姫と龍神 決意
それからしばらく、景華と柳鏡は平和に過ごしていた。明鈴は毎日のように遊びに来ては、景華と一緒に台所に立ち、包丁すら握ったことがなかった彼女に一から料理を教えてくれていた。
「うん、いいんじゃない? 景華は筋がいいね」
形はまだ不揃いだが、とりあえず危なげなく材料を切れるようになったことで、明鈴は景華を褒めた。嬉しそうな笑顔を返されると、思わず彼女まで微笑んでしまう。そこに、柳鏡が戻って来た。
「ちくしょう、あいつら! 俺を化け物だとでも思っているのかっ?」
ドゴッ!どうやら腹を立てた時に壁に八つ当たりをするのは、彼の癖らしい。
「ちょっと、随分物騒なご帰宅じゃない? 景華がびっくりして指でも切っちゃったらどうするのよ!」
そう柳鏡を非難した明鈴を、彼はジロリと睨み付けた。
「それは俺のせいじゃなくて、彼女が鈍くさいからでしょう?」
抗議の意を込めて口を尖らせる景華に、柳鏡は冗談だよ、と言って茶卓の前にドカリと座り込んだ。
「指、切ってないのか?」
その問いかけに景華が慌ててうなずくと、明鈴がその陰でニヤニヤしているのが彼の目に入る。
「ところで、あんな物騒な帰宅のしかたをした原因は何?」
明鈴の隣で景華もコクコクと頷いて、同意の意思表示をする。
「ほら、景華も聞きたいってさ」
ブチッ! 柳鏡のあまり丈夫でない堪忍袋の緒が、不穏な音をたてた。最近の姉さんは、姫のことで俺をからかうことを楽しんでいないか……? そんなことを考えながらも、彼は努めて冷静に話し始めた。
「なんでも明日の朝のうちに行商人が出発するとかで、今夜中に裏山に最近出没している熊を退治しろと言われましたよ。全く、俺は昨日虎退治に行ったばかりなんですよ?」
柳鏡はこのところ、里の外に出ることが多くなってきていた。景華の様子が落ち着いてきたこともあり、生活のために必要な費用を稼ぐようになってきていたのだ。
「まぁ、あんた以外に一人で虎や熊に向かって行くような奴、いないからね。隊を組む暇がないから、仕方ないんじゃない?」
明鈴は弟をそう宥めながら、手早く器を並べた。
「それはそうですけど……」
柳鏡は、先程明鈴が並べた器に雑炊を取り分けている景華に、チラと視線を走らせた。昼間はまだいいが、夜に彼女を一人にするのがとてつもなく不安だった。外敵からは守られているが、この前の仕返しに兄たちがよからぬことを考えないとも限らない。それに、夜中に彼女がうなされていても、起こしてやることができなくなる……。
「一晩位なら、一人でも平気か?」
柳鏡の問いに、景華は驚いて目を丸く見開いた。
「はぁん、そう言うこと。景華が心配でグチグチ言ってたの……」
「姉さん、怒りますよ?」
明鈴の得意げな顔に、柳鏡は間髪入れずに危険な笑顔でそう返した。
「あんたが無理だって言うなら、断るつもりなんだが……。またメソメソされてると思うと、たまったもんじゃないからな」
運んで来た雑炊を三人分茶卓に並べてから、景華は唯一の意思疎通の方法で自分の考えを彼に伝えた。
「多分、大丈夫……。困っている、人が……いるなら……助けて、あげて。本当に大丈夫なんだろうな?」
気持ち良く笑って頷く景華に、柳鏡はほんの少しだけ笑みを返した。
「まあ、もし何かあったら家までおいで。場所は知ってるよね?」
景華は今度は明鈴の方を振り向いて、同じように頷き返した。
(一人なら、誰の目も気にしないで考え事もできるし……)
景華は、密かにそんなことも考えていた。彼女は、ゆっくりと物を考える時間が欲しかったのだ。
(二人が、私がまだあの時のことを深く考えなくてもいいようにしてくれているのはわかっているけど、迷惑ばかりかける訳にもいかないもの。自分のこと位、自分で考えなくちゃ……)
一瞬景華が曇った表情を見せたのを柳鏡は見逃さなかったが、なるべく早く戻る、とだけ告げて、昼食を掻き込んで仮眠に入った。明鈴も、後片付けを手伝うと洗濯物を取り込むから、と言って帰って行ってしまった。
夕方、景華に起こされた柳鏡は、ブツブツと文句を言いながら仕度をした。靴をきちんと履き直す彼の脇に、小さな包みが差し出される。
「なんだよ、これ?」
景華がその隣に座り込んで彼の手に綺麗な文字を書き込み始めた。
「一人で作った、から……おいしくない……かもしれない、けど、お弁当……。お腹、空くでしょ……? っ……!」
柳鏡はついと顔を逸らして靴紐を結び終えると、その包みを乱暴に景華の手から奪い取った。
「まずかったら許さないからな!」
夕陽の照り返しが、彼の頬が赤く染まっているのを隠してくれた。
「行ってくる。メソメソするなよ!」
いつも以上に乱暴な言い方をして、彼は外へと出て行ってしまった。
戸締りをきちんとしてから、景華は寝台に座りこんで膝をギュッと抱え込む。
(私、嫌われてたんだ……。趙雨にも、春蘭にも……)
彼女の頭に真っ先に浮かび上がったのはそのことだった。もしや。彼女の心に、暗い考えが浮かぶ。
(柳鏡は? 柳鏡も私のことなんか嫌いなの……? ……そんなことないよね。怪我までして、こんな遠くまで連れてきてくれたんだから)
彼女は、彼に全幅の信頼を寄せていた。それも、この前彼に言われたあんたはあんただろ、という言葉のおかげだった。彼は、姫としての自分ではなく景華としての自分の存在を認めてくれたのだ。ほんの少し心が軽くなるのを感じた彼女だったが、次にまた別の疑問が浮かんだ。
(お父様は、殺されなければならないほどひどい政治を行っていたのかしら……。だとしたら、一体どんな王が皆に望まれるの?)
ふと、あの場で投げつけられた趙雨の言葉が蘇って来た。誰か、民の暮らしをよく知る者が王になれば……。その言葉が、ぐるぐると頭の中を廻る。抱えた膝に、ギュッと顔を埋めた。
どれくらいそうしていたことだろう。気付けば、窓の外はすっかり暗くなっていた。柳鏡の家からは、里の家々を見ることができる。あちこちの家から、明かりが漏れている……。
(明かり、つけなきゃ)
そう思って油を探しに立ち上がった時、何か、おそらくは茶卓の脚だと思われるが、彼女は躓いて転んでしまった。暗いということは、なんと不便なことなのだろう。
(お城にいた時は、こんな思いしたこともなかったわ。いつも暗くなる前に篝火が焚かれていたもの……)
そうか。その時景華の頭に、明白な考えが浮かんだ。
(お城での暮らしと民の暮らしは全く違う……。だから、民の暮らしをよく知って、どんな政策をとればその生活が改善されるか民の立場で考える必要があるのね)
自分が今しなければならないことが、景華にもわかった気がした。まずは、民の暮らしというものをよく理解すること。そして、父親の汚名をそそぐこと……。父がどのような政治を行ってきたのか、景華は全く知らない。ただ、自分には優しく、誰よりもかわいがってくれた大切な父だった。その父が、もしも民に恨まれたまま死んでしまったのなら、自分は父の名誉を挽回するために生きるべきだ。
(お父様……)
たとえそう決意したとしても、やはりその死は彼女の心に重い。まして、父を手に掛けたのはあの趙雨なのだ。
(ごめんなさい、柳鏡……。約束、守れそうにもない……)
柳鏡の不安は的中して、やはり彼女の目からは滴が溢れた。現実は、彼女にはあまりにも残酷だ。認めなければならないのに、心のどこかでそれを拒否している自分がいる……。
ガタンッ!戸口の外で物音がして、景華は慌てた。とりあえず涙を拭くと、立ち上がってそちらに向かい、戸を開ける。
「おいおい、誰なのか確認もしないで開けるなよ」
呆れたようにそう言った長身の陰に、景華はしゅんとして頷いた。その手に、夕方より軽くなった包みが乗せられる。どうだった?と、彼女は彼を見上げた。
「ああ、まあまあ、かな?」
珍しく褒められたことに驚きを隠せないでいたが、その少し照れたような物言いに、驚きよりも嬉しさが勝った。疲れて帰って来ているのに申し訳ないかな、と思いながら、中央に座りこんだ彼の横にちょこんと座って、その右手を取った。
「……!」
景華は、思わず目を見開いた。柳鏡の右手に、無数の引っ掻き傷のような物が増えていたのだ。月の青白い光の中で、その傷は景華の真紅の瞳によりなまなましく映る。
「ああ、熊とやり合った時に茂みに引っ掛けたんだ。熊にやられたらこれじゃあ済まねえよ」
その説明を聞き終えるや否や景華は立ち上がって、明鈴が洗濯を済ませてくれたばかりの布を水瓶の水で濡らし、傷に染みないように気をつけながら血を拭き取ってやった。それでも、あちこちにできた傷は痛々しい。
「別にそこまで痛くはねえよ」
景華がそんな顔をして彼の傷を拭いていたのか、彼はそれを強調した。
「それで? あんたは一体何を言おうとしてたんだ?」
柳鏡の言葉にハッとしたが、彼の手は文字を書き込めるような状態ではない。
「ほら、こっちはなんともねえよ」
その言葉と共に、彼の利き手が差し出される。そしてこちらは、あの紋章がある方の手だ。
「色々、と……教えて、欲しい。具体的に、何を?」
彼の問いかけに答えるために、再びさらさらと文字が書かれた。
「何……でも。普通……はど、んな暮らしを……している、のか? それを知ってどうする? それに、ここにいれば嫌でも覚えてもらうことになるぞ?」
だんだんと、文字を綴る手に力が込められて来た。
「おと、うさまの……汚名を、そそぐため……娘の、私が……良い王、として……国を……治め、たい。そのために、民の……暮らし、を知る……必要、がある。なるほどな……」
柳鏡が、ホウ、と長く息を吐いた。
「あんた、自分の言ったことの重大性がわかってるか? 王になるには今の趙雨の政権を倒さなければならないんだぞ?」
強く頷く様子から、そのことは承知だったようだ。
「それに、反乱を起こすとなればあんただって武器を扱わなければならないし、民の暮らし以外にも、兵法やこれまでの政策、制度までありとあらゆる物を学ばなければならないんだぞ? それでも、王になりたいか?」
さらにもう一度強く頷く様からは、迷いなどは一切感じられない。
「……わかった。あんたがそのつもりなら、俺はそれに協力するし、最後まであんたに付き合う。兵法と武器の扱いなら俺が教える。政策や制度は本を読んで学ぶしかないな……。それは姉さんと一緒にするといい。ああ見えて、かなり頭の切れる方だからな、あの人……」
もう一度強く頷く様子を見て、柳鏡は密かに誓った。この先どんな障害があっても、必ず彼女を守り抜いて、玉座に腰掛けるその姿を見届けると。そのためには、いつやってくるかわからない龍神の試練も、必ず乗り越えると……。
(あの姫が泣きながらでも考えて、自分で出した結論なんだから……)
彼女が自分が戻る前まで泣いていたことを、彼はなんとなく感じ取っていた。それがわかっていたからこそ、彼は熊ごときを相手に本気を出し、さっさと片付けて戻って来たのだ。
「どうやら、俺が思ってたよりも遥かに強いみたいだな、あんたは……」
その意味は景華にはよくわからなかったが、彼のその様子は、怒っているようではなかった。むしろ、彼女を見つめるその瞳は本当に愛おしげで、その視線のあまりの心地良さに、彼女は深く追求することができなかった。
秋も深まり、木々はその色を鮮やかに染め変えている。その黄金色は、いつか彼女が抱くことになる宝冠の色にも似ていた。
これで改訂前の第一話が終了しました。
この調子でいくと、本編だけで第六十話まで、さらに外伝で九十話まで、そして新しく書く予定の外伝で……。
どうやら百話超えしそうです(笑)見捨てずにお付き合い下さい。
いつもお読み下さっている皆様、本当にありがとうございます。