不可侵条約
翌朝。 黒い馬車は、来た時とは打って変わって、大量の土産物(酒とガラス、そして賄賂)を積み込んで村を去っていった。 「また来るぞ! 励めよ!」
上機嫌で手を振るゲオルグ。 その姿が見えなくなると、村人たちは一斉に安堵の溜息をついた。
「……本当に行っちまったな」
タケルが信じられないという顔で言った。
「あんな狸親父が、ニコニコして帰るとは」 「安くない出費でしたけどね」
澤北は肩の力を抜いた。
「酒とガラスの生産量の三割は、あの男への賄賂に消えます。ですが、税として八割取られるよりはマシです」 「ああ。それに、戦争にならなかった」
ガロウが腕を組んで言った。
「俺たちが戦えば、勝てたかもしれんが、死人は出た。……澤北、お前のやり方は気に食わんが、効果があるのは認める」 「気に食わなくて結構ですよ。俺だって、あんな男に頭を下げるのは反吐が出そうですから」
澤北は苦笑した。 昨夜の接待で飲んだ酒が、まだ胃の底でムカムカしている気がした。 だが、守った。 村の日常を、子供たちの笑顔を、毒饅頭一つで守りきったのだ。
その夜、澤北は一人で帳簿を見直していた。 二重帳簿。 表向きの「貧しい村」の帳簿と、裏の「真実の収益」が記された帳簿。 これを使い分ける日々が始まる。綱渡りの日々だ。
(だが、いつまでも通用しない)
澤北はペンを置いた。 ゲオルグの欲は膨らむだろう。いつか、要求が賄賂で賄いきれなくなる日が来る。あるいは、領主自身が視察に来るかもしれない。 その時までに、本当の力をつけなければならない。




