見えない敵
平穏に見えた冬の日々に、暗雲が垂れ込めたのはその数日後だった。 最初は、一人の老人の咳から始まった。 単なる風邪だと思われていたが、翌日には高熱を出して寝込み、さらにその家族、看病していた隣人へと、瞬く間に症状が広がっていった。
「……熱が高い。それに、この赤い発疹」
澤北は、寝込んでいるケンタの祖父の額に手を当て、顔をしかめた。 村長の家には、既に五人の患者が運び込まれ、隔離されていた。 インフルエンザか、あるいは麻疹のような伝染病か。医学の専門知識はない澤北だが、放置すれば村が全滅する可能性があることは分かった。
「呪いだ……!」
パニックになった村人の一人が叫んだ。
「山神様の怒りだ! 俺たちが余所者を入れて、山を荒らしたからだ!」 「馬鹿野郎!」
タケルがその男の胸ぐらを掴んだ。
「澤北がいなきゃ、俺たちはとっくに凍え死んでたんだぞ! 恩を忘れるな!」 「やめてください、タケルさん!」
澤北は二人を割って入った。 恐怖は伝染する。病気よりも早く。まずはそれを止めなければならない。
「これは呪いじゃありません。『病』です。目に見えない小さな生き物が、体の中で暴れているだけです。戦い方はあります」
澤北は冷静に、しかし力強く宣言した。
「まず、全員マスクをしてください。布で口と鼻を覆うだけでいい。そして手洗い。外から戻ったら、必ずお湯で手を洗うこと。患者の使った器や布は、必ず煮沸……グラグラ煮立ったお湯で消毒してください」
現代では当たり前の衛生管理。だが、この世界では画期的な「儀式」だった。 そして、薬だ。 抗生物質はない。だが、熱を下げ、免疫力を高める植物なら知っている。
「ヤナギの皮を集めてください! あれには熱を下げる成分(サリチル酸)が含まれています。それと、葛の根! あれは体を温めて汗を出させる。生姜があれば最高なんですが……ノビルで代用しましょう」
澤北の指示で、看病体制が組まれた。 ガンテツたちがヤナギの皮を剥ぎ、女たちが葛湯を作る。 澤北自身も不眠不休で患者の世話に当たった。水分補給を徹底させ、体を冷やさないように毛布を追加する。
夜明け前、最も症状の重かったケンタの祖父が、峠を越えた。 荒かった呼吸が穏やかになり、熱が引き始めたのだ。
「……助かった」
澤北はその場にへたり込んだ。 科学と知識が、迷信と死に勝った瞬間だった。




