泥の中の宝石
タケルの背中を追いながら、澤北は泥濘んだ獣道を歩き続けた。 道中、会話は少なかった。タケルの警戒心が完全に解けたわけではないからだ。時折、振り返ってはこちらがついてきているかを確認する視線には、期待と疑念が半々に混じっている。
「おい、本当にこんな根っこが食えるのか?」
タケルが立ち止まり、先ほど澤北が採取させた植物の根をまじまじと見つめた。泥だらけで、一見するとただの木の根にしか見えない。 それは、葛の根に似ていた。
「食えますよ。いや、正確にはその根を砕いて、水に晒して、底に沈んだ白い粉を取り出すんです。手間はかかりますが、立派な腹の足しになります」 「粉……? 麦や蕎麦みたいにか?」 「似たようなものです。とろみがつくから、体を温めるには丁度いい」
澤北の脳裏に、かつて業務スーパーで買った大袋の片栗粉で空腹を凌いだ記憶が蘇る。水で溶いて砂糖を少し入れ、電子レンジで温めるだけの「わらび餅風」の何か。あの味気ない半透明の物体が、今の自分にとってはご馳走の記憶として輝いている。
(情けない記憶ばかり役に立つな……)
自嘲しながら、澤北は周囲の植生に目を走らせた。 歩きながら気づいたことがある。この森は「死にかけている」が、完全に死滅しているわけではない。ただ、人間にとって都合の良い「作物」や「獲物」が消え失せているだけだ。 雑草はしぶとく生えているし、日陰には湿気を好むキノコ類も見受けられる。 「あ、ストップ」
澤北が声を上げると、タケルが過敏に反応して弓を構えた。
「なんだ! 熊か!?」 「違います。あれを見てください」
澤北が指差したのは、倒木の陰に群生している茶色いキノコだった。 タケルは顔をしかめた。
「なんだ、毒茸か。あんな色のやつを食って死んだ爺さんがいたぞ」 「確かに似ている毒キノコはありますが、あれは『ナラタケ』です。傘の真ん中にささくれのような模様があるでしょう? それに、この出汁のような匂い」
澤北は近づき、慎重に一本を引き抜いた。鼻を近づけると、湿った土の匂いの奥に、濃厚な菌類の香りがする。
「煮るとぬめりが出て美味いんです。毒抜きのために、しっかり火を通す必要がありますけどね」 「お前……まさか全部の種類を覚えてるのか?」 「全部じゃありません。知っているものだけです。知らないものには手を出さない、それが鉄則ですから」
嘘ではない。かつて図書館で借りた図鑑を暇つぶしに読み漁った知識だ。社会との接点を失った人間にとって、活字だけが唯一の友人だった。特に「サバイバル」や「自給自足」の本は、社会システムが崩壊することを心のどこかで望んでいた澤北にとって、聖書のようなものだったのだ。
タケルは半信半疑ながらも、澤北が採取したナラタケを布袋に詰め込んだ。 その袋が少しずつ膨らんでいくのを見るたび、タケルの表情から険しさが抜け、代わりに安堵のような色が浮かんでくるのを澤北は感じた。 それは、「今日の飯がある」という生物としての根本的な安心感だ。
小川に差し掛かった時、澤北はさらに足を止めた。 水は冷たく澄んでいる。流れの緩やかな淀みに目を凝らすと、川底の石の下に動く影があった。
「タケルさん、何か突くものか、網のようなものはありませんか?」 「網なんぞとっくに壊れちまったよ。槍ならあるが……魚なんて一匹もいねえぞ」 「魚じゃありません。カニです」
澤北は服の袖をまくり上げ、冷水に手を突っ込んだ。 指先の感覚が麻痺するほどの冷たさだ。石をそっと持ち上げると、慌てて逃げようとする赤黒い甲殻類を素早く押さえつける。 サワガニだ。小さいが、貴重なタンパク質である。
「こんな小さい虫みたいなもん、食うとこねえだろ」 「殻ごとすり潰して味噌……いや、塩があれば汁にするんです。良い出汁が出ますよ。カルシウムも摂れる」 「カルシウム?」 「骨を強くする栄養です」
澤北は次々とカニを捕まえ、タケルの持つ袋へ放り込んでいった。 泥だらけの根っこ、毒かもしれないキノコ、そして小さなカニ。 普通の時代なら見向きもされないような「ゴミ」の山。だが、今の澤北とタケルにとっては、それが命綱だった。
作業を終え、再び歩き出した頃には、日は完全に傾きかけていた。 タケルがポツリと口を開いた。
「……村は、酷いありさまだぞ」
独り言のような呟きだった。
「期待するなよ。暖炉もなければ、ふかふかのベッドもねえ。去年からずっと続く冷害で、作物は全滅だ。備蓄していた麦も底をついて、種籾にまで手を出しちまった家もある」 「種籾に……」
それは、農家にとって「死」を意味する言葉だ。来年の収穫を放棄してでも、今を生き延びねばならない。そこまで追い詰められているのか。
「村長も、苦渋の決断をしてる。働けねえ年寄りや、口減らしのために……いや、なんでもねえ」
タケルは口を噤んだ。 その沈黙が、村の現状を何よりも雄弁に語っていた。 澤北は背筋が寒くなるのを感じた。これから向かうのは、牧歌的なファンタジーの村ではない。極限状態の「生存圏」なのだ。 そこで自分のような「余所者」が受け入れられる確率は、限りなく低い。 (やるしかない。自分の価値を、証明し続けるしかない) 就職活動で百回以上味わった、あの喉が詰まるような緊張感。 「あなたを雇うメリットは?」 そう問われている気がした。あの時は答えられなかった。資格も、経験も、自信もなかったからだ。 だが今は違う。手には泥だらけの知識がある。
やがて、森が開けた。 夕闇の中に、いくつかの影が浮かび上がる。 村だ。




