第7章-3 SIDE B-②:行かなかった場合
約束した昼の十二時より少し早めに、拓雄達は中東が勤める会社近くの喫茶店へ到着し奥の席に着いた。
日曜日のオフィス街だからか、店内には余り客がいない。これなら大きな声など出さない限り、人の目や耳を気にする必要は無さそうだと少し安心する。
隣に座っていた和可菜が、やや緊張しているように思えたので声をかけた。
「どうした。大丈夫か」
「うん。でもちょっと不安かな」
「どうして」
「だって歩の元カノなのよ。初めて会うし、私をどう思っているか心配じゃない。攻撃してくるかもしれないと思ったら怖くて」
「俺がいるから、下手な真似はさせないよ。堂々としていればいい」
そう言っていると、店に一人の女性が入って来た。ショートカットのボーイッシュな見た目から、中東だとすぐに分かった。それにお互い初めて会う為、予め決めていた目印となるグレーの日傘を手にしていたから間違いない。
また彼女も、指定した漫画雑誌を持っている拓雄を見て気付いたらしい。まっすぐこちらに向かって歩いてきた。
そうした遠目では男性的な姿に気が緩んでいたのだろう。ここしばらく感じたことのない悪寒が走った。
香水ではない何らかの匂いが鼻を突く。編集者らしい聡明な顔に浮かぶ、気が強そうな切れ長の目で警戒心を露わにしている様子から、明らかに同じ女性の和可菜に対する対抗心が見て取れた。そんな感情が、体臭の分泌を促しているのかもしれない。
案内しようと近づいてきた店員を無言で押しのけ、彼女は言った。
「あなたが電話をくれた綿貫さんで、そっちが和可菜さんね」
その為吐き気を抑えつつ席を立って迎えた拓雄は、意図的に営業で培った柔和な笑顔を作り答えた。
「はい、そうです。お忙しいのにお時間を頂き有難う御座います。そちらにお座り下さい」
つられるように腰を上げた和可菜は、横で軽く頭を下げていた。中東は言葉を発した拓雄ではなく、睨みつけるような視線を彼女に向けながら正面の席に座った。
同じく二人も腰を下ろし、飲み物をどうするか尋ねて注文をした。
「休日出勤中だから余り時間を取られたくないの。お昼も食べていないし、さっさと終わらせて」
そう言い放った彼女はまだ和可菜を見つめていた。そこで尋ねた。
「電話でおっしゃっていましたが、歩さんは激怒していたようですね。和可菜は裏切り者だと言っていたようですが、それは同性愛者だったのに男と結婚するからという意味ですか。それは中東さんも同じ考えですか。先程から敵意むき出しでいますけど」
ようやくこちらを向いた彼女が答えた。
「そうね。こんな子が歩の元カノなんて気分が悪い。私はどちらかといえば、彼女を失望させたことに腹が立つ」
「二人は今回初対面だと聞いていますが、歩さんから和可菜についてどう聞いていますか」
「古くから知っている幼馴染の女より、金持ちの男を選んだ強かな女、かな」
「そ、それは違う」
和可菜が話に割って入り否定したが、彼女は鼻で笑った。
「今更取り繕っても無駄。あなたの家庭が貧乏だって話は聞いているし、幼馴染で裕福な家庭に育った歩と仲良くなったのは金目当てで、付き合ったのも発達障害の彼女に同情しただけじゃないの。だけど私は違う。彼女の性格などを全て理解した上で付き合ったし、それなりの収入もあるから波がある歩よりずっと安定した仕事に就いている。あなたとは違う」
「待って下さい。和可菜が歩さんと付き合っていたのは、十年以上前ですよ。それとも私と付き合う為に、和可菜が歩さんと別れたとでもいうのですか」
拓雄の疑問に、和可菜が続けて言った。
「そうじゃない。それにお金で相手を選んだなんて失礼過ぎる。確かにうちは貧しかったし今もそう裕福じゃない。でも私だってあなたほどではないけど、働いて稼いでいるんだから」
それでも不機嫌な表情を変えず、横を向いて何も言い返してこない為、再度問い質した。
「和可菜はこう言っていますが、違うんですか。私と交際する為に歩さんと別れた。そう彼女が言っていたのですか」
「はっきりは聞いてないけど、そう私は思った。だってそうでしょ。違うんだったら、どうして元カノが男と結婚することに怒らなければいけないの」
「そこです。和可菜から話を聞いて、それが不思議でした。私は異性愛者なので同性愛者のことはよく分かりません。でも実際はかなり昔に別れ、今は単なる友人関係に戻っているだけ。それでそんなに怒りますかね。和可菜がバイだとしても、同じLGBTQとして尊重し合うものではないんですか」
少し考えるような仕草をした彼女は、顔を正面の拓雄に向け溜息をつくように言った。
「そんな単純じゃない。異性愛者だってそうでしょう。マイノリティに理解がある人もいれば、差別して誹謗中傷する奴もいるじゃない。LGBTQの中にも色んな考え方があるから」
そういえば同じマイノリティの人が差別に苦しむマイノリティの実話に対し、全く理解を示さず嘲笑していた件を思い出す。同じ男でも考えが違うように、当然と言えばそうなのだろう。
「だったら歩さんは、他のマイノリティに対し偏見や敵対心を持っていたのですか」
「そんな子じゃない。それは違う」
和可菜が反論した。横にいる怒った表情を浮かべた彼女をみて、前を向き再度尋ねた。
「こう言っていますが、中東さんはどう思いますか」
「特に差別や偏見を持っていたとは思わないけど」
躊躇しながら彼女はそう答えた為、さらに聞いた。
「だったらどうして私達の結婚に反対していたのでしょう。何か聞いていませんか」
再び言い難そうに、だが小声でボソリと口にした。
「まだあんたのことが好きだったのかもしれない」
「和可菜にまだ未練があったから、反対していたということですか」
認めたくなかったのか、彼女は頷かなかった。やはり歩がわざわざ面倒な手を使い拓雄にDMを送ったのは、全て嫉妬だったと思われる。脅迫まがいの文言で呼び出し、和可菜を守ろうとするかを試したのかもしれない。
また来た場合は直接文句の一つでも口にし、バイだと知っても結婚できるかを確認しようとしたのではないか。
その本心がどこにあったかは、彼女が意識を取り戻さない限り分からないが、そうした複雑な心境から起こした行為だったとすれば、謎は解ける。
そこで今度は肝心の件について尋ねた。
「歩さんが私達をどう思っていたか、今は横に置きましょう。問題は誰が彼女をあんな目に遭わせたか、です。私は全く面識がありませんし、結婚を反対されたからといって揉める必要もありません。しかしあなたは違います。和可菜を好きで居続けた歩さんと付き合い、そして別れた。さらに印税の件でトラブルになったそうじゃないですか。どっちが先だったのかは知りませんが、事件があったあの夜、本当に歩さんと会っていないのですか」
中東は毅然とした態度で答えた。
「会ってない。あの夜、東京駅周辺をぶらぶらしていただけだから警察に疑われたし、印税の件で揉めていたのは確かよ。だからって彼女を突き落としてなんかいない」
「突き落とされたのでは、という目撃証言があったようですが、単に口論している内に足を滑らせた事故だった、という可能性もあり得ますよね。もしそうだとしたら、今名乗り出れば大事にはなりません。歩さんが目を覚ませば明らかになります。もし事故だったのに言い逃れすれば、本当に突き落とされたと証言されたら逮捕されてしまいますよ」
そう言って自白を促したが、彼女は決して認めなかった。
「絶対私じゃない。あんたはどうなの。あの夜のアリバイ、なかったんでしょ。歩に結婚を反対されて揉めたんじゃないの。それで突き落としたんでしょ。この人にバイだとばらされるのが怖くて、口止めしようとしたんじゃないの」
「違う。私じゃない」
中東に責められた和可菜は、激しく首を振って否定した。
「信じられない。もしそうだったら、婚約者の前で言える訳がないでしょ。上場企業に勤めていて高収入の相手と結婚できなくなれば、歩を捨てた意味がなくなっちゃうからね」
小馬鹿にした態度にカッとなったのだろう。席を立ち上がり言い返した。
「歩に振られたからかどうだかは知らないけれど、仕返しとばかりに印税を誤魔化すなんて卑怯な真似をしたあなたなんかに言われたくない」
中東も負けまいと腰を浮かせ、机を強く叩いて下から睨みつけながら罵った。
「バイのくせに、いつまでも歩の周りをウロチョロしていたせいだ。どうせ金目当てだろう。男から引き出すだけじゃ物足りなかったのか。歩が甘い顔をしていたからいい気になって。そんな奴に、彼女が必死になって書いた作品の印税を持っていかれるのが嫌だったんだよ」
「私は歩にお金なんてせびったことなんてないし、貰ってなんかいない。印税を誤魔化したのは、私のせいだって言うの。盗人猛々しいとはこのことね。あんたこそお金に困っていたんじゃないの。相手にされなくなった腹いせを兼ねて、整形代でも稼ごうとしただけでしょ」
「なんだと、この野郎」
和可菜の口撃が的を射ていたのか、中東が掴みかかろうと腕を伸ばした。だがその手を払いのけられた為か、一層頭に血が上ったらしい。テーブルの上に置かれていたコップを鷲掴みし、入っていた水をぶちまけた。
「何するの」
辛うじて顔からは逸れたが、胸元がびしょ濡れになった和可菜が叫んだ。突然の暴挙を目にした拓雄は、コップを握った中東の手を握り止めに入った。
「おい。やり過ぎだろう。暴行罪だ。警察を呼ぶぞ」
人の身体に向けられた不法な有形力ないし物理力の行使は暴行に当たるとされ、人に水をかけるまたは塩を振りかけたことで暴行罪が成立した判例は実際にある。
客は少なかったが、騒ぎに気付いた誰かが小さな悲鳴を上げたからか、警察という言葉に反応したのか中東は動きを止めた。だがその隙を突き、今度は和可菜が水を彼女にかけた。
今度は頭からもろにかぶり、顔がぐっしょりとなった。
「おい、止めろ」
拓雄はもう一方の手で和可菜の腕を掴んだ。しかし逆上した中東は、空いた左腕を振り上げた。その手が和可菜の顔面を捉える。ピシャリと大きな音が店内に鳴り響く。さらに悲鳴が上がった。
「止めて下さい、お客様」
男性店員が現れ、背後から中東の腕を押さえた。両腕の自由が利かなくなった彼女に対し、和可菜が拓雄の掴んでいない手で反撃した。再びパチンと頬が鳴る。
「やったわね」
中東は叩かれた顔を真っ赤にし、店員と拓雄の手を振りほどき和可菜の胸倉に掴みかかった。その拍子でテーブルが傾き、置かれていたコップが全て床に落ち一部が割れた。
「そっちこそ」
どこにそんな力があったのかと思うほどの勢いで拓雄の手から逃れた和可菜は、同じく両手で相手の首周りを引っ張り回した。
「おい、喧嘩は止めろ」
止む無く間に割り込もうとしたが、彼女達の力ではじき出された拓雄は床に転がった。店員は恐れをなしたのか、後ずさりして少し距離を取っている。
中東はともかく、和可菜がこんなに激しく感情を表に出しぶつけられるタイプだとは思っていなかった。まだまだ知らない彼女の姿があったと驚きを隠せず、言葉が出ない状態で二人の争いを呆然と見上げていた。
こうなると分かっていれば、中東との面会になど同行させなかった。そもそも犯人探しなど止めれば良かった。和可菜の秘密を知った今、後は警察に任せるべきだったのだ。
そうした後悔の念を抱き、二人に時間を与えたのが過ちだった。取っ組み合いは益々エスカレートし、力がやや優る中東に投げ飛ばされた和可菜は、隣のテーブルでわき腹辺りを打ち床に倒れたのだ。
「大丈夫か」
我に返った拓雄は、さらなる攻撃から彼女を守ろうと覆いかぶさるように駆け寄った。その間に店員も動き、中東の前に立ちはだかり停止を促した。おかげで騒動は一旦治まったが、問題はここからだった。和可菜がお腹を押さえ、呻き出したのである。
「ううっ、」
「どうした。痛むのか」
それ程酷く当たったようには見えなかったけれど、打ち所が悪かったのかもしれない。
そう思い彼女のお腹を擦ったが、一向に痛みは治まらなかった。さらには額に脂汗を搔いていると気付く。これはまずいかも知れない。
同じくそう考えた店員が背後から声をかけて来た。
「大丈夫ですか。救急車を呼びましょうか」
「そんなに強く打ってない。お、大げさに痛がっているだけでしょ。は、早く立ちなさいよ」
そう言う中東の声は震えていた。正気を取り戻し、大変なことをしたと恐れているようだ。
「大丈夫か。病院へ行くか」
拓雄がそう尋ねたが、和可菜は躊躇しているのか否定も肯定もしなかった。それほど痛みが酷いのだろう。その為判断した。
「救急車を呼んでください」
後ろを振り返り店員にそう告げると、彼は大きく頷いてカウンターへと走って行った。そこにスマホを置いていたらしく、操作をして耳元に当てていた。
「ちょ、ちょっと嘘でしょ。勘弁して。私を犯人にしたくて、誇張しているだけじゃないの」
そう口にしながら覗き込んできた中東に、拓雄は怒鳴り返した。
「ふざけんな。本当に苦しんでいるだろうが。これは明らかに暴行傷害だぞ。先に手を出したのもあんただ。病院で処置し終わったら、警察にも連絡する。もしものことがあったら、絶対許さないからな」
怯んで一歩後退した彼女に、店員が止めを刺した。
「今、警察にも連絡しました。コップなどが割れましたし、店も迷惑を被りましたからね。器物損壊と業務妨害で被害届を出します。逃げようとしても無駄ですよ」
他の店員が既に店の出入り口を塞ぎ立つ様子を見て、彼女はその場に崩れ落ちた。
「冗談じゃない。どうしてこんなことになったの」
「自業自得だろうが。頭に血が上って自制できなかったお前が悪い。歩さんの時も同じようにカッとなって、今みたいに突き飛ばしたんじゃないのか」
うずくまったままの和可菜の背中を擦りながら、拓雄は追い打ちをかけた。だが彼女は激しく首を振った。
「違う。あれは私じゃない」
「言い訳は聞きたくない。警察が来てからそっちに言え。信用してくれないと思うけどな」
カッと目を見開き鬼の形相で睨み返されたが、何も言わず黙ったままだった。これ以上騒ぎを大きくしてはまずいと思ったのだろう。
しばらくじっとしていたが、この後の展開を予想したらしい。スマホを取り出して電話を掛け始めた。その口調から、会社にかけていると分かった。恐らく休日出勤の途中で抜け出してきた為、これから出られなくなる旨を伝えたのだと思われる。
そうしていると、先に制服を着た警官が二人、駆け付けた。店員が彼らに事情を説明している間に、今度は救急車が到着した。
そちらの隊員には拓雄から簡単に事情を伝え、和可菜は担架に乗せられ運ばれた。拓雄も同乗する為、彼らの後をついて行く途中で、警官の一人に声をかけられた。
「申し訳ありませんが、後で事情を伺いたいので連絡先を教えて頂けますか」
中東に渡す為に持っていた名刺を取り出し、その裏に携帯電話の番号を急いで書き加え渡して言った。
「これから病院に行きますので、彼女の処置が終わったらお話しします」
警官が黙って頷いたので、救急車に乗り込みその場を去った。