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12話

 


 寂しさも名残惜しさもあるがそれは一過性のもの。

 ただ賢治と出会う前の生活に戻るだけだと思っていた。


 だけど現実はそんなに甘くない。


 那騎は約束を守ってくれているようで、志騎が乗り込んでくる気配もなくここにきて五日が経とうとしていた。無理に話を聞きだされることもなく、普通に時間だけが過ぎていく。那騎とそうやって過ごしている間はこれで忘れられると思っていたが、一人になった途端頭に浮かぶのは賢治のことばかりだった。


 自分から逃げ出したくせに、もしかしたら賢治が探しているかもしれないと思う自分がいる。

 自分のことを正直に話していたら今でも賢治と一緒にいられただろうか。

 衝動的に逃げ出さず自分ともっと向き合っていればこんなに苦しくなかったかもしれない。

 これが“たられば”かとまた賢治の言葉を思い出し気が落ちる。あのときはこんな気持ちになるなんて思わなかった。すでに世斗の心は賢治からもらった言葉や教えてもらった知識で形成されているようだった。


 賢治に会いたい。

 美しいが愛想のない顔が恋しくなる。

 正論と綺麗ごとを真面目な顔をして言うあの男のことが忘れられない。

 こんなことなら得意な嘘で誤魔化せばよかった。何度も修羅場を潜り抜けてきたのだから世斗にはそれが出来たのに、賢治相手に嘘も誤魔化しも出来なかった自分が心底不思議でならなかった。



 日が経つにつれて眠りがどんどんと浅くなる。

 そっと布団から抜け出した世斗は足音を立てないようにキッチンへと向かった。洗い桶に入っていたコップを手に取り、水道の蛇口をひねった世斗は半分くらい水を入れる。すぐに飲むわけでもなくただ水の入ったコップを見つめていると、ぱちんと部屋の明かりが点いた。


「寝らんねぇの?」

「すいません、起こしちゃいましたか?」

 突然の明かりに目が眩む。

 申し訳なさそうに俯いた世斗に那騎は顔を顰めた。

「言っただろ。セトちゃん気遣いすぎだって。一人で思いつめた顔ばっかしてないで、俺のとこ起こせばいいのに」

「俺は休みもらっているけど、那騎さんさっきまで働いていたじゃないですか」

「俺だってまだ若いんだから体力だけはある」

 セトちゃんに比べたら年とっているけどさぁ。なんて言いながら那騎がリビングにあるソファに座った。

 何も言わないが視線だけでこっちに来るだろう?と訴えかけられている気がした。水を一気に飲み干して流し台にコップを置いてからソファへ向かう。那騎の隣に腰を下ろした世斗は両手を握り合わせてぽつりと呟いた。


「自分に嘘をついたことありますか」


 頼りない声が宙を舞う。口にして唐突だと思いなおした世斗が誤魔化す前に「そうだなぁ」と聞こえた。


「あるよ」

 那騎の答えに世斗は顔を上げる。那騎は世斗の視線を受け止めながら首を縦に振った。

「みんなあると思う。誰だってそんなに正直に生きられないでしょ」

「そう……ですよね」

 世斗だってそう思っている。どう考えたって賢治の言っていることのほうがおかしい。でも、ずっと心がモヤモヤとする。


「誰かに言われた?」

「……自分のことを傷つける嘘はつかないって約束したんです」

「その人いいこと言うじゃん。それでセトちゃんはその約束ちゃんと守っている?」


 ハッと目を見開いた世斗は黙り込んだが、すぐに返事が出来ない時点で答えを言っているようなもの。那騎は返事を待たずに口を開く。


「時と場合によっては良い嘘もあると思うけど。だけどその人の言う通り、それが誰かを傷つけるんだったら悪い嘘だよ。自分自身でもね」

「悪い嘘……」

「俺だっていつも正直に生きているわけじゃないけどさ。もし素直な気持ちのまま受け入れてくれる誰かに出会えたら幸せだなと思う」


 那騎がぐしゃぐしゃと世斗の髪を混ぜあわせた。ニッと歯を見せて笑う那騎は優しく世斗に言い聞かす。


「セトちゃんはさ、もう出会ったんだろ。信じたいなら信じてみたらいいじゃん」


 那騎の言う通りかもしれない。

 でもその幸せを自ら捨てた。苦しくて首を横に振る。


「自分のことしか考えてない。俺はそれを捨てたんですよ。本当の自分はすごく嫌な奴で、誰かの特別になんてなれないから」

「あのさ。もう少し楽に考えてみな」


 語尾が震えだした。身を固くして悟られないようにするが、頭を撫でていた那騎の手が止まる。


「俺は何も知らないけどさ、俺の中ではセトちゃんは一番可愛い後輩だよ。志騎さんだってそう思っている。もうこの時点でセトちゃんは、志騎さんと俺の特別だろ」


 そうなのか?

 本当にそう思っていいのか?

 グスッと鼻を啜った世斗に那騎は慌てて立ち上がった。


「な、泣くなって!セトちゃん泣かせたなんてバレたら俺が志騎さんに怒られる」

 那騎の大げさな物言いに世斗の身体から力が抜けた。目をこすって顔を上げる。

「それじゃ……匿ってくれているお礼に秘密にしておきますよ」

「いやいや、それじゃ本当に俺が泣かしたみたいじゃん」

 睫毛はまだ濡れているが世斗は小さく笑った。

 気持ちが少しだけ軽くなる。「ありがとうございます」と頭を下げると気にすんなと言わんばかりに背中を叩かれた。



 ―――――――――――――――――― 



「夜ごはん作っといたから、今日は絶対に家にいろよ」

「ありがとうございます。分かってますから。心配しないで荷物は任せてください」


 今日は大事な荷物が届くから家にいてほしいと何度も念を押された。

 そんなに大事なものって何なのか。気になって尋ねれば曖昧に言葉を濁される。那騎さんも男だ。言いにくいものの一つや二つ買っていたっておかしくない。


「っていうか、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。ここは那騎さん家なんですから、何使って遊んでいても引きませんよ?」

「だから玩具じゃねぇって!」


 何度かそんなやり取りをしたあと、仕事に向かう那騎を見送った。那騎が男もイケるならお礼の気持ちも込めて、丁寧に発散させてあげることも出来るがその辺りははっきりと聞いていない。勘の良い男だから世斗の指向には気づいているかもしれないが、自分から言うことでもないだろう。


 いつもより少しだけ音量を下げてテレビをつける。

 ソファの上で体育座りをしながらぼんやりと見ていたらインターホンが鳴った。


「ハンコいるかな……って、志騎さん!?」

 来客者を確認しようと取り付けられていた画面を見て、世斗はひっくり返った声を上げる。カメラに向かい笑みを浮かべて手を振っていたのは志騎だった。


「開けろ」

「……はーい」


 満面の笑みと声のトーンがあっていない。有無を言わさない志騎の口調にとりあえず返事をして通話を切る。


 (那騎さんの嘘つき!!)


 あんなに念を押したのはこの為か。

 心の中で那騎をなじるが、一週間匿ってくれただけでいいとしよう。

 連絡を無視したこと怒られるんだろうなと重たい足取りで玄関へ向かった世斗は、扉を開けてあははと笑いながら頭を掻いた。


「あー……連絡無視してごめんなさい」

「無断欠勤分は給料から引いておく」

「えぇっ」

「文句を言える立場か?」

「……いいえ」


 かなりお怒りモードらしく口調が現役の頃に戻っている。俯きながらすごすごと返事をすると志騎は世斗の額をピシっと指で弾いた。


「いったぁっ!」

「それより先に一番謝らなきゃいけない相手がいるだろ?」


 ジンジンと痛む額を押さえて顔を上げた世斗は、扉の影から顔を出した人物を見て目を瞠った。


「元気そうで……よかった」


 責めるわけでもなくそう言う賢治の表情は少しだけ固い。志騎は二人を見比べて言葉が続かないでいる世斗の前に賢治を押し出した。


「那騎には言ってある。ちゃんと話をしろ」

「話って言われても……」

「逃げんなよ」


 そのまま賢治の身体を部屋に押し込む。玄関に入ったことを確認して志騎は扉を閉めた。

 せめて志騎が一緒にいてくれたら話もしやすかったかもしれない。


 久しぶりに二人きりになって世斗は賢治の顔を見ることが出来なかった。


「世斗君」

「……え、っと。急に連絡無視してごめん。あ、あと。勝手に帰ったことも、ごめん」

「元気でいたならいいんだ。それに俺も君を傷つけたこと謝りたいと思っていた」

「賢治さんは何も悪くない。俺が勝手に逃げちゃっただけで」

「けど嫌なことを思い出させてしまったんだろう?」

「そんなこと……」


 嫌な思いとか傷つけたとかそういう言葉で世斗の感情を表すのは間違っている。賢治が悪くないことだけは分かっているのに、代わりになる言葉が見つからない。

 世斗が口を閉じると空気が凍り付いていく。居心地の悪い空気に肌を撫でられ、沈黙に耐えきれなくなった。

 世斗は自分の家でもないのに「とりあえず」と賢治をリビングへ招き入れる。


 ソファは一つしかないため必然的に横並びで座った。あまりにも緊張した世斗は、左側に座った賢治に自分の心臓の音が聞こえていないか不安になる。それくらい心臓の音は大きい。


 先に口を開いたのは賢治だった。


「俺は人が離れていくのに慣れている」

「あっ……」

 そういえば賢治はそんなことを言っていた。傷つけられたのではない。傷つけたのは自分のほうだ。保身のため無意識で賢治を傷つけていたことを知って体が竦む。

「他人の感情を推し量るのは苦手で、自分の正しさを押し付けてしまう。こんな愚かな自分といても相手が幸せになれると思わなかった。だからこれまで誰かを追いかけようと思ったことは一度もない。だけど、今だけ。……自分勝手なことを言わせてほしい」


 横目で賢治がこっちを向いたのが分かった。

 強く握った拳の中は手汗で湿り、見られているせいか呼吸が不規則になっていく。


「世斗君が自分を顧みることでトラウマを思い出すのなら、俺との約束は反故にしてもらっていいと言おうとした。世斗君が楽に生きられればいいと考えを改めようと思った。俺はただ君と一緒にいたいだけだから」


 たしかにそう思っていたが世斗は胃が締め付けられて呼吸が儘ならなくなるのを感じた。

 今までみたいに誤魔化して丁度良い距離感で過ごしたいと願っていたのに、なぜか痛くて苦しい。

 顎が胸につくほど首を直角に曲げ返事をしない世斗に賢治はゆっくりと口を開く。


「けど、それじゃ駄目なんだ」


「世斗君」と呼びかけられて、かろうじて「なに?」と返事だけした。何が駄目なのか世斗には分からない。ただお腹の底から強い衝動が込み上げてくる。


「やっぱり世斗君には自分を大切にしてほしいんだ。だから約束は守ってほしい。それでまた辛いことを思い出すのなら、その傷を俺にもわけてくれないか。どうすればいいか俺が一緒に考えるから、だから」

「俺はっ!……母親を捨てたんだよ」


 嗚咽を抑え込むと声が震えた。

 言いたくなかった。世斗の想いとは裏腹に、込み上げてきた衝動は涙ではなく言葉となって吐き出されてしまった。止まらない。これまでずっと隠してきた思いがあふれ出してしまう。


「最初は父さんに捨てられて、残った母さんはおかしくなって、うまくやっているなんて嘘をついた。最初に“いらない”って言ったのは母さんだけど……でも、結局俺は唯一の家族である母親を捨てたんだ」


 支離滅裂なことを喚き散らす。

 初めて他人の前で家族のことを口にした。

 言ってしまったという後悔か。それとも、ようやく誰かに打ち明けられたという解放感からか。世斗の目に大粒の涙が浮かび、瞬きをすると溜まった涙が頬を伝ってズボンに落ちた。


「あんな状態の母さんを置いてきたらどうなるか考えなかったわけじゃない……もしかしたらもう生きていないかも」


 そうしたら俺は殺人者になるのだろうか。

 最初の頃は店の事務室に置いてあった新聞の訃報の欄を恐る恐る見ていた。名前がないことに安堵して、でももし誰にも気付かれていなかったらと嫌な想像で頭がいっぱいになる。だから無理やりにでも考えないようにしていた。


「母さんの顔色を窺って、みんなに嘘ばっかりついて、高校中退して家飛び出した挙句この身体で居場所を作っていた。これがどういうことか……分かる?輪姦されることで自分が必要とされていると思っていたんだよ」


 ボロボロと零れる涙を拭うことなく世斗は静かに賢治に向き合った。


「今はそんな無茶しないけど、それでもこの体が大勢を咥え込んできた事実は消えない。こんなに綺麗で誠実な賢治さんに……ひっく。こんなに、汚い俺、が。……ふ、ふさわしいって、……思わな」


 賢治の顔に向かって手を伸ばす。涙で滲む視界で見ても賢治の顔は相変わらず綺麗だった。伸ばした手を掴まれて引き寄せられそうになるのを、咄嗟に身体をのけぞらせて抵抗する。嫌だと全力で拒むが、立ち上がった賢治が世斗の正面に回りこみ身体ごと抱きしめた。


 賢治の温もりは世斗の涙腺を弱くする。

 涙が溢れて止まらない世斗に賢治も声を震わせた。


「そんなこと言わないでくれ。世斗君は汚くなんかない」

 そんなはずない。と腕の中で首を横に振るが、賢治は世斗を抱く腕にさらに力を込める。

「自分を悪く言わなくていいんだ」

「だ、って、ほんとの」

「たとえ事実がそうであれ、それは世斗君が悪いわけじゃない。周りの状況が悪かっただけだ」

「なんでそんなふうに言いきれるんだよ」


 世斗がそう言うと賢治が一度身体を離した。

 目が赤くなっている。自分の為に泣いてくれているのだろうか。世斗の心はきゅっと縮み上がった。


「志騎さんに世斗君のトラウマに心当たりがないか聞いたんだ」

 この話は志騎にだって言っていないはずだ。世斗は泣き濡らした瞳で賢治を見つめる。

「最初は分からないと言っていたが、“居場所がない”と言っていたと教えてくれた」


 たしかにそんな話はした覚えがある。

 世斗が頷くと賢治は鞄から一冊のファイルを取り出した。その中から出てきたのは数枚の写真。

 表情に覇気があるとはいえないが、そこに映るのは紛れもない母親の姿だった。


「勝手なことをするなと言われる覚悟は出来ている。だが志騎さんと未成年のうちに知り合っていたことが、どうにも気になってしまい少し調べさせてもらった」

「会ったの?」

「いや、接触はしていない。ただ母親はちゃんと生きているから心配しなくていい。今は清掃のパートをしているようだ」

「……元気ってこと?」

「それはなんともいえない。精神科に通っているようだ」


 四年ぶりくらいだろうか。

 母を見たらもっと取り乱すかと思っていたが、意外と落ち着いている。昔世斗が病院を勧めたときは「病人扱いするのか」と激昂されたが、一人で生活をする中で気持ちに変化があったのだろうか。


「そう。……ははっ、それなら俺が出て行ったのは正解だったんだ」


 乾いた笑い声をあげる世斗に賢治はファイルから一枚の用紙を取り出した。世斗は病院の資料のような紙と賢治の顔を見比べる。


「もし世斗君が少しでも気がかりになっているなら、私に病院を紹介させてほしい。君を傷つけた相手なら放っておいても構わないが、そのことで世斗君が心を痛めるのであれば話は別だ」


 賢治は母親なんだからとは一切言わず、あくまで世斗の気持ちを案じて言う。むき出しになり血を流し続ける心に賢治の優しさが触れた。


「何もしなくていいよ。あの人は俺の事を忘れている方が幸せだと思う」

「世斗君はどうなんだ?」


 賢治の問いかけに世斗は口を閉じる。

 どうなんだと聞かれても正直分からないのだ。今まで表に出してこなかったせいで自分の気持ちを上手く言葉にすることは難しい。


「無理強いをさせるつもりはないんだ。言葉を選ばずに言わせてもらえば、この人にこの先何があっても自業自得だと思うからな」

 黙ってしまった世斗に代わり賢治は続ける。

「この人の為とか家族だからとかそういう理由ではなく、世斗君が気持ちに区切るをつけるために、俺はこの人をきちんとした病院に入れるのも一つの方法だと思う。手続きは俺がすべてやるから世斗君が会う必要もない」


 ソファからずるずるとお尻を滑らせて床にすとんとお尻をつける。

 世斗は賢治の顔を見上げて泣き笑いのような表情を見せた。


「賢治さんの言う通りにしたらさ。俺……母さんを捨てたってもう思わなくてもいいのかな」


 最初から愛されていなかったらこんな気持ちにならなかったのに。

 辛い幼少期ばかりじゃなかったのだ。

 世斗には11歳まで家族三人で幸せに暮らしていた記憶が確かに残っている。だからどんなに辛くても、どんなに母が変わってしまっても、どんなに嫌われたとしたって。


 心の底にある優しい笑顔で笑う母がこびりついて離れない。


 ずっと苦しかった思いを吐き出すと再び賢治に抱きしめられる。う、うっ、としゃくりあげる声は次第に号哭に変わっていった。


「もちろんだ、そんなこと思わなくていい」と、自分の泣き声の合間から繰り返し賢治の声が聞こえる。


 自分を許していいのだろうか。

 俺は、幸せになっていいのだろうか。


 賢治の腕に抱かれていると、涙と一緒にそんな不安が流れていくように感じた。



最後まで読んでいただき本当にありがとうございました!

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