女王の遺志を継ぐ者
市場は活気に満ちて、騒々しい。
焼けた肉の匂いと音が弾ける屋台の隣には、天幕の内に見たこともない野菜や果物が並んでいる。
呼び込みの声に、人々の談笑。どこからか聞こえる、言葉の聞き取れないわめき声。
都会の常である。ランベルトには当然の光景。
だが、これが田舎から出てきたものには刺激的なのだろう。ランベルトの片目の先では、きょろきょろとあたりを見回している子どももいる。
片目しかないのは、失われたからだ。
十五年前、魔王に率いられた魔物たちが魔界からあふれ出す魔物海嘯の最前線で戦い、彼らを押し返したランベルトの右目は、人類平和の礎となってこの世から永遠に消え失せた。
後悔はしていない。だが、当時はまだ若かったランベルトを見て悲しむ人間もいる。それで最近は片眼鏡で隠すことにしている。ガラス板を一枚通すだけで虚しかない眼窩がぼやけ、残った左目と伸ばした前髪の黒がうまく誤魔化してくれる。
ランベルトを含む魔物海嘯防衛の立役者は、救国の七英雄と呼ばれていた。
英雄になってから、面倒が増えた。
身だしなみを整えろと言われ、身体をいたわれと言われ、一人で出歩くなと言われる。
喧嘩と揉め事が常の下町で育ったランベルトにとって、息苦しさが逆に働き、今日のように付き人をまいて一人で歩くことも増えている。
ため息とともに腰の長剣をカシャンと鳴らした瞬間、目の前で怪しげな動きをする人間がいることに気づいた。
先からずっとランベルトの少し前を、見知らぬ子どもがふらふらと歩いていた。
小柄な身体にぶかぶかの外套を羽織り、腰の辺りにやや見える膨らみは小剣だろうか。刈り上げに近い短い金髪をぶんぶん振り回し、輝くような碧の瞳であちこち見回す姿は、あからさまなおのぼりさんだ。
時折、その手が外套の中で、ぎゅっとなにかを握る様子には気づいていたものの、財布でも握り直しているのだろうと思っていた。
総合的には珍しくない、田舎の少年。
ランベルトは彼をそう結論づけ、故に視界には入りつつも注意は配っていなかった。
が、そんな少年の背後にぴたりと歩み寄り、外套の内側に手を伸ばそうとする人物が現れたなら、さすがに看過できない。
犯罪の気配ーー散々暇を持て余してきたランベルトの興味が、ぞわりと蠢いた。
もとより争いも諍いも好物である。そうは口にできない立場になっただけで。
ランベルトは速やかに足音を消して、少年の背後でチャンスを狙う男に近づいた。
男が、少年の外套の内側でなにかを掴んだ瞬間、その腕を握った。
「痛てててっ!?」
「さて、こちらは君の知り合いか、少年?」
「えっ、えっ……あの……!」
少年は慌てていてまともに答えられそうもない。だが、その様子から知り合いではないだろうと判断した。もちろん、最初から違うとは思っていたが。
ランベルトは、腕を払ってかかってこようとした男に、足を引っかけて転ばせる。コソ泥相手だ、人混みの中でもあるし、剣を抜かずにすませたい。
「てめーーうわっ」
「おっと、失礼。脚が長く生まれたもので」
争いと興奮の気配を感じて、周囲には人垣が生まれかけている。中には、片方が救国の英雄だと気づいて、ランベルトの名を呼びかける者さえ出ていた。
ランベルトは指先だけで答えておいて、腰の剣に手をかけた。
「気付かれてしまった。これ以上やるなら、俺の側は負けられない戦いになりそうだが」
「その片目、英雄ランベルト!? なんで一人でこんな市場をうろうろしてる……!」
「俺だって買い物くらいするさ。会いたくなければ、この辺で妙な揉め事起こすんじゃない。ここらで暴れられちゃ、黙って見過ごす訳にはいかないんでね」
知人の声で、「よっ、大英雄!」など脇からはやし立てられる。うんざりしながらそちらを睨み付けている間に、コソ泥はさっさと逃げていった。
それを追おうとしているうちに、がしりと腕を掴まれた。
掴まれた以上の魔力の圧を感じて、ランベルトは思わず足を止めた。
「ーーあっ、あの!」
見れば、絡まれていた方の少年である。
さすがに無碍に振り払うこともできず、立ち止まる。
「お礼はいいよ。単に目についたっていうだけだから」
「いえ、あっ、お礼も……あのありがとうございました。それで……」
「じゃあ、そういうことで」
「ーー待ってください!」
手のひらに、強引に紙束を握らされる。紙幣かなにかかと思えば、手紙のようだった。
宛名はランベルト殿ーー自分宛である。
「こっ、こんなところで見つかるなんて幸運でした! あなたに用事があって来たんです」
「俺? なんで? 君、誰に俺のことを聞いて……」
裏返せば、差出人はディオンーー七英雄の一人。生還したにも関わらず、唯一この王都を出て、辺境で暮らしている男だ。大ぶりな文字に、ランベルトはふと笑みを浮かべた。かつてのディオンのおおらかな性格をそのまま表しているようで。
が、追憶を楽しんでいる場合でもない。ランベルトは封筒を開けた。
簡潔な依頼文だった。この手紙を持った子どもを手元で育ててほしい、と。
◆
一人暮らしが長くなれば、さすがに茶を淹れるのも上手くなる。
差し出した茶器を、だが少年はなかなか手に取らなかった。
そう立派な屋敷に住んでいる訳でもないが、緊張しているのだろうか。使用人もいない、王都の隅のこぢんまりとした屋敷は、英雄にはふさわしくないものかもしれないが、ランベルトにとってはしっくりくる自宅だった。
「そんなに固くならなくていいぞ。ディオンから俺のことをどう聞いてるのかは知らないが」
「……す、すごい人だと、聞きました」
「その紹介状の差出人とそう変わらないさ」
ランベルトは残った片目でウインクして見せた。
少年は、決意したように目の前の茶を一息に飲み干し、カシャンと音を立ててソーサーに戻す。
「ーーしっ、失礼しました。僕の名前はロア。父はディオン……血のつながりはない養子です」
「へぇ、あいつ、今子育てしてんのか。じゃあ君はディオン直々に剣の手ほどきを受けている訳だ。さっき外套の下で抜きかけたのは小剣だろう?」
外套の下に手を入れた少年ーーロアが、小剣を剣帯ごと外し、テーブルに乗せた。
ランベルトは、その剣の使い込まれた具合に感嘆した後、ふとどこかで見た意匠だと感じた。だが、明確に思い出す前に、柄を握った手が微かに震えていることに気づき、ロアの目に視線を戻した。
「それが……ディオンが、もう教えるのはむっ、無理……だと……」
「まあ、あいつは教え下手だからな」
「いえ……僕には、これ以上の剣の才能はなく……でも、魔術の才があるから、と」
がばっとロアが顔を上げる。
思わず距離を取りかけたランベルトの上着を、少年の手がぎゅっと握りしめた。
「ディオンは、あなたが一番だと言いました! 一番スパルタ教育が得意で、一番教えるのが上手だって!」
「そこは七英雄一番の魔術師って言うところじゃないのか」
「いえ、ディオンは、それはイゾルデ女史だって」
「あの野郎……」
眉を寄せたランベルトの脳裏には、ディオンが屈託なくガハハと笑う顔と、イゾルデの冷ややかな横顔が浮かんでいる。
燃え立つような赤い髪と、火の魔術をなにより得意とすることから、火焔の魔女と呼ばれる七英雄の一人だ。
残念ながら、ディオンの言葉は真実だ。イゾルデの方が、魔術師としては一段上だろう。だが、確かに彼女に人が育てられるとは思えない。他人への興味が薄く、言葉にすることに意味を感じづらい質。ほかの七英雄と言葉を交わしたことすら、魔王を倒す直前の一瞬しかなかったくらいだ。だが、裏を返せば他者との意思疎通を必要としないほどの突出した才を持つ、まごうことなき天才である。
ランベルトが彼女と並び称えられるのは、それら比類なき力と、他人とは相容れない感性を持つ六人の英雄を見事にまとめあげ、魔王に対峙したこと。そして、魔術のみでなく剣技も兼ね備え、魔剣士として名を馳せたことによる。
「稀代の魔女に教育は無理、か。ディオンの言うのは確かに間違いじゃねぇが」
「ーーでは、ランベルト様!」
テーブルに腕を突いたロアが身を乗り出す。そのあまりにも透明で必死な瞳を、ランベルトは顔を背を逸らすことで遠ざけた。
「だが、だからってなんだって俺が育てなきゃならない。ディオンに対しちゃ貸しはあっても借りはねぇぞ」
「……ディオンは、僕が、そのお返しだって。あの……」
怪訝に眉を寄せるランベルトの前で、ロアはごくりと唾を飲み込んだ。
「ーー来てるんです、辺境にはもう。次の魔物海嘯が」
ランベルトは、思わず天井を振り仰いだ。
しばしの後、ふとあの小剣はディオンがずっと懐にしのばせていたものだったことを思い出した。なんでも、生涯唯一愛した女性から賜ったものだとか。
それが誰なのかを、ランベルトは知っている。ランベルトもまた同じ女性に愛と忠誠を捧げていたからだ。
大事な小剣を手放し、なおかつ魔物海嘯の報を自ら伝えに来なかった。ディオンはきっと、辺境で少しでも食い止めようとしたのだ。
ランベルトはそのまま瞼を閉じ、戦友の冥福を無言で祈った。
◆
翌日から早速、ロアの訓練が始まった。
ディオンが先に手をかけていた分、体力づくりは十分な様子だ。剣士としては育っている。だが、ここから爆発的な成長はしないだろう。ランベルトが見てもディオンと同意見だった。
線が細すぎる。身体が、最前線で剣を振り続けるには不足している。ぱっと見た限り、まだ成長期の様子だから、数年かければいつかは更なる境地にたどり着くこともあるかもしれない。
だが、それを待つ時間はない。
それに、魔剣士としての自分の技能を渡すことができれば、すぐにでも伸びるはずだ。
昨日、市場で初めて触れたとき、底知れぬ魔力の深さを感じた。一瞬だったが、あれがロアの秘められた力なのだとすれば、確かにディオンの抜けた穴を埋めることさえできるかもしれない。
「魔術の発動を身体におぼえこませるんだ。切り結んでいる途中で余計なことに意識を向ける余裕はない。頭が考えてから発動してたんじゃ遅いぞ」
「……はいっ」
切り込んだランベルトの剣を、ロアは必死に受け止める。だが、三度に一度は、ランベルトが刃に纏わせる焔の魔術を受け損ね、そのたびに跳ね飛ばされて地面を転がっている。
ロアの纏うぶかぶかの外套が、土まみれになりながらも、持ち主を守っていた。
「それ、ディオンのおさがりか」
「……はい。最後の戦いに出る前に、この小剣と一緒に」
ランベルトは息をついて、休憩だ、とロアに告げた。
壁の後ろに背を預け、こういうときにしか吸わない煙草を咥える。
吐き出した煙が空に吸い込まれていくのを見上げながら、魔物海嘯はいつ王都に到着するものか、改めて考えた。
昨日のうち、既に王宮へ使いを出した。
今頃、イゾルデを筆頭に生き残った他の七英雄が呼び出され、空の玉座を脇に貴族議会連と対策を練っていることだろう。
当然ランベルトも呼ばれているが、更なる情報を集めてから参じると言ってある。体のいい時間稼ぎだ。
先の魔物海嘯では、七英雄によって阻まれるまでの間に、膨大な被害が出た。
じわじわと狭まっていく国土に耐えかね、貴族議会は女王からその地位を簒奪することにした。クーデターの中、城を追放された女王の行く先は断頭台でしかあり得ない。
突出した魔力を持っていた女王は、魔王との戦の中で、内戦となるのを憂えて抵抗すらしなかったと聞く。
もちろん、女王の命令で魔物海嘯防衛に当たっていた七英雄は、誰もそのクーデターに関わることができなかった。与することも、抗って女王を助けることも。海嘯を押し返し王都に戻ってみれば、英雄達にそれを命じた女王自身がいなくなってしまっていた訳だ。
不在の女王の代わりに褒美を与えると貴族議会が言い出したとき、すべてを見限って早々に王都を去ったのはディオンだった。
ランベルトは、ずっと決めかねていた。
誰より敬愛する女の後を追うか、安寧を享受するか。
そうして、その間にどちらも選べぬ事態となったのだから、本当に馬鹿らしい。
こうなってしまえば、ランベルトが前線に赴かないという選択肢はない。
彼女に仰せつかった最後の命は、民を守れ、との言葉だったのだから。
ふと視線を戻せば、休息を命じたはずなのに、ロアはまだ必死で剣を振っていた。
刃を魔力で満たすその一瞬を計りながら、何度も同じ動きを繰り返す。
「おい、ロア。疲労は修練の敵だぞ。休むときは休め」
煙草を踏みにじりながら、ランベルトは声をかけた。
だが、ロアは振り向きすらしない。
仕方なく近づいて肩を叩けば、驚いた表情で顔を上げる。集中しすぎて声が届かなかったのだと、ランベルトもようやくわかった。
「養父の敵とは言え、肩に力が入りすぎだぞ。君が力をつければ、そりゃ助かるが……俺たちだって前線に行くんだ。君なしでも戦えるさ」
「ですが、ディオンももういません。残った七英雄はあなたを含めても半分……七人いてすら、稼げた時間はたった十年です」
「死んだ三人の代わりを君が果たそうって?」
不遜にも聞こえるが、ランベルトの問いに、ロアは迷うことなく頷いた。
「僕が生きている理由はそれしかありません。できると思われたから託された……だから、やり遂げなければなりません」
ランベルトは一瞬答えに詰まった。
ディオンがそう言い聞かせて王都まで逃がしたのだろう。思い詰め過ぎていると思う。だが、それを奪えばただ、自分のために命を投げ出した事実しか残らないのではないか。
「……に、しても、身体を壊したらなにもできん。無茶しすぎるんじゃない」
「はい」
返事はいいが、上っ面を撫でた感触しかなかった。
ランベルトはため息をついて答える。
「じゃあ、今日の訓練は終わりだ。湯が沸いているから、身を清めたら食堂へ来い。飯を食うのも身体作りには重要だと、ディオンから聞いているだろう?」
「……はい」
どこか不満げではあったが、こう言っておけば夕食をすっぽかすことはないだろう。
部屋へ戻っていくロアの細い背中を見ながら、ふと、あの外套も洗ってやった方がいいな、と考えた。
ディオンのことだ、ろくに手入れもしていなかっただろう。当然、ロアにも教えていないに違いない。魔術のこもった一級品ではあるが、ああも汚れていては台無しだ。
ロアに与えた部屋は、客室として作られた空き部屋だ。
台所に寄ってから来たために、既に水音が響いていることに気付きつつも、同性の気安さで声をかけながら扉を開けた。
「ロア、外套を預かってもいいかーー」
言葉が途中で止まった。
ランベルトの視線の先には、裸のロアがいた。
なだらかな胸の膨らみも、下腹のするりと下りるラインも、少年ではあり得なかった。
「あっ……」
ランベルトの目を見るロアの頬が、みるみる赤く染まっていく。
一瞬の後、甲高い悲鳴と共に、扉を勢いよく閉める音が、屋敷中に響き渡った。
◆
夕食の席でも、ロアの頬はまだ赤らんだままだった。
無言でぎこぎこと肉を切りながらも顔の上げられないランベルトの前で、大きなため息が響く。
「……騙すつもりではなかったのですが」
確かに、ロアが自分から男だと言っていた訳ではない。
旅の間のリスクを下げるためという理由があったとして、だがどう見ても少年のような格好で目の前に現れ、自分から言い出さないのは、隠していたということではないか。
ようやく肉から目を上げたランベルトの恨めしげな表情で、ロアはますます頬を赤らめた。
「……ディオンが、その方が良いと」
「なんで」
「僕が何者か知れば、あなたは極限まで鍛えてはくれないだろうと言いました」
「馬鹿な、ガキはガキだ。クソ坊主だろうがオテンバ小娘だろうが、平等に扱うさ」
「……二十二歳です」
ぽつりと言われたそれが、ロアの年齢だということに気付いて、ランベルトは思わず食卓を叩いた。
「なんで!」
なにを問うでもない、腹立ち紛れと照れ隠しの言葉だが、ロアは素直に答える。
「ディオンの元でよく鍛えてきたからでしょう。あまり脂肪もつきませんでしたから、女性らしい膨らみに欠けるものだと」
「そういうことを訊いているんじゃない!」
ではなにを訊いているのかと尋ね返されれば、ランベルトの方が困ったことだろう。
だが、年の功は早々に話を誤魔化すことに成功した。
「ぜんぶわかったぞ、お前ーー女王陛下の血を引く娘か!」
女王逝去が十五年前の魔物海嘯の時期。
少年と考えていたロアの年はそれ以下だと見積もっていたから、ランベルトの脳裏にはちらりとも浮かばなかった。
だが、二十二歳だとすれば、女王が生前、誰にも知られず産み落とした娘がいたとしてもおかしくない。
そして、彼女を守るためにディオンが王都を離れたのだとすれば、なにもかも辻褄が合う。
「あんの野郎……俺にも内緒で!」
「……あなたは母を敬慕していたから、こんなことを言えば怒られるだろうと……父が」
「本っ当にあいつは! こんなことで俺が怒る訳ーーいや、怒るが! それにしたって黙って去るのはあんまりだろう!」
ひとしきり怒りを肉にぶつけてナイフで切りまくった後に、ランベルトは改めて顔を上げた。
視線の先のロアは、相変わらず困ったような顔をしていたが、頬の赤みは取れている。
「……いいだろう。血筋は上出来だ。どっちの才能も引いてるなら、そりゃうまく育てたくもなる」
ロアが思い詰めていたのは、ディオンの分だけではなかったということだ。
「だがな、女王陛下を殺したのは、結局は魔王じゃない、この国だ。お前が守ろうとしてる王都には、お前の母親の首を刎ねた奴らがのうのうと生きてる……俺も含めてな」
「あなたは違います、父はーー」
「俺も含めて、だ! その上で、お前は本気でこの国を守ろうって言うのか? ディオンが望んだからか? それとも女王陛下がそう言い残したか?」
誰かの願いを背負って生きるのなら、今度こそ、とランベルトは思った。
だが、そんな決意とは裏腹に、ロアの碧の瞳はひどく澄んでいた。
「国を守ることが王族の責務です。僕が玉座に座っているかどうかは関係ない。僕に繋がる血が、これまでずっと果たしてきたことだ。同じように、僕も果たします。この血の最後の一滴まで……母が、そうであったように」
一生分のランベルトの決意を、脈々と繋がる王国の歴史は簡単に跳び越えていった。
ランベルトは静かにナイフを置くと、黙って頷き返す。
明日以降、本格的に彼女を鍛えよう。それが、結果として彼女の命を守るに違いない。
◆
王都の城壁からは、ひしめく魔物たちの姿が見えている。
半年の間、じわじわと王都まで辿り着いた魔物海嘯は、いまや都をぐるりと取り囲んでいた。
「ロア、準備はいいか?」
「はい、ランベルト」
長めのショートカット程度に伸びた金髪が、古ぼけた外套の中できらりと輝いている。王都までの旅の間に落ちた肉も少しは戻り、女性らしい柔らかさも徐々に出てきたところだ。
ランベルトは頷いた。
「お前が最後の防衛線だ。絶対に死ぬな」
「約束しかねます」
こんなときまで真面目な答えだ。
だが、この半年の間にランベルトも彼女のこの調子には慣れていた。
「そうか、じゃあ俺は命を賭けて守る。俺を殺したくなければ、お前も死ぬな」
「……はい、必ず」
微かに頬を赤らめながら答えたロアが、ランベルトに先んじて城壁の下へと跳んだ。
彼女の落下を追い抜くように、ランベルトの背後から巨大な火球が奔る。着火した途端に爆風を撒き散らし、魔物を蹴散らす魔術は、イゾルデによるものだ。
顔色一つ変えぬまま、彼女は着地と同時に走って行くロアの背を見ている。
衰えを感じさせない唇が、ぽつりと声を漏らす。
「……結婚式には呼んで頂戴」
場にそぐわぬ平和な言葉に、ランベルトは目を剥いて振り向いた。
が、そのときには既に、イゾルデは赤い髪を翻して城壁から飛び立っていった。落下ではない。炎を背負う天使のように空に浮かび、次の爆破に適した位置を探っている。
「誰が結婚式だ、誰が」
空中に言い返しつつも、ランベルトは笑みを浮かべている。
イゾルデにはあまりに珍しい軽口は、きっと、二人に生きて帰れと言っているのだろう。そして当然、自分もそうするとの宣言だ。
「ーーよし、イゾルデに続くぞ!」
ランベルトは背後に控えた面々に声をかける。
応える声のどれも、ランベルトには聞き覚えのあるものだ。
かつての魔物海嘯で共に戦った者ばかりではない。半年かけて育て上げた戦士達は、いずれもこの国を守ろうという気概で満ちている。
魔物海嘯を押し返すにとどまらず、それが片付けば、ロアのーー王女殿下の剣として戦うつもりの者ばかりだ。
ランベルトは自らも剣を掲げ、高らかに声を上げる。
「未来の女王陛下に!」
応える声が、城壁を揺らすほどの大音声になるのを聞きながら、ランベルトもまた魔物の群れへと飛び込んでいった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。