都会派シティ
オレは自分の部屋に座って、50年代の短編都会派小説を読んでいた。それは単にゲームをするのも外へ出かけるのも気分になれなかったからというだけなのだけれど、不思議なのは、短編集を読んでいると特に予定なんかないのに将来に備えている気分になることだった。オレは一体何を待っているんだろう。長編小説の場合はこうはならない。話が面白い・面白くない、それといつもよりゆっくりとした時間感覚があるだけだ。だけど短編の場合ストーリーの感想はもちろん、特に今回選んだみたいなサッパリとしたタイプなら尚更、オレは将来に目を向け、しかもそれは個人的な延長線上のつまらない将来ではなく将来という言葉そのものが内包・参照している抽象イメージが膨らんでしまうのだった。そしてそれを体感にまで落とし込んだとき、オレは短編を読んで将来に備えているという感覚になるのだった。まさか短編で身に着けたつもりのユーモアをどこかで振りかざそうとしているのか? そうだとしたら悪質な無意識だ。将来と未来の違いは、漢文的に書き下すと理解できると習ったことがあるが、独自の見解としてこの備える感覚が芽生えるのであればそれは将来だと主張したい。未来はやって来る気配すら立てず、対策のしようがないものだ。
オレの部屋の壁の色は、青いのではなく蒼かった。俗っぽいインターネットアーティストが持てはやされる時代、そいつらがしょうもない連中に与えた衝撃がこういう形でオレの生活に響いてきている。オレも初めに何かしら色の希望を言えばよかった。あるいは土日を使って自力で上塗りするか。とにかく今回の短編はかなり当たりだった。3編と数ページ読み終えてから、オレは暇つぶしをスマホへと切り替える……。
それでオレの会社員生活は良くも悪くもない。仕事量や同僚、オフィスの風通しなど環境には恵まれていると思うが、それをどうにか活かして豊かになってやろうというほどオレはフレキシブルな人間ではなかった。むしろそういった幸福指向の気概が、反動としての不幸と常にセットであるという考えの持ち主であり、当然こんな古代も古代な哲学思想は過去・現在・未来どのフェイズにおける会社員にも必要とされない。終業の際、仲良くしてくれている一人の同僚がオレを飲みに誘ってくれた。
「いやこの店さあ、ど迫力のロリータ服の女の子が鉄板でもんじゃ焼いたり、業務用鍋から鱈のあら汁よそってくれたりするんだって。今日行こうよ。」
……会社を出る前の会話がそれで、まだ1時間も経っていない。それなのにSNSアプリを起動したスマホの画面には、例のロリータ居酒屋の広告が表示されていた。正方形の枠に収まった、ど迫力のロリータ服の女の子たちだった。
「なんだそれ。面白いだけじゃん。そういうの嫌いなんだよな。」