龍神誕生秘話 其の二
彼女は、息を切らせて走っていた。足はもつれるし、体はふらつく。それでも、その動きを止める訳にはいかなかった。
グルルルルルッ……! 背後からは、獣の殺気立った唸り声。ギラギラと光る目が恐ろしいから、後ろは決して振り返らない。
「あっ……!」
だが、天は無慈悲だ。彼女の足は、木の根に取られてその場に崩れた。背後の気配も、ピタリと止まった。ゆっくりと、振り返る……。
「っ!」
彼女を追いかけていたのは、黄金の地に黒の縞、真っ赤な口の中に銀に輝く鋭い牙を持った、虎だった。いくら体を鞭打とうとしても、腰が抜けてしまったようで、力が入らない。それでも思うことは、死にたくない、という人間らしいこと。獣が高く跳躍したのが、彼女の目に映った。時がその歩みをのろくする。黄金と黒の縞模様。その塊が、ゆっくりと彼女に迫って来る。銀の牙、爪が、空中でギラリと煌めいた。そう思った瞬間。
「伏せろ!」
ギャンッ!
突然のことに反応できずにいる彼女を、何かが地面に押し倒した。同時に、虎の鳴き声も聞こえたように思えたのは、彼女の気のせいだろうか。とりあえず生きているらしいということを確認してから、彼女はその目をそっと開けた。
彼女を庇うように、その上に覆いかぶさっている人物がいた。誰なのかは知らないが、黒い髪に黒い瞳、いや、群青色の瞳の青年だ。その手から放たれたと思われる大槍が、虎の腹部を深々と抉っていた。黄金の地に黒の縞。そして、深紅に染め変えられていくその体……。青年は彼女放して、軽く舌打ちをした。
「仕留め損ねたか。手負いの獣は放っておけば厄介だからな、きちんと決着をつけねば。少し下がっていなさい」
その言葉に青い顔で頷いて、彼女はジリジリと後ずさりをした。虎と青年のにらみ合いが続く。しかし、先程の槍は虎に向けて放ってしまったので、青年は丸腰の状態だった。傷による痛みと怒りで、虎はその目を苛烈に輝かせていた。そして、地を蹴って青年に躍りかかる。青年の首の皮一枚の所を、銀の閃光が走った。黒い髪が一束、宙を舞う。そしてまた再び、銀色の閃光が空を裂いた。
その光景の恐ろしさに、彼女の目は開こうとすらしなかった。緑の大地が、朱に染まる。黄金の色も、黒い色も。全てが、朱に……。
「大丈夫か? 怪我は?」
その声にハッとして頭上を見上げると、頭を押さえて震え上がっている自分を、助けてくれた青年が見下ろしていた。それに気付いて、彼女は慌てて立ち上がる。あまりにも失礼な態度だったな、と思いながら。
「あ、あの。私は大丈夫です! あ、貴方様こそっ!」
「ああ、これか? 大したものじゃない。気にしないでくれ」
彼女が指したのは、彼の左腕の、僅かに切り裂かれた跡がある部分だった。ほんの少し血が滲んでいる程度の物なのだが、自分を庇ってできた傷なのだ。彼女がそれを無視する訳にもいかなかった。
「あの、家が近くにあるのですが、よろしければその怪我の手当てをいたしませんか? 獣に付けられた傷は、放っておくと化膿したりして大変なことになりますから」
「いや、大丈夫だ」
「大丈夫じゃありません! さあ、こちらです!」
何をそんなに必死になっているのかは自分でもわからなかったが、彼女はこの時、青年と別れてはいけないような気がしていた。なんだか、自分の中のとてつもなく大きなものをなくしてしまうような。そんな感覚があった。
彼女は、半ば強引に青年を自宅まで連れ帰った。