10話
俺が11歳の時に親が離婚した。
正確に言えば父親が家を出て行った。明け方ガシャンとガラスの割れる音で目が覚めた俺は、砕けたコップを見てその上さらに母が花瓶を振りかぶっていたところを必死にとめた。
「お母さん止めてよ」
その声が届いたのか分からないが、今度は泣き出した母が机の上の物を薙ぎ払う。床に落ちたのは慰謝料のつもりか0がいくつも並ぶ通帳と判を押した離婚届だった。
その後、母がおかしくなるのに時間はかからなかった。
「お母さん今日学校でね……」
当時は、今は元気がないけどまたいつか今までの優しい母に戻ると信じていた。だから学校のこと、友達のこと、さっき見たテレビの話、いろいろな話をしていたんだと思う。
心ここにあらずで上の空だった母の地雷なんて分かるはずがなかった。
「今、なんて言ったの?」
「え?」
「今日は翔君のお家に行ったはずよね?」
いつもは相槌すら打たない母が突然聞き返してきた。ちゃんと話を聞いてくれていたんだと喜んだ俺は嬉々として口を開いた。
「そうだよ!翔君の家でゲームをしたの。そうしたら花ちゃんが……」
話の途中でバンッと大きな鳴って驚いた俺は口を閉じる。机に両手を叩きつけた母が俺と視線を合わせるようにしゃがんだ。
「花ちゃんって誰?女の子?」
「そ、そうだよ。同じクラスの」
あまりの剣幕に怯えながら言うと母は俺の肩を掴みそのまま大きく揺すった。
「女の子と仲良くしちゃ駄目じゃない!」
「お、お母さん?」
「素直に信じていたのは私だけだったの。あいつは騙された私を見て笑っていたんだわ。……全部あの女のせいよ」
何を言っているのか分からなかったが、ただ声を荒げる母が怖かった。
「いい?女なんて碌なものじゃないの!私たち家族を壊して、パパを奪っていった憎い存在なんだから絶対に近づいちゃダメ」
頷くだけで精いっぱいだった。
それから家にはお酒の空き缶が増え、母は口を開けば「女」の悪口を言うようになった。
父は母の学生時代からの親友と駆け落ちをしたらしい。
両親も学生時代から付き合っていたというのだから、おそらくそのときから三人は仲が良かったのだろう。母は「私が選ばれたのに」と繰り返し、まるで呪詛のように相手の名前を口にしていた。
母が言うように「女」を悪い存在と思ったわけではなかった。
俺が怖かったのは「大切な人に捨てられておかしくなった女」だった。
けれど同時に家庭環境が急に変わった俺を気にかけてくれる担任の先生に好意を抱くようになった。担任は若い男の先生で、そんな先生とどうこうなりたかったわけじゃなく、このときの俺はただ自分に親身になってくれる存在に縋りたかっただけ。でもそこで俺は自分の恋愛対象が男なんだと気が付いた。
コツさえ掴めば母との生活もある程度うまくいくようになっていた。
母とも気持ちが落ち着いていれば穏やかに話をすることも出来たからだ。
だから母の顔色を伺いながら地雷になりそうなものを全て排除する。テレビは勝手につけられないように配線を抜いてコンセントを隠し、父親を思い出すようなものは全て処分した。
食事は動画を見ながら真似をして作り、掃除や洗濯も自分でやった。
苗字が変わったことで離婚したことは広まっていたが暗い顔をしたことはない。学校の友達にはこんな生活をしていると知られたくなくて何度も嘘をついていた。
最初は罪悪感があったが、それも繰り返していくうちに何も感じなくなる。「母が具合悪い」「今日は父の方に行かなくちゃいけない」放課後遊べない理由なんていくらでもつくれた。
発作のようにいつ泣き出すか、怒り出すか分からない母との生活は大変だったが、それでも何とかやっていたんだ。
でもそう思っていたのは俺だけだったらしい。
高校一年のとき体調を崩し寝込んでいた母は急に目を覚ましたかと思うと、看病をしていた俺を虚ろな目で見つめて口を開いた。
「あなた帰ってきてくれたのね」
「母さん?」
「あの女に騙されていただけなんでしょう?でもいいわ、全部許してあげるから」
ベッドから身体を起こして縋りついてきた母を、俺は咄嗟に突き飛ばしてしまった。
「あっ。ご、ごめん母さん」
慌てて身体を支えようとするが今度はその手を母に払いのけられる。
「なんでパパじゃないの?」
「母さん……」
「出て行って」
母の肩が震えている。
「出て行ってって言っているでしょ!あんたの顔なんて見たくないの」
そう言うと母は頭から布団をかぶった。
うっすら気が付いていた。
幼い頃から父親似だと言われてきたが、成長するたびに鏡に映る自分に父の顔が重なるようになった。
そうして母の暴言は繰り返されるようになった。
直接責められない代わりに父そっくりの俺はちょうど良かったんだろう。
他人事だと割り切っていたから、父に向けられるはずの恨み言はいくらでも流せた。
だけど母はそれだけじゃ足りなくなっていた。
「私に必要なのはあんたじゃない」
母は俺の目を見てはっきりそう言ってきた。
「あんたなんていらないのに」そう続けられたとき、自分の中にあった核みたいなものが崩れていくのを感じた。
母の地雷になり得る父を感じさせるものはすべて排除してきた。
このまま父に似た俺が一緒にいることは母にとっても良くない。
というのは建前で、本当はもう疲れ果てていたんだ。
けど母親相手にそう思う自分が嫌で本音は自分でも分からなくなるくらい心の奥底に押し込めた。
そう、これはすべて母の為なんだ。
父が残したお金はまだ少し残っているし、母も貯蓄くらいはあるだろう。
大人なんだから一人で生きていけるはずだ。
そう自分に言い聞かせた。
高校の退学手続きが終わった日の夜。母が寝たことを確認してリュックと旅行鞄に自分の荷物を詰め込んだ。静かに部屋を出て玄関で靴を履いていた俺の耳に廊下が軋んだ音がする。振り返れば母が玄関にいるリュックを背負った俺と傍らにある旅行鞄を見つめていた。
「か、母さん。これは」
「世斗は本当にパパそっくりね」
いつもよりも穏やかな母の口調に背筋が凍る。
何より久しぶりに母の口から自分の名が出たことに驚いた。
「結局私を捨てる気なんでしょ?」
「捨てるって、なんだよ。さ、先に。いらないって言ったのは……母さんだろ」
母の声に迷いが生じてみっともなく声が震える。鞄の取っ手を強く握りしめた俺は母から顔を背けた。
「でも世斗はちゃんと帰ってきてくれるわよね?」
背を向けたまま返事をしないで立ち上がった俺に、母が近づいてくる足音が聞こえる。引き留められる前に俺は玄関の扉を開いて外に飛び出した。扉が閉まる瞬間、家の中から聞こえた慟哭したような声に全身が小刻みに震えだす。
「それならあんたも不幸になればいいっ!なんで、私ばっかりこんな……」
喉の奥からせり上がってくる強い衝動に耐えきれなくて俺はそのまま走って駅まで向かった。行先も見ないまま電車に飛び乗って滲む視界を擦る。始発電車だったせいか同じ車両には誰も乗っていなかった。それをいいことに俺は初めて泣いた。
それから俺はすぐ仕事を探した。
高校を中退した俺が出来る仕事は限られている。
ある程度の金と済む場所の確保が出来る仕事。思いついた方法は一つしかなかった。
俺は年齢を偽りホストクラブの面接にいった。身分証がないと言うとほとんどの店で断られたが、その中であっさり受かった店があった。生きていくためだ。怪しい店だと思ったが、他にどうすればいいのか選択肢はなかった。
案の定治安のいいお店ではなく雑用として入った俺は店の言いなり。なんでも言うことを聞いていたが、俺はどうしても女を抱くことだけが出来なかった。嘘をついてはのらりくらりかわしていたが、ある日店の先輩たちに無理やりその場を設けられてしまった。
そこで改めて気がついた。
俺は男に縋りつく女を受け入れられないことを。
慣れない俺に代わって前戯をしてくれた先輩と女の行為を見て吐き出してしまったんだ。それから男が好きだとバレて興味本位の先輩たちに輪姦されるようになった。
そこで俺は性欲の処理に恋愛感情は伴わないことを知る。
誰にやられても気持ちのいいことには変わりない。自分も母親のようにならないとは言い切れないのだから、特別な相手を作るほうが面倒だと思った。
それに血のつながった父親にも捨てられ、母親にも「いらない」と言われた自分を、他人が愛してくれるとも思わなかった。今は居場所がある。それだけで充分。
俺はこの生活を特に嫌だとは思っていなかったが、口の軽い先輩の一人が吹聴して歩いたせいで、店のホスト以外も受け入れるようになった。いつの間にかお金まで発生させていたらしい。
その噂を聞きつけた志騎さんが店にやってきたのは、一ヶ月くらいそんな生活を送っていた頃だった。
志騎さんの店はこの地域で一番の人気店で、そのトップだった志騎さんがこの辺りを牛耳っていたと言っても過言じゃない。当時俺は未成年だったせいもあって、あっという間に店は潰された。
残された俺は志騎さんに感謝の言葉言うどころか文句を言ったんだっけ。
「俺は男が好きなんだ。余計なお世話なんだよ!別に困っているわけじゃなかったのに、あんたは俺の居場所を奪うのか」
今思えばこんな生意気なガキをよく拾ってくれたなと思う。
そう吐き捨てた俺は志騎さんにぶん殴られて、けどそのまま志騎さんに面倒を見てもらうことになった。
喋りが上手だと志騎さんに言われてから、成人するのを待ってホストクラブを紹介してもらった。
意外と本名だと思われないから、新しい店ではカタカナ表記でセトを名乗った。女の子相手に接客自体は問題なくできた。話すことは楽しいし、相手が何を言ってほしいのか察するのは得意だった。
性欲だって今は志騎さんのお店でちゃんとお互い一度きりと割り切った相手を見つけている。
それでよかった。
よかったはずなのに。
―――――――――――――――
【勝手に帰ってごめん】
賢治の寝息を確認して世斗は静かに家を出た。
伝えたいことはたくさんあったが、それだけメッセージに送ると賢治の連絡先を削除する。たくさん愛を与えられ自分が価値のある人間のように接してもらい、少なからず浮かれていたのかもしれない。久しぶりにあんな夢を見たのは自分の罪を忘れようとした罰だ。
過去と向き合えば向き合うほど世斗は自分が誠実な賢治にふさわしいと思えなかった。
最終的に母を捨てたのは自分だ。
世斗がいなくなった母がきちんとした生活が送れるとも限らない。今どこでどうやって生きているのか。元気でやっているのか。何も知らない。最悪な事態になっているかもしれない。そう考えただけで吐き気が込み上げてくる。もっと上手い方法があったかもしれないのに考えることを放棄した自分は、どうしようもないほど愚かな人間だ。
(結局俺は母を捨てて逃げたんだ)
家族に愛されず、家族を捨て、嘘ばかりどんどん上手になった。
そんな自分の本性を他の誰よりも賢治にだけは知られたくなかった。
だからこうして世斗は逃げ出した。
賢治の家を出てから共通の知り合いになる志騎にもメッセージを送った。
【しばらく戻らない】
【もし賢治さんが来たら俺のことは知らないって言って】
そう送るとすぐに志騎から返信がきた。
それを見ないまま放置していたら電話が鳴る。今回は志騎にも頼りたくなくて、心苦しくなりつつも世斗はその連絡も無視した。
そうなると今世斗が頼れるのは一人だけだった。
世斗はとあるマンションのエントランスホールにいた。
ぼんやりと表示を見ながら待っているとエレベーターが動き出す。一階で止まり開いた扉から出てきた人物に世斗は頭を下げた。
「急にすいません」
「いや、俺はいいけど。こんな時間にどうした?」
肩をぽんぽんと叩かれ顔を上げる。前髪を下ろしているせいで店で見るより幼い印象を受ける那騎が心配そうに問いかけてきた。
「迷惑かなって思ったんですけど、志騎さんには頼れなくて。俺、あとはもう那騎さんしか」
「わかった。とりあえず話は後にしよう。部屋行こうぜ」
「ありがとうございます」
エレベーターに乗り込むと那騎は最上階のフロア番号を押した。無言のまま二人を乗せたエレベーターはあっという間に目的の場所へ到達する。
那騎の部屋にいくのは初めてだ。
中に入ると想像していたよりも何もなく世斗はきょとんと眼を丸くする。最低限の家具しかなくガランとした空間がやけに部屋を広く感じさせた。
「意外とか思ってんだろ」
ソファに座った那騎は世斗を手招いた。
那騎の隣に腰かけた世斗は部屋全体を見渡しながら曖昧に笑う。
「意外というか、那騎さんもっとギラギラした感じが好きだと思っていました」
那騎は声を上げて笑いながら首を横に振る。
「好きだよ。だけどお店と同じ雰囲気にしちゃうと気が休まらないじゃん。ここにいるときは完全にオフになれるようにあえてこうしてんだよ」
「あぁなるほど」
ひとしきり笑った那騎は「それで?」と隣に座った世斗を見る。
「事情説明できる感じ?それとも詳しく聞かない方がいいのかな?」
もちろんある程度説明する気でいたが今は考えがまとまっていない。何から言うべきか分からず眉を下げた世斗の肩を那騎が叩く。
「そんな顔すんな。なんかヤバいことに巻き込まれてるとかじゃないよな?」
「そういうんじゃないんですけど」
「なら好きなだけここにいていいからさ。話も無理に聞かねぇし」
「すいません、あの絶対にちゃんと話します」
「いいって。で?志騎さんにも内緒なんだろ?」
世斗は俯いたままもう一度「すいません」と言った。
志騎のことを心底尊敬している那騎に嘘をつけと言っている。
胸が押さえつけられているように苦しい。やはり賢治と出会ってから罪悪感を覚えるようになってしまった。人としてそれは良いことだが、世斗にとってはただ苦しいだけ。
那騎は項垂れたままの世斗の肩を再び叩いて「大丈夫」と笑った。
「俺のことはいいからさ。それに俺を頼ってくれたの、けっこう嬉しかったりするんだけど」
「あ、ありがとうございます……」
那騎の優しい言葉が自分にはもったいない。
震える声でそう言うのが精一杯だった。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございました!
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