湖のパレット
水面は磨いた鏡のような明瞭さで空を映し、紅葉が鮮やかな錦の帯となって湖岸を彩っている。
この湖のほとりに建つ古びた見張り小屋で、ランポーネという男がひっそりと暮らしていた。齢は四十の坂をとうに超え、髪には白いものが混じり始めている。
かつては街で暮らしていたが、妻を亡くした今は、訪れる者も稀なこの場所で一人きり。
ただ季節の移ろいを見守るのが彼の仕事だった。
いや、正確には一人ではない。
「ランポーネ、見て! 今日もきれいなのが見つかったの」
小屋の扉が勢いよく開きくと、秋の冷たい風と共に小さな影が飛び込んできた。
透き通るような銀髪に湖の水面と同じ色をした瞳。見た目は十にも満たない幼い少女だが、彼女は人間ではない。湖に宿る精霊、フラゴーラだ。
彼女の華奢な手には森で摘んできたばかりの植物が握られている。淡いピンクに色づくラズベリーの花、錨に似たクランベリーの花、そして慎ましく目立たないカシスの花。
「また花か」
ランポーネは薪ストーブの前で揺り椅子に腰かけたまま、苦笑交じりに言った。
「実を持ってくればいいのに、お前はいつも花ばっかりだな」
「それって花の隙間にある丸いもの? だってこっちのほうがずっときれいよ」
フラゴーラは不思議そうに小首を傾げ、棚から適当な紐を持ち出してきて摘んできた花を束にした。
「あげる!」
その無邪気な笑顔を見つめながら、ランポーネは胸の奥が痛むのを感じた。
彼の妻も花を愛するひとだった。
あまり見向きされない小さな花を見つけ出しては「カシスの花言葉はね、あなたを喜ばせるとか、あなたの不機嫌が私を苦しめる、あなたに嫌われたら私は死にます、っていうの」と語ってくれた。
『あなたを喜ばせるはいいけど、花言葉にしてはえらく刺々しいなあ』
『捉えようじゃないかしら。あなたの不機嫌で死んでしまうくらい、あなたの幸せが好きってことかもしれないわ』
ランポーネは妻の解釈など聞き流して果実ばかり見ていた。そんな花より団子の夫を見て、妻もまた幸せそうに笑うのだった。
「……花もいいがな、フラゴーラ。おいしい果実はもっといいぞ。甘くて、酸っぱくて、食べると元気が湧いてくるんだ」
「食べる? おいしい?」
精霊であるフラゴーラには食事という概念がない。彼女はきょとんとしてランポーネを見つめ、瞳を輝かせる。
「すてき。じゃあ、次は『おいしい』を探してくる!」
そう言い残すと彼女は再び風のように森へと駆けていった。
そして数刻後、一人の夕食を済ませたランポーネのもとに戻ってきたフラゴーラの両手いっぱいに、鮮やかなベリーの実が抱えられていた。
「これでランポーネの言う『おいしい』になる?」
「上出来だ。最高のデザートを作ってやるよ」
早速ランポーネがキッチンに立てばフラゴーラも期待に満ちた顔でそれを見守る。部屋の中に甘酸っぱい香りが充満し、焼き上がったのは特製のミックスベリーパイだ。
熱々のパイと淹れたての紅茶を持って二人は湖に面したウッドデッキへ出る。
さくっと心地よい食感を持つ生地に、とろりと熱いベリーのフィリング。フラゴーラは一口食べて目を丸くして表情を綻ばせた。
「花よりも、ずっとあたたかい味がする。これがおいしい?」
「そうだ。秋の味ってやつだな」
琥珀色に染まる湖を眺めながら仲良くパイを頬張った。木々を揺らす穏やかな風に甘い香りが溶けてゆく。
色彩が溢れる湖面から隣の男に視線を移し、フラゴーラが不意に問いかけた。
「ねえ、ランポーネはどうしてここに住んでるの?」
「うん?」
街のほうが便利で、人もたくさんいて、いつだっておいしいものを食べられるのに、なぜこんな寂しい場所にいるのだろう。彼も、そして彼女も。
「俺の奥さんが、ここにいるんだ」
「この湖に?」
「ああ、ここに眠っている」
横で凪いだ湖畔を眺める彼の顔はいつになく暖かく柔らかい。
「俺の……大切な思い出だよ」
静かに吹き抜ける秋風が木々を揺らし、届く陽の光に動く模様をつけている。
彼に多くは尋ねなかった。話すよりも多くのことをその柔和で物寂しい表情が物語っていた。
ただここにいたいと、彼女はぼんやりそう感じた。
かつてこの湖で妻を失った。遺体は見つからず、彼女はこの湖の一部になった。以来ランポーネはここに住んでいる。
年輪のように皴を重ねた男の横顔。漂ってくるパイの甘い香り。目の前に広がる湖のきらめき。
精霊として生まれたフラゴーラには、人が持つ複雑な感情も、過去という時間の感覚も理解できないはずだった。けれど胸の奥底から形にならない何かが込み上げてくる。
「なんだか、懐かしい気がする」
ぽつりとフラゴーラが呟いた。その言葉にランポーネがゆっくりと彼女を振り返る。
彼は泣いているような笑顔でそっとフラゴーラの頭に大きな掌を乗せた。無骨で温かい手が優しく彼女の髪を撫でる。
妻が愛した花を摘み、妻が好きだった手製のパイを無邪気に頬張る小さな精霊。
「そりゃあそうさ。俺たち、ミックスベリーパイを作った仲じゃないか」
フラゴーラは不思議そうに瞬きした。
彼女は人間だった頃のことを覚えていない。自分が誰かの生まれ変わりか、それともただの気まぐれな自然の化身なのか、何も知らない。
けれどランポーネの大きな手に撫でられている今この瞬間が、彼女には何より愛おしく感じられるのだった。
「また一緒においしいのを作ろうね、ランポーネ」
「ああ、もちろん」
二人は満ち足りた気持ちで微笑み合うと、再び静かに鮮やかな湖面へと視線を向けた。




