占い師、来襲 其の三
「……じゃ、婆さんのお守は任せたぞ」
柳鏡は昼食を食べ終わるとすぐに立ち上がり、壁に立てかけてあった大剣を背負った。
「柳鏡、もう行っちゃうの?」
彼女の頼りない寂しげな表情には後ろ髪引かれる思いがするが、彼女の夫、国を代表すべき人間の一人として、私的な事情で職務を放り出す訳にはいかないのだ。
「婆さん、あまり景華をいじめるなよ」
「それ、柳鏡が人に言える台詞じゃないよね……」
「そうか?」
彼はそう言って笑みを浮かべ、彼女の頭をポンポン、と二度優しく撫でると、部屋を出て行ってしまった。
「……あれも、お前さんの前だとよく笑うようじゃな……」
老婆がポツリと漏らした呟きに、景華が小首を傾げた。
「そうですか? 柳鏡はいつもあんな感じだと思いますけど……」
それからぷうっと頬を膨らませて腕を組む。
「柳鏡はずるいんです。いつも意地悪を言うし、すぐ離婚だって言って私のこと脅かすんですよ! それなのに最後には笑って頭を撫でてくれたりするものだから、怒るに怒れないんです」
老婆は彼女のその言葉を聞いて笑いだした。
「ははは、あいつも馬鹿なことを……。いいことを教えてやろうか? お前さんと離婚なんてしたら、生きていけないのはあいつの方だよ」
老婆のその言葉を聞いて、景華はますます首を傾げる。
「どうしてですか?」
彼女の深紅の瞳が真にその答えを欲していることを確認してから、老婆はゆるりと口を開いた。
「お前さんにはわからんのかもしれんが、あれはお前さんに救われているんだよ。あれはお前さんの幸福に自分の人生の意味を見出して来た男だ。だから、お前さんの幸福のために幾度も幾度も自分の感情を殺して来た」
「……」
優しくて不器用な彼が、自分の心と幸福を守るために行ってくれていたのは、あまりにも辛く苦しいこと……。今でも思い出すことがある、彼に対してひどく後ろめたい過去。趙雨と楼閣に登った時の、彼の青い顔。あれは、心の痛苦から来るものだったのだろうか……?
後ろめたさや後悔で彼女は言葉を紡げなくなってしまったが、老婆はそのまま続けた。
「だがいつからか、お前さんの幸福とあれの幸福、感情の向かう先はぴたりと重なり、一つとなった。お前さんの存在によって幸福や平和、愛による安らぎの味を知ってしまった今、あれはもう、もとの生き方には戻れないじゃろう……。お前さんがあれに何か後ろ暗いと思うようなことがあるなら、まあ、あれよりも長く生きてやることだな」
「……よく、わかりません……」
彼よりも長く生きることが、彼の幸せ……? 彼が以前言っていた。占い師という人種は、言葉に謎が多くて好きになれない、と。少なくとも彼女は、この老婆のことが嫌いだということはないが、発言に謎が多いというのは、彼に賛成だった。老婆の言葉の真意は、つかめそうにもない……。
「……まあ、そう難しく考えるでない。あまりお前さんをいじめると、後で柳鏡が怒り狂うからな」
「……そうかも、しれませんね!」
老婆が悪戯っぽく片目を瞑りながらそう言ってやると、景華は顔を上げて笑顔を取り戻した。
「さあ、何をしますか、お婆様。お部屋でお茶を飲みながらゆっくりお話をするのも良いですけど、どうせなら少しお庭の散歩をしませんか? お天気もいいですし!」
景華は立ち上がって大きく伸びをして見せると、そのまま歩いて引き戸を開けて見せた。夏の眩しい日差しが室内に溢れる。老婆はそんな彼女に苦笑をしてみせた。
「いや、遠慮しておくよ。こんな炎天下の中にあんたを連れだしたと柳鏡に知られたら、後でどんな目に遭わされるかわかったもんじゃない」
「そうですか……」
景華は残念そうにそう呟くと、少し口を尖らせて老婆のそばに腰掛けた。そんな彼女の手を老婆が取ると、彼女は嬉しそうにニコリと笑って見せた。皺が寄った枯れ木のような手が、白くて柔らかい手を包み込む。
「柳鏡が惹かれるのも無理ないな……」
「え?」
老婆の呟きを聞き取ることができず、景華は首を傾げて見せる。すると老婆は、愛おしそうに目を細めてから続けた。
「柳鏡があんたに惚れるのも無理はないと言ったのさ」
老婆の言葉を受けて、景華が物憂げに瞳を伏せる。それから短く吐息をこぼして、彼女は老婆に問いかけた。
「……それは、この瞳の色のことですか?」
老婆は彼女のその言葉にほんの少し目を丸くしてみせた。
「あんた……知ってたのかい? 龍神の華のこと……」
「……はい。柳鏡から、聞きました……。龍神の華は皆、私みたいな目の色をしてるって。そして、龍神にとって仇なす存在だということも聞きました……」
老婆はそこまで聞くと、ホウ、と長く息を吐き出してからもう一度、優しく景華の手を撫でた。
「何か……気になっているのかね?」
老婆の言葉に景華は顔を上げた。そして、迷うようにしながら言葉をこぼし始める。
「龍神の紋章って……いえ、龍神とは何ですか? そして、龍神の華って……? それに……」
そして、また瞳を伏せて俯き、問いかけの言葉を続ける。
「私たち、なかなか子どもを授からないんです……。もしかして、私たちの運命のせいなのかなって……。もしそうだとしたら、柳鏡は私のせいで、その……普通の幸せを逃してしまったんじゃないかなと思うんです……」
「……普通の幸せのう……」
老婆は長い嘆息の後に、景華の手を離した。そして、彼女に顔を上げさせてからゆっくりとした口調で、昔のことでも思い出すかのように話し始める。
「さて、お前さんには何から聞かせれよいのやら……。……そうだな、まずは龍神の神話から聞かせてやるとしようか」
「神話、ですか?」
彼女の言葉に老婆は頷いてから続けた。
「お前さんは知らんだろうが、龍神と龍神の華の神話があるのだよ」
そう言って景華の手を離してから、老婆はポツリポツリと語り始めた。