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占い師、来襲 其の六

 その後、彼はかなりの頻度で海沿いの岸壁、風が強い彼女の住む場所を訪れるようになっていた。彼は、自分という存在を初めて受容してくれた彼女に、特別に優しくするようになっていた。雨が降れば、冷たい雨垂れが彼女の真紅の花弁を打たないようにその体で影を作り、またその逆で何日も日照りが続けば、彼女が渇きで苦しまないように、鋭い爪を持つその手に少しずつ水をすくって、彼女に与えた。……彼は、彼女に恋慕の情を抱き始めていた。

「……まあ、今日もいらして下さったのですね」

 そう言って微笑む彼女は、以前よりもいっそう儚げに見えた。何だかここ最近、彼女の存在が空気に溶け出すかのように弱く頼りなくなって来ている。一体、何が原因だと言うのであろうか……?

 彼の思考を知ってか知らずか、彼女は柔和な笑みを浮かべてから夕日に背を向け、赤く陽を照り返す山々に目を向けた。

「……もう、秋も終わってしまいますね……」

 寂しげに目を細めてから、また沈み行く赤い光をその真紅の瞳に映す。……彼は、彼女のその一言で気付いてしまった。

「冬になると、お前はどうなってしまうのだ?」

 答えは何となくわかっていたが、それは嘘だと信じたい、その一心で彼女に問いかけた。再びの寂しげな、この世を儚むかのような笑みと、沈黙が返って来る。その直後、彼女はいつものように真紅の可憐な花にその姿を変えてしまった。そうなっては、もう話すこともままならない……。

「答えぬ、それがお前の答えだな……?」

 そう、それはつまり。彼女の死期が近いと言うことを、そのまま意味していた。


 龍神は、幾日も悩んだ。彼女を冬の寒さから守り、生き永らえさせる方法はないのか、と……。父親の知恵を借りようかとも思ったが、生きるものは皆死を迎えるものだという法則がある以上、彼女を救うことはできない、救ってはならないと言われるに決まっている。彼は、独力で問題を解決しなければならなかった。

 そしてこの時、もう一つの問題が浮上していた。彼は、地元の漁師の青年が彼女を見つめているのを見てしまったのだ。その青年の目にあるのは、自分と同じ想い……。彼は戸惑った。いくら抑えようとしても、いくら忘れようとしても、心の奥底に湧き上がる漆黒の炎と、その青年の彼女を見る目が頭から離れない……。青年を彼女に近付けたくない、彼女の真紅の瞳に自分以外の存在など映して欲しくない、あの儚くも美しい旋律を、自分以外の存在に聞かれるのが耐え難い……。この感情には、何と言う名をつければいいのだろうか……?

 龍神は心の奥底に暗く淀む炎を燻らせながら、幾日も悩んだ。そしてついに、その二つの問題を一度に解決する方法を考えついたのだ。


 ゆうらりと、夕陽に照らされた彼女の影が、海辺の崖の上に伸びる。長く伸びたそれに重なるように、彼の姿が現われた。

「どうなさったのですか、こんな時間に?」

 そう、彼女はもうすぐ花に戻ってしまうのだ。陽の光によって力を得て昼間は人の形を取ることができるが、辺りに闇が満ちる夜の間は、彼女は風に揺られる花でいることしかできなかった。彼は、彼女に返事を急がせるためにこの時間に現われたのだ。

「以前尋ねたことをもう一度問う。お前は、冬になるとどうなってしまうのだ……?」

 それにも、やはり彼女は寂しげな笑みでしか答えなかった。ほんの少し目を伏せて、長い睫毛が瞳に影を作る。

「……沈黙は、すなわち死と解釈して間違いないのか……?」

 自分が期待するような答えは返って来ないということは、彼はとうに知っていた。それでも、胸の奥にほんの少しだけ残されていた希望が、頭をもたげるのだ……。

「間違い、ございません……」

 彼の儚い希望をも打ち棄てるような彼女の沈んだ声音での答えに、彼は一人落胆した。それから、決意を新たに彼女に向き直る。

「お前は私の元に来るといい。寂しい洞窟だが、そこなら雪に降られることもないし、寒さからも私が守ってやれる。お前が寂しい思いをしないように、私もずっとそこにいる。だから……」

 彼の提案を受けて、彼女はますます哀しげに微笑む。それから、ゆっくりと、幼子を諭すかのような口調で彼に語りかける。

「生きるものすべてには、死すべき時期というものがございます。それは運命ともいうべきものなのでしょう……。たとえ龍神様がどう思っていらっしゃろうとも、運命を変えることは誰にもできません。どうか、私のことはこのままお捨て置き下さい……」

「そんなことはわかっている! それでも……」

 それでも、自分という存在を恐れずに笑いかけてくれた初めての人を、失いたくはない……。その思いが自分のエゴであることは、よくわかっている。次に口をついて出たのは、自嘲的な笑みと彼女への疑念だった。

「……まさか、あいつの元に行くのか? そうなのだろう? あいつのっ……!」

 ザア、と彼の感情の変化に合わせて風が吹き荒れる。色濃く伸びた影が、千々に乱れて複雑な形を織りなす。それと同じように、彼女も複雑そのものといった表情をしていた。

「何を……おっしゃりたいのですか?」

 そう、彼女にはまるで見当のつかないことだったのだ。あいつとは、一体誰のことを指しているのだろうか?

「いつもこの下を通る若者だ! お前の歌声に聞き惚れている、あの……!」

 ようやく合点がいったように、彼女はほんの少し目を見開いてから頷いた。

「……彼とは、一度も言葉を交わしたことすらありません。なぜそのようなことを……?」

 彼女が自分に向ける不信を宿した真紅の瞳に、彼は心の奥底であの黒い炎が燃え上がるのを感じた。抑えなければ、そう思うのに、口から次々にその炎を乗せた言葉が溢れだす……。

「とぼけるのか? あの者を知らぬ訳でもあるまいに!」

「本当に彼とは一度も、話したことさえありません……。彼はあなたのお心を煩わすような存在ではないはずです。それとも、自分より小さき者を追い詰めるほど龍神様は度量が狭いのですか?」

 憎い、憎い、憎い……! 彼が、そして彼を庇う彼女が、そして何より、自分より弱き者を許すことのできない自分が……!

「……ええい、うるさい! とにかくお前は、我が元に参ればよいのだ!」

 そう言って龍神は、その鋭い爪で彼女の根元を掘り起こし始めた。

「な、何をなさるのですか? おやめ下さい!」

 夕日が最後の一片を水平線の上にこぼして、その身を海に沈めた。辺りに、薄紫の闇が満ちる……。最後の最後まで彼を拒絶するかのように、真紅の花弁が一片、ひらりと寂しげに揺れて落ちた。

 ゆっくりと、ゆっくりと、地に縫い止められた彼女を生死の束縛から自由にしてやろうと、そのあしを掘り起こす……。後少し、もう少しで、彼は自分の想い人を手にすることができるのだ……。

 ……それは、何が原因で起きたことだろうか。後少しだという彼の油断か、心の逸りのせいで注意が彼女のあしにばかり向いてしまったことか、はたまた彼女の最後の抵抗か……。

 プツリ、と龍神の鋭い爪が、支えていた彼女のからだを刺し貫いてしまったのだ。その途端に、陽の一片も差さない闇満つる大地にふわりと花の香が舞って、愛しい彼女の姿が、彼のその腕の中に現れる……。ゆるりと流れる時間はまるで、今も彼の爪が深々と食い込んでいる彼女の胸から溢れる、どろりとした生温かいもののようだ……。

「あ……かっ……!」

 ひゅうひゅうと喉の奥から吐息をもらしながら、彼女は彼の方に手を伸ばした。何かを訴えかけるような彼女の瞳に、彼はジンジンと痺れる頭で、必死に何か言葉をかけねばと思う。だが、喉の奥から出て来るのは恐ろしい龍の唸り声だけであった。彼女の手を握り返してやらねばならないとも思う。それなのに、全くもって体がいうことをきかない。ピクリとも動くことができないのだ。朱に染まる彼女を、じっと見ているしか出来ない……。コポリ、と彼女が何か言葉を発しようとする度に、その口から真紅の液体がこぼれ出る……。

「これ、で……ので、す。わたく、し……は……」

 ふっと、闇の中で、彼女の瞳が光を失ったのがわかった。……彼が愛してやまなかった真紅の瞳には、すでに何者も映ることはない。もちろん、彼さえも……。

「そ、んな……まさか……」

 自分は、どこで間違ったというのだろうか? 彼女にもっと生きて欲しいと、自分とともに生きて欲しいと、誰にも心を向けず、ただ自分のために微笑んでいて欲しいと、願っただけなのに……。

「う、ぐぅあ……、グガアアアアァァァァァァッ!」

 龍神の恐ろしくも悲しげな咆哮が、真っ暗な闇の中にたち込めた。黒雲が崖の上に迫る。龍神の悲しみが、辺りを包み始める……。

 龍神のありったけの悲しみを流すために、辰南の国中に三日三晩雨が降り続いたという……。

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