐ、できるけど……食べられ、そう? ああ、大丈夫だ……」
そう言って起き上がろうとした彼の手を寝台に押し付けて、彼女は思い切りふくれっ面になった。どうやら、起きるなと言うことが言いたかったらしい。
「はいはい、わかった、わかった……」
彼が再び体の力を抜いたことを確認すると、彼女は安心したかのように台所に戻った。
「どう? 景華。お粥は一人でも作れそう?」
明鈴のその言葉に、景華は笑顔で頷いて答えた。
「卵を入れてもおいしいし、青菜とかを入れてもおいしいと思うよ。水加減は間違えないでね」
先程と同じように頷いてから、景華は三人分の器を並べようとした。
「あっ、景華、私の分はいらないよ。ちょっと隣の村の人に頼まれごとをしてて、今から行かなきゃいけないんだ。結構時間がかかるかもしれないけど……今週中には帰って来られるかな?」
景華はそれを聞いて残念そうに唇を尖らせると、明鈴の分の器を下げた。
「ほらほら、見送りなんていいから。そこの怪我人に御飯、食べさせてあげて。それじゃあ、気をつけて留守番しててね。いってきます」
まるで母親がその子供を諭すかのように景華にそう言い聞かせて、明鈴は去って行った。相当急いでいたのかもしれない。仕方なく、明鈴に言われたように彼の器を持ってその枕元に座り込んだ。
「ああ、悪ぃ……」
そう言って起き上がろうとした柳鏡の目の前に、一匙分のお粥が差し出された。それに目を当ててから、真紅の瞳を見上げる。心の奥底で、かなり動揺しながら……。
「いや、自分で食えるし」
彼女がその言葉で先程同様のふくれっ面を見せる。そして、お粥をすくった匙をもう一度ずいっと彼に近付けた。彼女は一度言い出したら聞かないので、彼はついに、自分で食べると言う選択肢を諦めた。
「せめて、少し冷ましてくれ……。そのままは、熱い……」
その言葉で、景華は慌てて匙の上のお粥を冷まそうと軽く息を吹きかけた。そして、もう一度彼の口に、ゆっくりとそれを運んだ。
「……」
柳鏡の頬が赤いのは、熱による熱さが隠してくれていた。風邪を引いた彼女に物を食べさせる、という経験はあっても、自分が食べさせてもらったことは、一度もない。そのせいで、余計に気恥ずかしく感じられるのだ。
真紅の瞳が、言外においしい? と訊ねて来た。薄くそれに微笑み返して応えてやると、真紅の瞳も嬉しそうに細められる。もう一口分、彼の目の前にお粥が差し出された。先程とは違って、今度はすでに冷ましてある。
「……」
彼は彼女に食べさせてもらいながら、少しずるいことを考えていた。この白い手がいつまでも自分の物であってくれるなら、いっそこのまま、一生怪我をして寝込んでいるのも悪くないな、と……。
彼はまだ気付いていなかった。龍神の紋章が、彼の体に、運命に牙を剥いているということに……。