命のスープ
翌朝、澤北は鳥のさえずりではなく、腹の虫が鳴く音で目を覚ました。 納屋の板隙間から差し込む光は冷たく、空気は凍てついている。昨夜、タケルがこっそり差し入れてくれた薄い毛布がなければ、凍死していたかもしれない。 ガチャリ、と閂が外される音がした。 扉が開き、朝の逆光の中にタケルが立っていた。
「……生きてるか」 「なんとか」
澤北は体をさすりながら立ち上がった。節々が痛むが、頭は冴えている。 覚悟は決まっていた。
外に出ると、村の広場には既に人が集まっていた。 村長を中心に、三十人ほどの村人たちが遠巻きにこちらを見ている。その目は、昨日と同じく虚ろで、しかしどこか嗜虐的な期待も含んでいた。余所者が無様な失敗をして追い出されるのを見物に来たのか、それとも奇跡を期待しているのか。
「道具は揃えておいた」
村長が指差した先には、煤けた大きな鉄鍋と、汲み置きの水、そして焚き火の跡があった。 澤北は無言で一礼し、鍋の前に立った。 これが、自分の「職場」だ。 キーボードもモニターもない。あるのは泥だらけの食材と、ボロボロの鍋だけ。
(やるぞ。これでお前の価値が決まる)
澤北は深呼吸をし、作業を開始した。 まずは火おこしだ。タケルが手伝ってくれようとしたが、澤北はそれを制し、自分で火打石と枯れ草を使って火をつけた。小さな炎が生まれる。その揺らめきが、今の澤北には希望の灯火に見えた。
鍋に水を張り、火にかける。 その間に、澤北は石を使ってサワガニを徹底的に叩き潰した。 グシャ、グシャという音が響く。村人たちが顔をしかめるのが分かった。
「おい、あんな殻ばかりの虫を潰してどうするんだ」 「気味の悪い……」
囁き声が聞こえる。だが、澤北の手は止まらない。 潰したカニを殻ごと鍋に放り込む。沸騰するにつれ、灰色の水が徐々に赤みを帯びていく。 次にナラタケだ。石突を切り落とし、丁寧に泥を拭ってから手で裂いて鍋へ入れる。 最後に、タケルが集めてきた野草――セリやミツバに似た香草を刻んで加えた。
味付けはどうする? 澤北は村長に向き直った。
「村長。塩を、少しだけ分けてもらえませんか」 「……貴重な塩だぞ。無駄にしたら承知せんからな」
村長は懐から小さな布袋を取り出し、ほんのひと摘みの塩を澤北の掌に落とした。砂金でも扱うかのような慎重さだった。 澤北はその塩を、祈るように鍋へ溶かした。
グツグツと鍋が煮える音が、静まり返った広場に響く。 やがて、変化が起きた。 湯気と共に、香りが広がり始めたのだ。 カニの殻から出た芳ばしい磯の香りと、キノコの濃厚な土の香り、そして野草の清涼感。それらが混ざり合い、強烈な「食欲」を刺激する匂いとなって村人たちの鼻腔をくすぐった。
ゴクリ。 誰かが生唾を飲み込む音が聞こえた。それを合図に、村人たちの表情が一変する。 虚ろだった目に光が戻り、鼻をひくつかせ、鍋の方へとにじり寄り始める。人間の本能が、その匂いを「ご馳走」だと認識したのだ。
「で、できた……」
澤北は鍋を火から下ろした。 濁った茶色のスープ。見た目は決して良くない。だが、その香りは一級品だ。 村長が杖をついて歩み寄る。
「……毒見を」
澤北は木の器にスープを掬うと、震える手でそれを口元へ運んだ。 熱い。 一口すする。 衝撃が走った。 美味い。いや、そんな単純な言葉では足りない。 カニの殻から溶け出したカルシウムとアミノ酸の旨味。ナラタケから出たコク。それらが、空っぽの胃袋に染み渡り、冷え切った内臓を内側から温めていく。 かつてコンビニで食べた、化学調味料たっぷりの弁当とは違う。命そのものを啜っているような、力強い味がした。
「……美味いです」
澤北は顔を上げ、涙ぐみそうになるのをこらえて言った。 体調に異変はない。腹痛も吐き気もない。 澤北は残りを一気に飲み干し、空になった器を村長に見せた。
「毒はありません。食べてください」
村長は澤北の顔をじっと見つめ、それからお玉を受け取った。 鍋の中身を掬い、口に運ぶ。 村人たちが固唾を飲んで見守る。 村長の動きが止まった。閉じた瞼の端から、一筋の雫が零れ落ち、深い皺を伝って流れた。
「……味が、する」
震える声だった。
「木の根や泥の味ではない。……命の味がする」
村長は目を開き、周囲の村人たちに叫んだ。
「椀を持ってこい! 皆の分もある! これは、食べ物だ!」
その瞬間、堰を切ったように村人たちが殺到した。 我先にと鍋に群がるが、タケルが「並べ! 逃げやしねえ!」と大声で整理する。 配られたスープを口にした人々から、次々と声が上がった。
「うめぇ……」 「温かい……」 「カニって、こんなに美味かったのか……」
泣きながら啜る老婆がいる。夢中で器を舐める子供がいる。 広場は、熱気と、そして「生きている」という実感に包まれていた。 その光景を、澤北は少し離れた場所から見ていた。 胸の奥が熱かった。 前世では、誰かに感謝された記憶などほとんどない。「使えない」「邪魔だ」と疎まれ続け、自分自身でも自分の価値を否定し続けてきた。 だが今、自分が持っていた「無駄な知識」が、数十人の人間を笑顔にしている。命を繋いでいる。
(俺は、ここにいていいんだ)
その事実が、何よりも澤北の心を癒やした。 ふと、肩を叩かれた。 タケルだった。彼もまた、満足そうに口元を拭っている。
「やったな、澤北」
タケルはニカッと笑い、拳を突き出してきた。
「大したもんだ。お前は今日から、この村の救世主だ」 「救世主なんて……ただの雑学好きですよ」
澤北は照れ隠しに笑い、タケルの拳に自分の拳を軽く合わせた。 コツン、という感触。 それが、澤北がこの世界で初めて結んだ「契約」だった。
宴のような朝食が終わった後、村長が澤北の元へやってきた。 その表情は、昨日までの険しいものではなく、一人の指導者としての威厳と、澤北への敬意に満ちていた。
「澤北殿。非礼を詫びる」
村長が頭を下げたことに、澤北は慌てた。
「やめてください、頭を上げてください!」 「いや、命の恩人に頭を下げるのは当然だ。……あんたの知識は本物だ。どうか、この村に力を貸してほしい」
村長は真剣な眼差しで言った。
「この通り、食い扶持はどうにかなるかもしれん。だが、問題は山積みだ。冬を越すための薪も、家も足りん。それに……」
村長の顔が曇る。
「来月には、領主様の徴税官が来る。不作続きだろうが関係ない。銀貨か、あるいは若者を人身御供として差し出せと言ってくるだろう。我々には、もう守る術がないのだ」
徴税。人身御供。 せっかく飢餓から脱しても、理不尽な暴力がこの村を襲う。 澤北の背筋が伸びた。 スープ一杯で終わりではない。これはまだ、マイナスがゼロになっただけだ。ここからプラスにしていかなければ、未来はない。
澤北は村長とタケルを見渡して言った。
「分かりました。俺にできることなら、何でもします。……この村を、皆で豊かにしましょう。誰も飢えることなく、理不尽に奪われることのない村に」
それは、前世で何も成し遂げられなかった澤北が、初めて自らの意思で掲げた「目標」だった。
鉛色の空の下、冷たい風は相変わらず吹いている。 だが、澤北の目には、確かにこの村の未来が映っていた。 再生の物語は、まだ始まったばかりだ。




