凍てつく夏、止まった時間
意識の底に、まだあの部屋の匂いがこびりついている気がした。 カビと埃、そしてコンビニ弁当のプラスチック容器が放つ独特の油の臭い。薄暗い六畳間。遮光カーテンの隙間から漏れるわずかな陽光さえ、澤北にとっては突き刺さるような非難の眼差しのように感じられた日々。
澤北は、死んだはずだった。 劇的な最後ではない。誰かを庇ったわけでも、トラックに跳ねられたわけでもない。ただ、長年積み重なった不摂生と、社会から拒絶され続けた精神の摩耗が、ある日ぷつりと生命維持のスイッチを切っただけだ。「就職氷河期」という巨大なクレバスに落ち込み、這い上がるためのピッケルも持たされずに社会へ放り出された世代。百社を超える不採用通知。いつしか「努力不足」という言葉が呪いのように内側を蝕み、三十代、四十代と歳を重ねるごとに、世界は色を失っていった。
(終わったんだ。やっと、何もかも)
そう思ったはずだった。深い安堵があったはずだった。 だが、今の澤北を包んでいるのは、安らかな虚無ではなかった。
「……寒い」
掠れた声が漏れた。自分の声のようであり、もっと若い、別の誰かの声のようでもあった。 背中に感じるのは、煎餅布団の感触ではない。硬く、湿り気を帯びた土の冷たさだ。頬を撫でる風には、雨に濡れた草木の青臭い匂いが混じっている。 澤北は重いまぶたを押し上げた。
視界に飛び込んできたのは、天井のシミではなく、鈍色の空だった。 雲が低い。まるで空全体が地上を圧迫しているかのように、分厚い雲が垂れ込めている。そこから降り注ぐ光は弱々しく、周囲の景色を彩度の低いグレーのフィルター越しに見ているようだった。
ゆっくりと上半身を起こす。関節がギシギシと悲鳴を上げた。 そこは森の中だった。だが、テレビや写真で見るような豊かな森林ではない。木々の幹は痩せ細り、枝についている葉は虫に食われたように穴だらけか、あるいは季節外れに黄色く変色している。 下草もまばらだ。地面はぬかるんでおり、所々に汚れた水たまりができている。
「どこだ、ここは……」
澤北は立ち上がろうとして、足元のふらつきに膝をついた。空腹だ。いや、空腹という言葉では生温い。胃袋が内側から自らを消化し始めているような、強烈な飢餓感があった。 震える手で地面の水を掬おうとして、ふと自分の手を見る。 あかぎれだらけの手。爪の間には泥が詰まっている。だが、記憶にある四十代の自分にしては、皮膚に張りがあるようにも見えた。 近くの水たまりを覗き込む。水面は揺れていて不鮮明だったが、そこに映っていたのは、くたびれた衣服をまとった若者の姿だった。二十代半ばくらいだろうか。頬はこけ、目は落ち窪んでいるが、明らかに「おじさん」と呼ばれていた頃の自分ではない。
(若返ったのか? それとも、誰かの体に乗り移ったのか?)
いわゆる「異世界転生」。生前、ネットの海で時間を潰すために読んだ物語の数々が頭をよぎる。しかし、現状はそんな娯楽作品のような高揚感とは無縁だった。 チート能力? ステータス画面? 念じてみる。「ステータスオープン」。何も起こらない。 手のひらから炎を出そうとイメージしてみる。出るのは冷や汗だけだ。
「……冗談じゃないぞ」
澤北はよろめきながら歩き出した。 夢ではないという確信が、冷たい風と共に肌にまとわりつく。吐く息が白い。今は夏のはずなのに、晩秋のような寒さだ。 周囲の植生を見る限り、ここは日本ではないかもしれないが、少なくとも地球に近い環境に見える。しかし、決定的に何かがおかしい。 森が「死にかけている」のだ。 鳥の声がしない。虫の羽音さえ聞こえない。生命の気配が極端に薄い。
しばらく歩くと、少し開けた場所に出た。そこには、枯れかけた野草の群生があった。 澤北の足が止まる。記憶の引き出しが、勝手に開いた。 ――オオバコだ。 かつて、金がなくなり、食べるものに困った時にネットで調べまくった「野草知識」。公園の雑草を天ぷらにして飢えを凌いだ記憶。惨めで、情けなくて、誰にも言えなかったあの時の経験が、脳内でフラッシュバックする。 目の前にあるのは、踏まれても育つ強靭な雑草、オオバコによく似ている。葉の形、葉脈の走り方。間違いない。 「食える……かもしれない」
澤北はその場に座り込み、葉をむしり取った。泥を拭うのもそこそこに、口に放り込む。 青臭い。筋っぽい。そして、微かにえぐみがある。 だが、喉を通った瞬間、胃が歓喜の声を上げた気がした。 夢中で咀嚼した。二枚、三枚。泥の味も気にならなかった。ただ、生命を繋ぐための有機物を体に取り込むことだけに集中した。
(知識だ……)
咀嚼しながら、澤北はぼんやりと考えた。 前世では何の役にも立たなかった知識。就職面接で「野草に詳しいです」と言っても嘲笑されるだけだった無駄な雑学。 誰とも繋がれず、社会の歯車になれなかった自分が、一人きりの部屋で積み上げた、誰の役にも立たない情報の山。 それが今、自分の命を救っている。
「はは……」
乾いた笑いが漏れた。 皮肉な話だ。社会で生きるために必死で覚えたビジネスマナーやエクセルの使い方は何一つここにはない。あるのは、社会から逃避するために詰め込んだ雑学だけ。 だが、それがこの世界での武器になるなら。
澤北は立ち上がった。少しだけ、足に力が戻っていた。 風が吹き抜け、枯れかけた木々がざわめく。 気温は低い。おそらく、この世界は何らかの原因で寒冷化している。植物の育ちが悪いのもそのせいだろう。 「冷夏」「凶作」。歴史の教科書で読んだ単語が浮かぶ。江戸時代の三大飢饉。天明、天保。 もしここがそんな時代のような場所だとしたら、悠長に森を彷徨っている場合ではない。冬が来れば、確実に死ぬ。
「人が、いる場所を探さないと」
孤独は慣れているつもりだった。だが、この大自然の中での孤独は、六畳間のそれとは質が違う。ここでは孤独は死に直結する。 澤北は歩き出した。 道なき道を、わずかな獣道を頼りに。
数時間歩いた頃だろうか。日が傾きかけ、森の闇が濃くなり始めた時、澤北の耳に微かな音が届いた。 ガサッ、ガサッ。 枯れ葉を踏む音。風の音ではない。リズミカルな、二足歩行の生物が発する足音だ。
人か? それとも獣か? 澤北はとっさに太い木の幹の陰に身を隠した。心臓が早鐘を打つ。 もし野盗のような連中だったら、身包み剥がされるどころか殺されるかもしれない。今の自分には守るべき財産など何もないが、命だけはある。
足音は近づいてくる。 木の陰から恐る恐る顔を出すと、そこには一人の男の姿があった。 年齢は澤北の今の肉体と同じくらいか、少し下だろうか。ボロボロの布を継ぎ接ぎしたような衣服をまとい、背中には粗末な弓矢を背負っている。手には枯れ枝を束ねたものを持っていた。 男の表情は険しい。目は獲物を探す獣のように鋭いが、その奥には深い疲労の色が見て取れた。
(現地人……!)
言葉が通じるかどうかもわからない。だが、このまま森で夜を迎える恐怖と天秤にかければ、接触を試みる価値はある。 澤北は大きく深呼吸をし、意を決して木の陰から姿を現した。
「あ、あの……!」
声が裏返った。 男が弾かれたようにこちらを向き、瞬時に腰のナイフに手をかけた。その動きは洗練されてはいないが、生き抜くための必死さに満ちていた。
「誰だ!」
言葉が、通じた。 日本語だ。あるいは、転生の特典として言語理解能力が備わっているのか。どちらにせよ、意思の疎通は可能だ。 男は警戒心を露わにしながら、澤北を頭から爪先まで観察した。そして、澤北が武器を持っていないこと、見るからに衰弱していることを見て取ると、わずかにナイフから力を抜いた。
「……見たことない顔だな。どこの村のモンだ?」 「ええと、その……気づいたらこの森にいて。道に迷ってしまったんです」
苦しい言い訳だが、半分は真実だ。 男は鼻を鳴らした。
「迷子になるような森じゃねえよ。食うもんがなくて口減らしに捨てられたか、村を追い出されたか……まあ、どっちでもいい」
男は興味を失ったように背を向けた。 このまま去られてはたまらない。澤北は慌てて声をかけた。
「待ってください! 俺は怪しいものじゃありません。ただ、人里に行きたいだけで……」 「怪しかろうがなかろうが、関係ねえよ」
男は振り返らずに言った。その声には、拒絶というよりも、他人に構っている余裕などないという諦めが滲んでいた。
「俺たちの村も、もう限界なんだ。余所者に分ける飯なんてねえぞ」
限界。 その言葉が、澤北の推測を裏付ける。やはり、この世界は飢えているのだ。 しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。澤北は必死に頭を回転させた。自分に何ができる? この男に興味を持たせるには? 男が背負っている弓矢。そして手ぶらの状態。獲物が獲れていないのだ。
「……何か、獲物を探しているんですよね?」
澤北の問いかけに、男が足を止める。
「だったらなんだ。この辺りの獣はもうあらかた獲り尽くしちまった。今日も収穫はゼロだ」 「獣じゃなくても、食えるものはあります」
澤北は、先ほど自分が食べたオオバコの群生地を指差した。
「あそこにある草、食えますよ」 「あぁ? あの車前草か? あんなもん、牛や馬の餌だろ。人間が食ったら腹壊すぞ」
男は呆れたように言った。 チャンスだ、と澤北は思った。この世界の人間は、「知識」を持っていない。あるいは、飢餓のあまり忘れ去られているか、食わず嫌いをしているだけか。
「アク抜きすれば食えます。それに、毒消しの効果もある。俺はさっき食べましたけど、腹は壊してません」
澤北は道端に生えていた別の草――ヨモギに似た植物を引き抜いた。
「それにこれ。これの根っこ、デンプンが含まれてます。叩いて水にさらせば、団子にできるはずです」
男の目に、初めて興味の色が宿った。 澤北は賭けに出た。自分の持つ「無駄な知識」が、この異世界での通貨になり得るという賭けに。
「俺を村に連れて行ってください。そうすれば、森にある『食べられるもの』、全部教えます」
男はしばらく澤北を睨みつけていたが、やがて大きくため息をついた。 腹の虫が、男の腹からも鳴ったのが聞こえた。
「……タケルだ」 「え?」 「俺の名前だよ。ついてこい。嘘だったら森に置き去りにするからな」
タケルと名乗った男は、ぶっきらぼうに顎をしゃくった。 澤北は安堵で膝が崩れそうになるのをこらえ、一歩を踏み出した。 名前。そうだ、自分も名乗らなければ。 かつての社会では、名前など記号に過ぎなかった。履歴書の左上に書くためだけの文字列。 だが今は違う。ここで生きるための、最初の証。
「俺は……澤北です」
灰色の空の下、二人の若者の足音が森に響いた。 それが、絶望から始まる再生の物語の、最初の出会いだった。




