龍神誕生秘話 其の四
「もしかしたら、父上もその時何かを感じていたんじゃないか、って母さんは言ってた。もっとも父上に伺った訳じゃないから、本当かどうかはわからないけどな」
「そうなんだ。ねえ、連瑛様と初めてお会いした時、柳鏡のお母様は何歳だったの?」
くりっとした真紅の瞳に見上げられて、彼は少々考え込んだ。答えを待つ彼女の手は、休むことなく動かされている。
「そうだな、父上より三つ年下だったはずだから……十三、かな?」
「痛っ!」
余所見をしていた彼女は、自分の指に針を刺してしまった。慌てて彼女の指を取って確認する。どうやら、深くは刺していないらしい。その事実に安堵の息を漏らしてから、いつものように一言、注意を加える。
「余所見しながらするな、アホ。それでなくても鈍くさいんだからな」
「鈍くさいまで言うことないでしょ!」
むくれた彼女は、そのまま視線を落として続きを縫い始めた。口を尖らせて、ほんのりと頬を赤くしたまま一生懸命に縫物をする姿は、彼の目にはとても愛おしく、そしてほんの少し滑稽に映っていた。
「話、続けるか?」
「うん、聞きたいな」
彼女は、今度は目線を上げずにそう答えた。余所見をしたら、また自分の指まで縫って彼にからかわれるかもしれないからだ。
「その後三日間、父上は母さんが暮らしていた家に滞在して、冬支度を手伝ってくれたそうだ」
「連瑛様ー、お昼ができましたよ」
昼ごろの山の中に、蓮華の元気な声が響き渡った。
「ああ、今行く」
そして、それに答える連瑛の少し低い声も。
連瑛の滞在は、今日で三日目になる。その間に彼は、冬に燃料として必要な量の薪割りや、屋根の修理をしてくれていた。蓮華一人では手に負えないことだったので、彼の手助けはとても嬉しいものだった。
蓮華は、そんな彼にすっかり心を許していた。彼の誠実で温かい人柄が、彼女の警戒をすっかり解かせたのだ。
「うわあ、これだけ薪があれば、この冬は絶対困りませんね! ありがとうございます!」
「いや、役に立ったのならそれでいい」
蓮華のお礼の言葉にほんの少し頬を染めて、連瑛は視線を逸らした。
今日は約束の三日目で、滞在の最終日となっていたのだが、彼はなぜか三つ年下の少女に、離れ難い何かを感じていた。もっとも、その正体が何なのかは、まったくわからないのだが。彼女の素直さは、普段大人ばかりに囲まれて、部族長と言う重い立場の人間として求められる完全なる対応というものに疲れ切っていた連瑛の心を、温かく解きほぐしてくれた。
それに。
「連瑛様、次はあれ、お願いしますね!」
それに、蓮華のわがままっぷりは本当に見事なもので、普段、国王以外に自分に命令など下す人間がいない立場である連瑛にとって、なんとも新鮮なものだった。
蓮華が笑いながら指差したのは、まだ冬囲いが済んでいない庭木だった。山の中にある家なのだが、庭や畑はきちんと整えられている。どうやら、母親が亡くなった後は蓮華が一人でこれら全ての世話をし、切り盛りをしていたようだ。
「ああ、わかった。……先に昼飯を頼みたいんだが」
「わかってますよー。はい!」
そう言って蓮華が差し出したのは、米を握った、大きな塊だった。
「ほら、これなら簡単に食べられるでしょう? あれ、連瑛様、初めて見たんですか?」
「ああ、こんな食べ方をするとは、驚きだな」
そう言いながらも、その米の塊を口に運ぶ。純粋に、米の味。その塊は、一切中身などが入れられていなかった。
「ごめんなさい、何か入れなきゃ、と思ったんですけど、何もなくて……」
「いや、謝ることはない」
蓮華がしょんぼりと顔を伏せるのを見て、連瑛は焦った。正直言って、これまでに一度も、ここまで慌てたことはない。何か言わなければ、と、彼は懸命に言葉を探した。
「……蓮華は、ここでの生活が辛くはないのか? 母君の遺言とは言え、里に降りて暮らした方が余程楽なのではないか?」
蓮華がふと寂しげに笑って、顔を上げてみせた。
「それは、楽だと思いますよ。でも、人生楽ばかりしてたら、本当にいいものは手に入らないんです。これは、お父さんの言葉なんですけどね」
「なあ、蓮華」
彼女の両親の言葉。そして、寂しげな笑み。連瑛の口をついて出たのは、とんでもない言葉だった。
「もしよければ、その……清龍の里で暮らさないか? もちろん、楽な暮らしをさせてやるつもりはない。皆働いているんだから、蓮華にも働いてもらうことになるだろう。それに、母君の遺言を守れるように、おかしな男に騙されないように俺が見張っているから。な? 悪くないだろう?」
連瑛のその言葉で、蓮華は、今度はクスクスとおかしそうに笑い声を上げた。
「な、何がおかしい?」
連瑛はその様子に心臓がきゅっと苦しくなり、鼓動が早まるのを感じていたが、辛うじてそれを抑え込んで、まだ笑い声を立てている蓮華に問いかけた。
「だって、今日の連瑛様、おかしいですよ。少なくとも、いつもはそんなにお話してくれませんし。それに、俺が見張っているから、なんて。私、そんなに危なっかしいですか?」
「危なっかしいな」
連瑛の即答に、蓮華はむくれてみせた。彼女の表情はころころとよく変わる。落ち込んだと思ったらすぐ笑って、笑ったと思ったらすぐに怒って見せる。その様子は連瑛には非常に珍しく、そして、非常に羨ましいものだった。自分には許されない、ありのままの感情の表現。それをいとも簡単にやってしまうのだから。
「……お言葉は、とってもありがたいです。でも、そんなことをしたら連瑛様にご迷惑をかけるでしょう? 私なんかの見張りをやってたせいで結婚できなかった、なんてことになったら大変ですし。それに私、ここを離れる訳にはいかないんです。父と兄はまだ生きていて、ここを目指して歩いているかもしれない。それなのに私がここにいなかったら、二人とも途方に暮れてしまうでしょう?」
「確かにな……」
彼女の言うことはまったくもって正しく、連瑛には口の出しようがなかった。今なら苦しい胸の内、その理由がわかる。生まれて初めて知った、恋慕という感情。三つも年下の少女が教えてくれた、誰かを愛おしいと思う心情。それらはたった今彼の指先をすり抜けて行ってしまったのだが、不思議と後悔はなかった。
「でも」
彼女の言葉が続くようなので、連瑛はふと彼女の深緑の瞳を捉えた。その深い色に、波立った心が一度に凪いでいく。
「もし本当に辛くなったら、その時は、私が連瑛様を訪ねて、清龍の里まで降ります。だからその時は、追い返したりしないで助けて下さいよ。見捨てたりしたら連瑛様の夢枕に立って、呪いの言葉を毎晩、延々と呟きますからね!」
「ああ、わかった」
真昼の陽光の下で、二人は笑い合った。