沈黙の筆談
縄梯子を登り、甲板に足を踏み入れた瞬間。 澤北の鼻を突いたのは、機械油の匂いではなかった。 腐臭。 何かが腐り落ちていくような、酸っぱい、重たい空気。
取り囲む兵士たちは、立派な軍服を着ているが、その顔色は土気色だった。眼窩は落ち窪み、立っているのがやっとという風情で揺れている。
奥から、提督らしき男が現れた。 彼もまた、青白い顔をしていた。 提督は澤北の前に立つと、何かを捲し立てた。 喉の奥から絞り出すような、硬い響きの言語。 英語でも、ドイツ語でもない。澤北の知らない未知の言葉だ。
澤北は無言で首を振った。 提督は苛立ちを露わにし、腰のサーベルに手をかけた。 「言葉の通じぬ未開人か」という侮蔑の目が向けられる。
澤北は、ゆっくりとしゃがみ込んだ。 甲板の上に落ちていた、黒い石の欠片――石炭を拾い上げる。 そして、鉄の床に、ガリガリと線を描き始めた。
丸い円筒。その下に燃え盛る炎。 管を通り、ピストンを押し上げる蒸気。 回転する車輪。
蒸気機関の概略図。
描き終えると、澤北はその図の上に、拾った石炭を置いた。 そして、黒船の巨大な煙突と、足元の図を交互に指差した。
――石炭を燃やし、水を沸かし、その力で鉄を動かす。お前たちの正体は、これだ。
提督の目が釘付けになった。 サーベルから手が離れる。 彼は澤北の顔を、まじまじと見つめ返した。 そこにはもう、蛮族を見る目はなかった。自分たちの文明の根幹を理解する「技術者」を見る目だった。
提督は懐から紙とペンを取り出した。 サラサラと描かれたのは、都市の略図。そしてその上に「×印」。 さらに、船の大砲を指差した。
単純明快な脅迫。 「降伏しなければ、街を焼く」。
澤北は、その紙を受け取らなかった。 代わりに、別の絵を甲板に描いた。
ドクロのマーク。 そして、倒れ伏す兵士たちの絵。 澤北は立ち上がり、近くにいた一人の若い兵士に歩み寄った。 周囲がどよめき、銃が構えられる。 だが澤北は意に介さず、兵士の目の前で、自分の口を大きく開けて見せた。 健康なピンク色の歯茎。 そして、兵士の口元を指差した。
兵士は怯えながらも、力なく口を開いた。 そこにあったのは、赤黒く腫れ上がり、血が滲む歯茎。歯は抜け落ちかけている。
澤北は提督を振り返った。 自分の健康な歯茎と、兵士の病んだ歯茎を交互に指差す。 そして、首を横に振った。
――脅している場合か? お前たちは、もう限界だ。
提督の顔が強張った。 隠していた致命的な弱点。 軍事機密でもなんでもない、ただの「栄養失調」という死神に、彼らが喉元を食いちぎられかけていることを、この異邦人は見抜いたのだ。
沈黙が落ちた。 波の音と、蒸気機関の低い唸りだけが響く。
澤北は、再び石炭を握った。 最後の絵を描くために。 黄色い楕円形の果実。 レモン。 そして、樽に入ったキャベツの絵。
彼は食べるジェスチャーをし、力こぶを作って見せた。 ――俺なら、治せる。
提督は呆然とその絵を見つめていたが、やがて、ガクリと膝をついた。 プライドも、脅迫も、生存本能の前には無力だった。 彼は震える手で、澤北に向かって掌を差し出した。 「くれ」という、無言の懇願だった。




