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龍神の随想 其の五

「こっちこっち。みてみてりゅうきょう、さくらだよ!」

 そう言って彼女は、薄桃色に淡く煙る大木を指差す。それから彼女は彼を振り返ると、ニッコリと笑って見せた。

「きょうかね、さくら、だいすきなの! りゅうきょうも?」

 昨日うさぎのことも同じ顔をしてそう言っていたな、ということを思い出しながら、柳鏡は彼女の言葉に頷いて同意してやった。

「きれいだね! あのね、こっちこっち!」

 彼の手を引いたままずんずんと歩いて行く景華だったが、ふと、そんな彼女が彼の視界から消えた。

「ふえ……」

 なんと彼女は、彼が瞬きをしたほんの一瞬の内に、何かに足を取られて転んでしまっていたのだ。今にも泣き出しそうな彼女を何とかして宥めようと、彼も慌てて膝を折る。

「だ、大丈夫?」

 しかし、彼の予想に反して、彼女は涙一つこぼさずに、気丈な笑みを浮かべた。あまりの驚きに口を開くこともできずにいる柳鏡に、彼女は笑いかける。

「きょうかね、なかないの。あのね、きょうかがないたら、おかあさまがかなしいから、なかないの」

 痛いくせに、と、彼は思う。真紅の大きな目にうっすらと涙を浮かべて、今にも泣き出しそうな顔をしているくせに、と……。それでも涙をこぼさないようにと頑張る彼女に、彼は何か引きつけられるものを感じた。

 しばらくその場に座り込んでいたが、やがて転んだ衝撃や痛みから立ち直った彼女が立ち上がる。そしてまた彼の手を小さな手でギュッと握ると、今度は少し慎重な足取りで歩き始めた。……それなのに。

「危ない!」

 今度はよろけて、道端の植え込みに体ごと倒れ込んでしまいそうになる。いち早くそれに気付いた柳鏡が彼女の手を引っ張って、何とか転ばずに済んだ。そして、その後も……。

 飛び石に躓いたり、蔦が足に絡まったり、はたまた目の前を過ぎ去った蝶に見とれて足がもつれたり……。その度に彼は、何度も彼女を支えたり、体を引き戻してやったり、受け止めてやったりしたのだ。正直言って、彼はとても驚いていた。まさか、転び方にこんなにたくさんの種類があるなんて、思いもしなかった、と……。ましてや、それをほんの数分の間で実演して見せてしまう程ドジな人間が、この世にいるなんて……。

「みてみて、りゅうきょう! おさかなさんがいっぱいだね!」

 彼女の目的地に着くまで、彼は一瞬たりとも気を抜くことができなかった。別に彼女に頼まれた訳ではないが、あの辛そうな表情をさせるのが、たまらなく嫌だったのだ……。そして。

 彼女が彼を連れて来たのは、桜の木の根元、池のすぐそばだった。ここでこそ、気を抜く訳にはいかない。もしまかり間違って彼女が池に落ちてしまうようなことになれば、それこそ一大事だ。いや、まかり間違って、という言葉は不適切だろう。彼が気を抜けば、間違いなく彼女は池に落ちてしまうだろうから……。

 彼女の言葉で二人並んで池を覗き込むが、彼はその間も隣の景華の様子に目を配っていた。白地に赤や黒の模様が入った鯉が、悠然とその池の中を泳いでいる。他に真っ赤な奴もいれば、全体が真っ黒な奴もいた。

「おさかなさーん」

 どことなく調子はずれな声で魚に呼びかける彼女の様子に、彼は思わず笑みをこぼしてしまう。しかし次の瞬間、彼は一瞬にして凍りついた。

 なんと、彼女が池の中にいる魚に手を伸ばそうとしているのだ。その上体がぐらりと傾ぐ。……まずい!

「危ない!」

 間一髪、彼は何とか彼女の腕を捕まえて、引き戻すことができた。突然のその行動に、景華はただただ目を丸くしている。

「どうしたの?」

 自分が今どんな危険な事をしようとしたかの自覚も、今の彼女にはないらしい。ホウ、と張りつめていた息をゆっくり吐き出してから、柳鏡は彼女の目を見つめていった。

「ダメだよ、危ないから。落っこちたりしたら大変だ」

 しばらくきょとんとしてから、彼女はニッコリと笑って見せる。どうやら、彼の意図が通じたらしかった。

「わかった! あぶないのは、だめなのね!」

 ……本当にわかったんだろうか? 少々不安になる柳鏡だったが、とりあえず彼女はその後池に手を伸ばそうとはしなかったので、半分位は彼の言いたかったことも通じたのだろう。そう思って、一人で密かに安心する。

「おへやにいきましょ!」

 そう満面の笑みを浮かべながら言うと、彼女は立ち上がって、また柳鏡の手をギュッと握る。大分慣れたその感覚だったが、柳鏡はまだ、ほんの少しだけ緊張しながら彼女の手を握り返した。

 帰り道も何度となく転びそうになる彼女を、さりげなく助けてやる。そして彼がかなりの疲労を感じ始めていた、その時。

「あら、景華。その子が柳鏡君?」

 若い女性の呼び声に、景華がピクリと反応してそちらを振り返った。

「おかあさま!」

 そう言ってあっけなく彼の手を離し、声の主である女性の元に駆けて行く。柳鏡は、茫然とその後ろ姿を見守っていた。……しかし。

「あっ!」

 案の定、僅か三歩しか走っていないのに、小石に躓いて彼女の体がぐらりと揺れる。もはや条件反射とでも言うべきだろう、その瞬間には彼の体はもう飛び出していて、きちんと彼女の体を支えていた。それを見た彼女の母親が、ふわりととろけそうな優しい笑みを浮かべる。

「ありがとう。……柳鏡君、かしら?」

「はい」

 彼女の問いかけにそう答えながら、静かに景華の体を離してやる。おかあさまー、と甘えるように言って、景華はその胸に顔を埋めた。

「景華、転ばないように気をつけなきゃね。ほら、柳鏡君にありがとうは?」

「りゅうきょう、ありがとう!」

 振り返った彼女が自分に掛けてくれた、一言。そのたった一言のおかげで、彼は一瞬の内に体中の疲れが全て吹き飛んでしまうのを感じた。

「でも良かったわね、景華。助けてくれる、優しいお友達で……」

「うん!」

 母親の言葉の意味がわかっているのかどうか危ういが、彼女は顔を上げて満面の笑みでその言葉に答えた。それから、さらに声を弾ませて話す。うさぎや桜の話をする時よりも、もっと嬉しそうに……。

「あのね、きょうかね、りゅうきょう、だいすきなの!」

「っ……!」

 両親を除けば誰からも言ってもらえなかった、一言。その一言を、彼女はいとも簡単に彼に与えてくれたのだ。心の奥深くで、何かが波紋を広げる……。

 この先何があっても、彼女を守り抜こう。彼が初めて決意したのは、その時だった。

龍神の随想は次話で終了の予定です。

ここまでお付き合い下さっている皆様、本当にありがとうございます。とりあえず、もう一話だけお付き合い下さい。

また何か記念になるようなことがあれば、連載を再開することもあるかもしれませんので、よろしくお願いいたします。

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