黒い土、白い煙
雪解け水が小川に流れ込み、森の木々が芽吹き始める頃。村は「生存」の喜びで満ちていた。 死者はゼロ。 例年なら数人は寒さと飢えで失われる冬を、誰一人欠けることなく乗り越えたのだ。 だが、澤北に安堵している暇はなかった。
「……硬いな」
澤北は村の畑にしゃがみ込み、土を握りしめた。 雪解け直後の土は冷たく、そして粘土のように固まっている。栄養分が少なく、酸性が強い痩せた土壌。これでは作物が育たないのも無理はない。
「澤北殿、そろそろ種まきの準備か?」
鍬を担いだ村長がやってきた。その顔色は以前よりずっと良い。
「いえ、まだ早いです。今の土に種を蒔いても、半分も芽が出ないでしょう。まずは土作りです」 「土作り?」 「土を『食べられる状態』にするんです。作物にとって」
澤北は立ち上がり、指示を出した。 この冬、澤北は村人たちにあるものを溜め込ませていた。 竈や囲炉裏から出る「草木の灰」。そして、排泄物と落ち葉を混ぜて発酵させた「堆肥」だ。
「さあ、天地返しの時間ですよ!」
ガンテツ率いる力自慢たちが畑に入った。 深く土を掘り返し、冷たい空気に晒す。そこへ、アルカリ性の灰を撒いて酸性の土を中和し、完熟した堆肥を混ぜ込んでいく。 「くっせえな!」 「文句言うな! これが美味い麦になるんだ!」
男たちが笑いながら作業をする。 かつては「汚いもの」として捨てていたものが、資源に変わる。循環型農業のスタートだ。
さらに澤北は、畑の隅に水路を引く計画も立てていた。 川からの冷たい水を直接畑に入れるのではなく、浅い水路を迂回させることで水温を上げ、作物の成長を促す「温水路」のアイデアだ。
「すげえな、澤北。お前、頭の中どうなってんだ?」
タケルが呆れたように言った。
「昔、本で読んだだけですよ」 「また本か。……お前のいた世界の本ってのは、魔法の巻物か何かなのか?」
タケルは半分冗談、半分本気で言っているようだった。 澤北は苦笑した。現代日本の図書館にある農業書や家庭菜園のガイドブックは、この世界では確かに「大賢者の書」に匹敵するのかもしれない。
数日後。 黒々と耕された畑からは、土の良い香りが立ち上っていた。 そこへ、大切に保管していた種麦を蒔く。 村人たちが一列になり、祈るように種を土に預けていく。 その光景を見ながら、澤北は確信していた。 今年は育つ。絶対に。
しかし、豊かさは人を呼ぶ。 良くも、悪くも。
村の断熱改修と土器作りのために焚き続けられている竈の煙。 それが、空高く白く棚引いていた。 その「豊かさの狼煙」を、森の奥から見つめる、飢えた目があることに、まだ誰も気づいていなかった。




