直角の証明
小舟は、波に揉まれながら黒船へと近づいていく。 漕ぎ手はタケル一人。船首に立つのは澤北。 頭上を覆うような鉄の壁が迫る。見上げれば、甲板には異国の兵士たちが銃を構え、殺気立った視線を注いでいるのが見えた。
今にも引き金が引かれそうな緊張感。 澤北は、持参した大きな木の板をゆっくりと掲げた。
白旗ではない。 そこに描かれているのは、言葉でも、降伏のサインでもない。 炭とチョークで描かれた、「図形」だ。
一つの直角三角形。 その三つの辺に、それぞれ接する正方形。 正方形の中には、グリッドが描かれている。 三×三の九。 四×四の十六。 五×五の二十五。
ピタゴラスの定理。 この宇宙を支配する、変わることのない幾何学の真理。
――ドォン!
黒船から水飛沫が上がった。威嚇射撃だ。 小舟が大きく揺れ、タケルが悲鳴を上げる。 「おい! 撃ってきたぞ! 通じてねえ!」
澤北は板を下ろさなかった。 波しぶきを浴びながら、さらに高く、敵の艦橋に向けて掲げ続けた。 風が、板を吹き飛ばそうと吹き荒れる。
(……見ろ。見ているはずだ)
澤北は念じた。 これほどの船を作る文明だ。彼らが「蛮族」を殺しに来たのなら、撃てばいい。 だが、もし彼らに「知性」への敬意があるなら。
黒船のブリッジ。 一人の士官が、双眼鏡を覗いていた。 彼の手が止まる。 レンズの向こうにあるのは、ただの布切れではない。正確に描かれた、数学的証明図。 自然界には存在しない、知性のみが生み出せる「形」。
長い、長い沈黙があった。 波の音だけが響く。
やがて、甲板の兵士たちの銃口が、ゆっくりと下げられた。 士官が手すりに身を乗り出し、手旗信号のようなジェスチャーを送った。 「来い」。
澤北は板を下ろし、大きく息を吐いた。 背中には、びっしりと冷や汗をかいていた。
「……通じました。数学は、言葉よりも雄弁だ」




