第7章-5 SIDE B-③:行かなかった場合
救急車の中でお腹を押さえ苦しむ和可菜は、救急隊員によるいくつかの質問に答える内に驚くべきことを口にした。その衝撃から抜け出せないまま病院へと搬送され、彼女は救急治療室へと入って行った。
拓雄は処置室の前で待つ間、和可菜の母親に連絡を取り事情を簡単に説明した後、病院名を告げた。今日はパートの仕事が入っている為、直ぐには無理だができるだけ早く駆け付けると言って電話を切った。
その後長椅子に腰かけ、部屋のドアが開くのをずっと待っていた。そこへ警察官が二人やって来た。同じ制服だったが、喫茶店に駆け付けた人とは違う警官だ。スマホに連絡が無かったのは、どうやら消防に確認し、どの病院へ運ばれたかを確認した為のようだと分かる。
「お連れの女性の具合はいかがですか」
年配の方の一人にそう声をかけられ、状況を説明する。彼らは驚き一瞬絶句していた。だが確認しなければならない責務があったからだろう。おずおずと口を開いた。
「大変な所申し訳ありませんが、何があったのか経緯等を教えて頂けますか」
改めて拓雄達の氏名や職業を伝え、今回の騒ぎに至った事態について説明した。和可菜の容態を気にしながら話したが、長々となったにも拘らずまだ処置は終わらないようだった。その為、あらかたの事情は語り終わった。
間にいくつかの質問を挟みつつ、最後まで聞き終わった彼らは深く頷いて言った。
「それは災難でしたね。県警の阿川警部補と城東署の久利巡査部長には、私達から今回の件を報告させて頂きます。恐らく改めて状況確認の為にお伺いするでしょう。その時はまた同じような質問をされるかもしれませんが、ご了承ください」
「分かりました。ところで中東さんはどうなりましたか」
二人は顔を見合わせ、今度は若い方が言った。
「管轄が別の署になりますので、そちらへ同行して貰い事情を確認しております。店側からは一応被害届を出すそうですが、綿貫さん達ともご相談したいと聞いています」
「ああ、そうか。和可菜も同罪になる可能性があるからですね」
「はい。器物損壊と業務妨害罪に問われるかもしれませんが、示談で済む可能性は高いでしょう。ただ状況やお怪我された後田さんの容態如何によって、相手が暴行または傷害罪になる可能性がありますから。そこは綿貫さんを含め、被害届を出されるかどうかになります」
暴行罪や傷害罪と違って、過失傷害罪なら親告罪だ。よって和可菜が大した怪我でなければ、当事者同士の話し合いで終わる場合も有り得る。だが拓雄は嫌な予感しかしなかった。
歩を突き飛ばした犯人が中東だったなら、今回別件とはいえ逮捕されれば家宅捜索をするなど突っ込んだ捜査が可能となり、これまで発見できなかった証拠が見つかるかもしれない。そう考えれば被害届を出しておいた方が良さそうに思う。
ただ懸念するのは、犯人が中東で無かった場合だ。店側とはお金を払うなりすればなんとかなるだろう。だが彼女と示談しないとなれば、同じく手を出したこちら側にも捜査の手が及ぶ可能性はある。そしてもし犯人が和可菜だったなら、追いつめられてしまうだろう。
「どうされましたか」
思考が別の方向へと飛んでいたからか、ぼんやりしているように見えたのだろう。警官の一人に声をかけられ、我に返った。
「ああ、すみません。被害届をだすかどうかは、処置が終わり彼女と話せるようになれば、二人で話し合って決めたいと思いますが、いいですか」
「もちろん構いません。医師の診断書が取れるでしょうから、そちらは急ぎません。ただお店側とは早めに連絡された方がいいでしょうね」
「分かりました。そうさせて頂きます」
「では私達はこれで」
そう言って警官達は処置室から離れて行った。
頭を下げ、彼らを見送っていたところ、ドアが開き姿を見せた看護師に声をかけられた。
「後田和可菜さんの関係者ですか」
「はい。婚約者です」
「処置が終わりましたので、中にお入りください。担当医師からの説明がありますので」
中へと促された拓雄は、おずおずと足を進めた。どうなったのか。無事なのか。それとも、と様々な思いが頭の中を駆け巡る。
先に進むと、白衣を着て椅子に腰かけた医師が見えた。その傍らにあるベッドに横たわった和可菜の姿があった。そこで思わず駆け寄った。
「大丈夫か」
彼女は目を開けていたが、うつろな表情をしていた。顔色も悪い。涙ぐんでいるようにも見え、唇を噛み締めていたので返事を待たず、視線を横に移した。
「和可菜は大丈夫ですか。処置は無事、済んだのでしょうか」
問われた医師は、取り乱している拓雄とは対照的に落ち着いていた。
「まずはそこにお座り下さい。これからご説明致します」
手で指し示された彼の前に置かれた丸椅子に腰かけ、大きく息を吸って向かい合った。
「あなたは後田和可菜さんの婚約者、綿貫拓雄さんで間違いありませんか」
机に置かれたメモに目を向けた彼に尋ねられた為、頷いて言った。
「はい、そうです」
「本来ならお身内の方へ先にお話しすべきなのでしょうが、後田さん本人の希望とご事情を考慮してお伝えします」
もったいぶった言い草にイラっとしながらも、黙って首を縦に振ると彼が説明し始めた。
「後田さんご自身は軽い打撲の症状が残っただけで済み、それ程問題はありません。ただお腹のお子さんは、残念ながら」
「流産した、ということですか」
医師は深く頷いた。と同時に和可菜が嗚咽し始めた。
先に結果を知らされ、既に泣いただろう彼女は、再び辛い現実を突きつけられ哀しみを押さえられなかったようだ。拓雄の目からもすっと涙が落ち、頬を伝わった。
救急車の中で和可菜が隊員に、妊娠していると説明していたのを耳にした時、拓雄は心臓が飛び出るほど驚いた。彼女からそんな話は聞いていなかったからだ。
それに彼女と肉体関係は確かにあったが、避妊にはお互い特に気を付けていた為、余計だった。
しかし中東に突き飛ばされテーブルでお腹を打ったからだろう。母体と共に危ないと救急隊達が会話していた為、そんな考えはいつの間にか吹っ飛んでいた。彼女は助かるのか。お腹の子は無事か。そればかりを心配していた。
幸い、最悪の事態は避けられた。けれど二人の愛の結晶が犠牲となったのだ。
「和可菜の体は打撲だけだと言いましたよね。流産した後遺症はないということですか」
「しばらく体を休めて頂き様子を見ないといけませんが、今のところは全く問題ありません。まだ妊娠五週目と初期だったからでしょう」
医師の説明によれば、今回の流産で今後妊娠し難くなることは無さそうだった。通常でも五、六週目の時期が最も流産のリスクが高く、十二週目までで全体の八割を占めるという。つまり一番不安定な時に外部からの衝撃を受けた為、助からなかったようだ。
裏を返せば今回の件が無くとも、ちょっとした弾みで流産していたかもしれないと分かった。
「ただ、突き飛ばされ打撲したことは事実ですから、診断書にはそう記載します。もし被害届を出されるようなら、その内容で十分だと思いますからご心配なく」
和可菜だけでなく、警察からも事前にその辺りの事情を聞いたのだろう。医師はそう付け加えた。念の為に入院は必要だが、恐らく一泊すれば退院できるとのことだった。
「有難う御座います。宜しくお願いします」
「分かりました。これから病室へと移って頂きますが、やや時間がかかります。そちらの準備が整う間、ここで少しお話をされますか。それとも一旦、外へ出られますか」
「お邪魔でなければ、話をさせて下さい」
「構いませんよ。但し看護師が呼びに来たら移ってくださいね」
医師はそう言い、席を立った。頭を下げると、彼は奥に引っ込んだ。近くにいた看護師も気を利かせてくれたのか、席を外してくれた。
そこで拓雄はベッドの傍に寄り、和可菜の手を握って声をかけた。
「大丈夫か。まだ痛むか」
彼女は黙って首を横に振り、体を起こした。
「そうか。それは良かった」
「黙っていてごめんなさい。でも隠すつもりはなかったの」
まだ目が赤い彼女の説明によれば、体調の変化に気付いて最初に婦人科へ予約をいれたのが十四日の日曜日だったという。だが歩の事件があった事で翌週の二十日に延期したそうだ。そこで結果を知った為、翌日に拓雄と会った際、伝えようと思っていたらしい。
しかしその週も警察に話を聞かれたりしてそんな話が出来る状況になく、デート自体をキャンセルした為言えなかったという。また昨日会った時も伝え損なったと頭を下げた。
拓雄はここ最近のやり取りを思い出す。先週はともかく、昨日は歩との関係などを聞かれたからだろう。妊娠を口に出来なかった心情は理解できた。それを今更責めても仕方がない。
それより彼女の体の事を含め、これから先が大事だ。その為、拓雄は首を振って言った。
「その事はもういい。驚いたし心配したけど、さっきの先生の話だとそう気にしなくていいみたいだし。その件は少し置いといて、警察の人にも言われたけど、被害届はどうする」
部屋の外でのやり取りや、店との示談などを含めた拓雄なりの考えを伝えた。すると彼女は少し考えてから口を開いた。
「被害届を出したら中東さんだけでなく、私も警察に色々調べられるかもしれないのは分かった。拓雄さんが心配しているのは、私が犯人かもしれないと疑っているからなの」
「い、いや、そうじゃない。ただでさえ俺達二人共が疑われ嫌な思いをしているのに、和可菜だけがさらに傷つく恐れがあると言いたかっただけだよ。届を出すなら、それなりの覚悟が必要だと思っただけさ」
慌てて取り繕ったが、疑心暗鬼になっていると気付かれたようだ。その為か、彼女ははっきり言い切った。
「そんな心配はしなくていい。やましい事なんて何もないから、それこそこの際、警察にちゃんと調べて貰えば無実だとはっきりするんじゃないかな。それに中東さんが犯人かどうかなんて、もうたいしたことじゃない。あの人は私のお腹の子を殺したのよ。けじめはしっかりつけて貰う。これで被害届を出さなかった方が、おかしいと疑われる。そう思うでしょ」
大変な剣幕に、拓雄は同意せざるを得なかった。
「わ、分かった。じゃあここを退院する際に診断書を出して貰うようお願いして、それを持って警察署に被害届を出そう。あとはお店との示談だけど、そっちは俺が連絡しておく。和可菜は退院するまで動けないだろう。それと明日は会社を休まないといけないな。俺も休みを取ればいいから、迎えに来るよ」
「それは駄目よ。月末の最終週で忙しいじゃない。そんな時に次席が休んだら課長さんが困るし、上の人も良く思わないでしょ。大怪我した訳じゃないし、一人でも退院手続きはできるから。お母さんだっているし」
「ああ、いや、うん、お義母さんにはさっき連絡して、もうしばらくすれば来ると思うけど」
拓雄は言葉に詰まった。確かに明日は五月二十九日で、月末最終日の三日前だ。しかも損保は末日だが生保の締め切りは明日なので、申込書の回収からエントリーなど最後の数字の締めをしなければならない。その手間は結構かかる。
他の担当者に代わって貰うことも可能だが、それぞれが多忙だ。拓雄がいなければ相当な負荷がかかる。婚約者とはいえまだ身内でない彼女の付き添いを理由に、そんなタイミングで有休取得を申し出れば、嫌な顔をされるのは必然だ。
もちろん流産したという状況を伝えれば、駄目だとは誰も言わないし言えないだろう。少なくとも課長はそんな人でない。
だが支店長や支店長席は違う。表だって口にしなくとも、心証は確実に悪くなるはずだ。取り引き先代理店の窓口として十年近く勤務している彼女は、この業界について比較的詳しい。損保会社や社員の裏事情などの噂も良く耳にしていた。
「無理しなくていいから。どうしても、って時は傍にいて欲しいけど、それは今回じゃない」
先程までとは打って変わり、優しい口調で諭すように言われた為、ゆっくりと頷いた。
「分かった。でも今日は出来るだけ長く居るよ。処置が無事に終わったとはいえ、体もそうだけど和可菜の心が心配だから」
拓雄の言葉に改めて流産した現実を思い出し、喪失感に襲われたのだろう。また目に涙が貯まり始めた。零れ落ち頬を伝う彼女の頭を胸に抱く。髪を、背中を、腕を擦り、すすり泣く和可菜の気持ちが落ち着くのをじっと待った。
やがて顔を上げ気が鎮まり始めた頃、看護師に声をかけられた。
「後田さん。病室の準備が出来ましたので、そちらに移動して頂けますか」
「どこまでですか。歩いて行くんですか」
代わりに尋ねた拓雄の口調が責めているように聞こえたらしい。看護師は慌てて言った。
「ああ、そうですね。ストレッチャーを用意しましょうか。そちらで運びましょう」
体調は悪くなさそうだが処置したばかりで、一晩とはいえ一応入院する患者なのだから当然だ。そう思い移動させる為の支度をしている途中、和可菜の母の圭子が到着した。
「ああ、お義母さん。間に合いましたね。これから病室を移るので良かったです」
拓雄がそう伝えると、彼女は表情を曇らせた。
「和可菜は大丈夫なの。入院するの」
「大丈夫よ。大事を取って一晩様子を見るだけだから」
和可菜自身による簡単な説明を聞いたが、彼女は安堵よりも流産した事実にショックを隠し切れていなかった。どうやら妊娠の件は知っていたらしい。
「本当に平気なの。これから子供を産めない体になんかなってないでしょうね」
「それは今の所、問題ないって。早期だったから、それ程負担がかからなかったみたい」
「私も担当医師からそう伺いました。ただ万が一に備え入院し、様子を見るそうですから」
和可菜に続いて拓雄もそう付け加えたが、まだ圭子は不安を拭えなかったようだ。
「谷内田さんの娘さんの件で編集者の人と揉めたって聞いたけど、何をしているの。大事な体なのにもっと労わらなきゃいけないでしょ。もしものことがあったら、拓雄さんとの結婚だってどうなることか」
そう言いつつこちらをちらっと見た為、拓雄は首を振った。
「一緒にいながらこんな事になり、私にも責任があります。申し訳ありません。それに例え子供が産めない体になっても、結婚を白紙に戻すなどあり得ませんからご安心ください」
これは口先だけでなく本心だった。和可菜とはまだ子供の件で突っ込んだ話をしたことがないが、拓雄自身はどうしても欲しいと思っていなかった。決していらないのではない。ただ子供を産み大変な目に遭うのは男性でなく、女性だという想いが強かったからだ。
まず彼女は三十二歳を超え、決して若くない。まだ高齢出産でなくても、三十過ぎればリスクが徐々に高まるとの現実もある。
また拓雄の会社の性質上、週休二日制で各種休暇はあるとはいえ、平日は朝早くから比較的夜遅い。育児放棄する気はないが、給与が高く経済的問題はない分、どうしても子育てにかける時間などは彼女に負担をかけてしまう。
その上全国各地への転勤を伴う為、配属場所によっては義母に頼る事もままならない。また成長するにつれ、家族同伴となれば学校などの転校で環境の変化が加わり、子供にも負荷をかける。さらには拓雄の家庭環境を考えるとやはり躊躇してしまう。
そうした色々な背景を踏まえれば、何の考えも無しに男の身勝手で子供が欲しいなど、口が裂けたって言えないというのが正直な心情だった。
もちろん全ての事情を理解した上で、和可菜が子供を持ちたいと思ってくれるなら尊重するし、出来る限りの協力は惜しまないつもりだ。
またもし子供はいらないと言えば、二人だけでの生活を楽しむことに尽力すればいい。こうした点は式の日取りなどを決め、来月籍を入れる頃には追々話をすればいいと思っていた。
だが思わぬ形で妊娠を知らされ、その上流産した今となっては、近い内に意見を交わすべきだろう。
「拓雄さんがそう言ってくれるのなら安心だわ。結婚式の日取りもなかなか決められないでいるみたいだったし、色々気がかりだったものだから」
ようやく圭子は安堵したようだ。妊娠がどうというより、結婚の意思は揺るがないと聞いたからだろうか。やはり心のどこかで、早く決まらないかともどかしかったのかもしれない。
そこでハッとした。もしかして彼女は和可菜が過去に歩と交際していた事実を知っていたのだろうか。だから本当に拓雄と結婚出来るかどうか危惧し、早く式の日取りが決まり籍を入れて欲しいと考えていたのだろうか。経済的に困窮した家庭環境の影響かと思っていたが、それだけでは無かったのかもしれない。
だからといって、今更結婚の意思は変わらない。既に彼女の告白を受け入れたのだ。けれど、歩を突き落とした犯人となれば話は違ってくる。
いや、どうしてそんなことを考えるのだ。彼女は違うと断言しており、被害届を出すことで警察に詳しく調べられても構わないと言ったではないか。まだどこかで彼女を信じきれない何かがあるからなのか。
そこで思い当たる。歩との過去の交際を隠し、また今回妊娠についても拓雄に告げていなかった。最近判明し色々あったから言い損ねた、というのはこれまでの状況を考慮すれば、それ程不自然ではない。
ただこれほど短期間に、決して無視できない大きなことを隠されていたのだ。よってどうしてもまだ何かあるかもしれない、との疑念は持たざるを得ない。だから彼女を無条件に受け入れられないのかと、腑に落ちた。
しかし今は、拓雄の心境を吐露できる状況ではない。流れたとはいえ、彼女が妊娠していたのは病院も認める事実だ。婚約者としてそうさせたのだから、彼女に対しての責任は持たなければならない。
つまり余程の事情が無ければ、結婚を白紙にできないことを意味する。そんな真似をすればそれこそ人でなし呼ばわりされ、婚約破棄に対し多額の慰謝料を請求されるだろう。金の問題ではなく、今後の信用と社会的地位を失いかねない事態になる。
拓雄は頭を振り、余計な考えを追い出し気分を切り替えて言った。
「とにかく病室に移動しましょう。細かい話や事情は、そこで話せばいいですから」
「そうよ。お母さんにはまた着替えを持って来て貰わないといけないし」
「そうね。分かった」
こうして話は一旦打ち切られ、あてがわれた病室へと移動したのだった。