龍神の休日 其の二
しばらくたって、明鈴一人が残された景華と柳鏡の自室に、もう一人の主が帰って来た。彼がこぼしていたように、子供を抱いている。
「お姉さん、来てたんだ。……あれ、柳鏡は?」
景華は、自分はもうお姉ちゃん、なんて言う年じゃないから、と言って、明鈴のことをお姉さんと呼ぶようになっていた。それでも昔と同じように、彼女たちは実の姉妹以上の関係だ。
「遠乗りに行くって言ってたよ。天連と遊べない、ってかなりいじけてた」
「まだそんなこと言ってたの? 柳鏡ったら……。だって、今日は私が天連の面倒を見る日、って決まってたんだもの」
噂の天連はと言えば、母親の腕から逃れてハイハイをしようとしていた。何か興味を引かれるような物を見つけたらしい。
「どうしたの、天連?」
「うー、あ」
母親の問いかけに、精一杯答えようとする。小さな指が、明鈴の荷物に向けられていた。
「ん? 天連、これ?」
明鈴が手渡してやると、赤ん坊は母親の膝で目をキラキラとさせてそれを眺めた。その後、巾着の紐を引っ張ったり、グルグルと回してみたりする。
「ちょっ、お姉さん、大丈夫?」
景華が慌てたように彼女に視線を向けたが、当の明鈴は赤ん坊が真剣に遊ぶ様子を、笑顔で眺めていた。
「大丈夫よ、壊れるものなんて入ってないし。……それにしても、かわいいね。柳鏡がグチグチ言いたくなるの、少しはわかった気がする。こんなにかわいいんだもん、休みの日にはずっと一緒にいたいよね。最近とうさま、って呼んでくれるようになった、なんて言ってたし。自分の子供なら、なおさらかも」
明鈴の発したとうさま、という言葉に天連が反応して、とーたま? と言いながら母親を見上げた。父親と同じ黒いくせ毛の頭を優しく撫でながら、景華は明鈴に答える。
「言葉もそうだけど、天連、最近ハイハイの他につかまり歩きもできるようになったの。意外と危険なものが多くなっちゃって……。だから、ずっと見てなきゃいけないでしょ? そうしたら、柳鏡がゆっくり休めないじゃない。お休みの日位ちゃんと休んで欲しかったから、柳鏡に頼まれても断ったの……」
明鈴は、ここでやっと二人の喧嘩の原因を理解した。結局、お互いを思うためのすれ違い。景華は柳鏡にゆっくり休んで欲しいと思ったからこその主張だったし、柳鏡は口にこそ出さないが、子供と遊びたいという理由の他に、子供を抱いて閣議に出るのは彼女の負担になると考えているに決まっている。
「なーんだ、そういうこと」
明鈴が一人でそうすっきりとした顔で笑うので、景華は首を傾げた。その膝では、天連が彼女の襟につかまって立ち上がっている。景華の腕は、それを邪魔しないようにしながらも、いつでも子供の体を支えられるように用意されていた。
「結局、景華は柳鏡のために天連を連れて出たし、柳鏡は景華のために天連を預かろうと考えた、って訳。もっとも柳鏡の場合は、自分が子供といたかった、っていうのも大きな理由だろうけどね。でもね、景華」
義姉の真剣な表情を向けられて、景華もそれを真剣な表情で受け止める。それでも、再び彼女の膝に座った息子の頭を撫でる手は、止まらない。彼はそれが心地良いらしく、母親のもう一方の手を小さなその手でギュッと握っていた。
「やっぱり、柳鏡に預けてあげるべきだったんじゃないかな? だって、確かに危険なことがたくさんあるから目は離せないかもしれないけど、天連がニッコリ笑いかければ、それだけであいつ、元気になるんじゃない? 単純だし親馬鹿だから、多分そうだと思うけど……」
明鈴のその言葉を聞いて、景華は少しだけ目を見張った。それから、ほんの少し目を細めて笑う。
「……そうだね、きっと。柳鏡が帰って来たら、今度からはお願いね、ってちゃんと言わなきゃ。でもね……」
義妹の言葉の続きに何となく興味をそそられて、明鈴は片眉を上げた。それが問いかけの仕草だと理解している彼女は、笑顔で続ける。
「本当は、少し悔しかったの。私の方が天連といる時間が短かったんじゃないかな? って。だって天連、先にとうさま、って言えるようになったんだもの!」
母親がむくれて膨れさせた頬が面白いらしく、天連はそれを見てきゃっきゃと笑った。明鈴は、正直言ってこの夫婦には呆れていた。まさか、どちらも重度の親馬鹿だったとは……。
「だからね、天連を柳鏡に預けなかったのは、意地もあったの」
「そ、そうだったんだ……」
もうこの夫婦の揉め事には金輪際関わらない、と決めた明鈴だった。彼女が半分呆れ顔になっていることにも気づかず、景華が高らかに宣言する。
「次の子には、絶対先にかあさま、って言ってもらうんだから!」
「あ、うん。頑張って、景華」
あまり感情は籠っていないが、一応彼女を応援してやる。そしてその後、明鈴はニヤリと笑った。
「けど、宣戦布告は柳鏡にしなきゃ、ね」
「うん! ねえ、天連?」
ニッコリと自分に笑いかける母親を見上げていた天連だったが、ふとあることを思い出したかのように口を開いた。
「……まんま」
天連のその言葉を聞いて、景華はより一層相好を崩す。
「あら天連、お腹空いたの? じゃあ、お父様より先にいただきましょうか」
「私もそろそろ帰るわ。凌江が待ってるだろうし。ご飯は作って来たけど、私が帰らないと絶対に食べないからね」
景華が天連を抱き上げるのと同時に、明鈴も立ち上がった。彼女は一年前に景華の従兄弟である凌江と結婚し、今は城下の街に居を構えている。大きく伸びをしてから、部屋の戸を開ける。
「じゃあ、また暇があったら遊びに来るね」
「うん、凌江によろしくね、お姉さん」
そう言って、彼女たちは部屋の前で別れた。
「子供、かぁ……」
廊下を反対側に向かって歩きながら、明鈴がふとそうこぼした。結婚して一年になるのだが、まだ自分たちには子供を授かるような兆候はない。だが、明鈴は別に焦ってもいなかった。凌江の方も、まあ、いつかは授かるよ、という呑気具合。自分の夫のそういう部分が、彼女は好きだった。
「まあ、いつかは授かる、よね」
夫の口癖をまねて、彼女は楽しげに笑って空を見上げた。