第1章 脅迫と呼び出し
GWが明けた最初の金曜日に開かれた会議はようやく終わった。
「綿貫はこの後どうする。飲みに行くのか」
課に戻る途中、同じ課長代理だが年上の染岡にそう声をかけられた拓雄は首を振った。
「いえ、遠慮しておきます。長期の休みでぼんやりしていた頭と体が、この一週間でやっと回復したところですから。ここで体に負担をかけると、来週からまた辛くなります」
「そうだな」
歩きながら彼は周囲を見渡して頷いた。
「遠藤支店長は二、三人の課長を誘うつもりのようだけど、他の管理職や次席は逃げるように出て行ったから、綿貫と同じ考えなんだろう」
「それだけじゃないでしょう。新年度がスタートして最初の月の成績が出ましたからね。今日の話だと、どこの課もパッとしない成績だったじゃないですか」
「呑気に酒を飲んでいる場合じゃないってことか」
「それもありますが、支店長に発破をかけられるのを嫌ったのだと思います」
「だが年度当初のこのタイミングだからこそ、下に檄を飛ばしたがる課長もいるだろう」
拓雄は視線の先にあり、遠のいていく彼らの背中を見つめながら言った。
「少なくともうちはそんなタイプじゃありません。染岡さんのところは違うでしょうけど」
「まあな。だけどそっちの法人課は、他に比べて成績が良いから言えるんじゃないのか」
「確かに。ボロボロだったら、課長の代わりに次席の私達が下を引き締めないといけなくなりますしね」
次席というのは課長の次の立場だが、役職は必ずしも課長代理とは限らない。その部署にその下の副長や主任しか担当者がいなければ、大抵はその中で最も上の社員から選ばれる。よって次席は営業社員として数字を作り上げるだけでなく、下の担当者達を指導する役目も担う。また数字の取りまとめ役の責を負っていることもあり、時には上から課長以上に吊し上げをくらうことがあった。
実際先程の会議でも、特に成績の振るわない課の次席が数人ほど、支店長や支店長席付の課長に厳しい言葉を浴びせられた。幸い拓雄はその難から逃れられたが、今月や来月以降の成績次第ではいつ自分の番が来るか分からない。
とはいえ損害保険会社の営業数字は、その日頑張ればすぐに上がるものではない。直接顧客に保険を販売するのは、取引先である代理店だ。あくまで拓雄達社員は、担当する数十の代理店から掻き集めた申込書の数字が成績となる。いわゆる間接営業と呼ばれるものだ。
そうした代理店の保険獲得を促すのが主な仕事である。よって何カ月、時に年を跨いだ企画を立案し種を蒔き、それを育て刈り取らなければならない。つまり日頃の地道な営業活動が実を結ぶのであり、さあやれ、数字を取ってこいと尻を叩くだけでは成果など出ないのだ。
それでもやはり結果を求められるのが営業だから、どうしても上はそれを欲する。自分達も担当者だった頃もあるから無茶な要求だと分かるはずだが、管理職となり立場が異なれば言動も変わるらしい。拓雄達はその中間の立場にいるからこそ、上の苦悩も下の苦労も理解できた。だから日々溜まるストレスは相当なものだ。
けれど業界大手のツムギ損害保険にいる限り、高い給与は保障されている。入社十三年目で三十五歳になるが、昇進した今年の年収は一千二百万円を超えるだろう。
この会社では役職無しから最速四年で主任、その後同じく四年で副長、課長代理となる。拓雄は最短でそれぞれの役職に昇格し、同期一番の出世頭で課長代理となった。当然毎年の評価も高く、給与も相応の上り幅を経た結果が今なのだ。
社内外からの、多岐に渡って心身を削る気苦労を抱えるだけの見返りとしては妥当だと思う。いや、そんなことを言えば罰が当たるかもしれない。年収一千万以上といえば、日本の給与所得者上位五%に入るのだから。
補足すると染岡は同じ役職でも、年次は二つ上で年は三つ上だ。年収はほぼ同じだろうが、それでも課長代理以降は年俸制だから多少差が生じる。だが彼は拓雄に対し、そういう嫉妬をあからさまに見せる真似はしないからいい方だった。
というのも今日出席した他の課長代理は全て四十代だったからだ。その為、拓雄に気安く声をかけてくる人は染岡を除けば誰もいない。妬み嫉みの他にも理由はいくつかあるが、時折それで思い煩わされる場面は多々あった。
「課へ戻るまでに、ちょっとここで休憩していかないか」
途中にある自販機の前でそう言い、彼は立ち止まった。つられて足を止めて快諾する。
「いいですよ」
夕方の五時から始まった会議は予定の一時間を大きく超え、もう七時近い。年度当初のスタートダッシュに失敗し、ぱっとしない成績だった事情もあるが、長期の連休明けで緩んだ気に喝をいれようとの意図もあったのだろう。特に支店長の話はいつもより長かった。
そういう彼も、次は部支店長以上が集まる会議でその上の本部長や役員から締め上げられるだろう。成績不振が長く続くようなら、年度末に向けて風辺りはどんどん強くなる。この時期の会議など、それを避けようと今の内から手を打っておく、又は対策を講じたとの言い逃れの為に開いているといってよかった。
その上、長引けば仕事に戻るのは中途半端な時間だから、そのまま飲みに誘いやすいと考えたのかもしれない。先月末は大型連休前だった事もあり、そうした場が設けられなかった。また休みに家族サービス疲れなどで溜まったストレスを発散しようと考えた可能性もある。
だが普段から支店長に誘われる機会が多い課長を除く管理職は、折角の休み明けでさらなるストレスを重ねたくないのか、蜘蛛の子を散らすように去って行った。
それは次席達も同じだ。早く席に戻って仕事をし始め忙しい素振りでもしなければ、今度は課長から誘われてしまう。何故なら支店長と似た鬱憤を抱き、上に気を使わず下と気楽に飲みたい課長達もいるはずだ。単身赴任しているような管理職は特にそうだった。
それなら支店長が課長に代わっただけで、不満や疲労が蓄積するだけだ。その為それぞれの上司よりも一足早く部屋から出て行った。しかし拓雄の直属の上司である連城課長は、幸いそういう手合いではない。家族帯同で一昨年に今いる東東京支店法人課に着任した彼は、夜遅くまで仕事をしないよう部下達に口煩く言い、自らも率先して早帰りしていた。
子供が六歳と四歳とまだ幼いからか、飲みに行くより少しでも長く家族と一緒にいたいようだ。とても子煩悩で土日はよく近隣に出かけるらしく、そうした話を何度も聞かされている。それでも頭の回転が速い上に人当たりも良い為、取り引き先からの評判がいいからだろう。赴任直後はそれ程でもなかったが、翌年、つまり昨年度は好成績を上げられた。
もちろん彼だけの成果ではない。二年早く着任していた拓雄が担当する取引先で、地道に巻いてきた種が大きな実を結んだおかげでもある。そのせいもあってか、課長からは高い評価を得て無事課長代理への昇進も果たせたのだ。
対して染岡が所属する営業一課長の杉本は真逆だ。特にここ三年程成績不振が続いているからだろう。今日も会議で厳しく詰められていた管理職の筆頭だ。その為飲んでいる場合ではなく、少しでも仕事をしなければならないと焦っており、いつも帰りが遅かった。
そうなれば当然次席の彼もただでは済まない。下の担当社員から今月の目標数字を報告させ取りまとめ報告する役目を負う以上、同じく責めを受けるのだ。
そうしたストレスもあり、直ぐには部署へ戻る気がしなかったのだろう。気持ちはよく分かる。拓雄も特に急ぐ仕事は抱えていない。よって少しくらいなら付き合っていいと判断した。また他の部署とのコミュニケーションは意外と役に立つ。大きな法人を主に担当する部署より、多種多様な業種を受け持つ一般店の方が情報量は多いからだ。
今の部署に異動してくるまで拓雄も八年所属していた。よって質の違いはあるけれど、法人ばかり相手ではどうしても視野や知見が狭くなりがちなのは、経験から学んでいる。
その上丁度仕事と別件で、誰か第三者の意見を聞いてみたい悩みを抱えていた為、いい機会だと思ってもいたのだ。
染岡が先にブラックコーヒーを購入し、脇に置かれた休憩用の小さなテーブルに缶を置いた。拓雄はその間、ポケットからアルコールが入ったスプレーを取り出し、手を消毒した後に同じボタンを押して取り出し、もう一度殺菌してから彼の正面に立った。
元々潔癖症の気はあったが、コロナ禍以降は手放せず未だ欠かせない習慣だ。人によっては眉を顰められるが、彼は気にせず缶を開け一口飲み、予想通り愚痴を口にし始めた。
「全く嫌になるよ。うちの課の成績不振は、俺達だけの責任じゃないって言うのに」
「会議でも聞きましたけど、まだあの代理店からの契約の流出は続いているようですね」
「ああ。それが原因だと支店長達も知っているくせに、いつまでネチネチ言うのかな」
「支店長も何度か直接訪問して、頭を下げたと聞いていますけど」
「そうさ。東京の営業統括本部長だって顔を出しているのに、それでも先方の怒りが解けないんだ。俺達担当者や課長が日参したからって、どうにもならないよ」
「でも騒動から三年は経ちますよね。当社契約なんてほとんど残っていないはずでしょう」
「それがそうでもない。まだあと年換算保険料で三千万円ほどある。それを今年度減らされたら、他の代理店で相当増やさないと穴が埋まらない」
「それは厳しいですね。元々二億円以上あったんでしたっけ」
「そうだよ。それを初年度が八千万、一昨年は七千万で去年が四千万減らされたんだ」
「今なら初年度で全額減らされた方がマシだと言えますけど、そう口にはできませんしね」
というのも営業実績は前年と比較して評価される。よってじわじわ減収させられた方が、現場としてのダメージは長く続くのだ。低い査定をされるなら、一年で済んだ方が良いと思うのも当然だろう。ただそれはあくまで結果論だ。途中で食い止めれば問題はないのだから。
「それはそうだよ。少しでも契約の流出を減らさなければ、と前の本部長や支店長が動いてくれた後だったからな。しかし後任の俺達としては、とんだとばっちりだ」
彼がそういうのも無理はない。話題に上がった取引先の(株)リュミエールは、損害保険の総取り扱い保険料だけで約五億円以上ある大型代理店と聞いている。
拓雄達のツムギ損害保険の他に、大手のライバルである輝海上火災保険とも取引があり、三年前まではメインの彼らから徐々に契約を奪いつつあった。よって増収が大きく見込める先として、かなり力を入れていたのである。それなのに染岡の前任担当者がトラブルを起こし、増収どころか大減収してしまったのだ。
損害保険は短期や長期もあるが、多くのウェイトを占めるのは一年契約だ。よって保険の契約内容を毎年見直し、更新するかどうかが決まる。そこで競合する会社としては、新しい契約の獲得も必要だが、既存の契約に対しより良い商品を提案するなどして、他社から切り替えて貰うことが営業成績を上げる為の重要な仕事なのだ。
そうして徐々に成果を出し契約実績を積み上げてきたのに、今度は奪い取られる立場となってしまった。しかも担当者や上司が変わった今でさえ続いているのは、かなり厳しい。
「前任の村山さんがリュミエールの社長を怒らせたのが発端でしたよね」
「ああ。それで年度末に地方の小さな支社へ飛ばされたところまではいいさ。どうしてその後に来た俺や課長、支店長までその責任を負わないといけないのかって話だよ」
「他部署の私が言うのも何ですが、怒りが余りに長く続き過ぎじゃないですか」
「なんだ、知らないのか。谷内田徹社長は、うちとの取引を切りたがっているんだから当然さ。ただ契約は顧客の遺志を尊重しなければいけないだろう。それで一気に変えられなかっただけで、時間の問題なんだよ」
「そうでしたか。私はこの支店に赴任して五年目になりますから、村山さんが問題を起こした時もいましたけど、どんな言動をして怒りを買ったのか、詳しくは聞いていないんです。当時、あまり触れるなって雰囲気でしたから、聞きそびれたままなので。課長クラスだとそうでもないかもしれませんが、多分、他の課の次席以下は同じだと思いますよ」
「そうか。言われればそうかもしれないな。時々会議で、何故流出を止められないのかって顔をする奴がいるのはそういうことか。確かにセンシティブな話だから他言するなと、赴任当時に念を押されていたよ。だけどもうかなり経ったし、これだけ減らされたんだ。今更噂が広まったからって、どうってことないだろう」
「もう完全に関係修復は無理なんですか」
鼻息荒く憤っていた彼は、少し考えてから大きく溜息を吐いた。
「最初は俺も、時間が経って人も変わればなんとかなると思っていたんだけどな。どうもこちらが想像していたより、ずっと根が深かったよ」
「差し支えなければ、教えて貰っていいですか。もちろん他言はしませんから」
これまでは他の課の騒動など、余り興味を持たないようにしていた。だがもったいぶった口振りに思わずそう言うと、彼は息を潜めて話し出した。
「社長に娘さんがいるのは知っているか」
「いえ。家族構成は聞いたことがないです。十名弱の従業員がいるのは知っていますけど」
「社長の奥さんも事務員として働いていたが去年亡くなって、今は娘と二人暮らしだと聞いている。社長は今年で七十二だ」
「もういいお年ですね。だったら娘さんは四十代位ですか」
拓雄の質問に、染岡は首を振った。
「それがな。社長が四十過ぎてからの子だから、まだ三十手前だと思う。長い間不妊治療してやっと産まれたらしい、それで余計に猫可愛がりしていたそうだ」
「父親からすれば、一人娘でそんな事情があるならそうなるでしょうね」
「そこで良くある話だが、社長が高齢になると後継者をどうするかって問題になるだろう。といっても、今のうちは全く相談なんてされないから蚊帳の外だ。でも最近事務員の一人から聞いた所では、稼ぎ頭の営業担当者が社長を継ぐかもって言われているらしい」
妥当な線だろう。ただ気になる点を尋ねた。
「その人はいくつぐらいの人ですか」
「五十代前半だったかな。でも色々大変らしいよ。数カ月前に一番営業実績の振るわない担当者が首になったと思ったら、他所から優秀な営業マンを雇う話も出ているみたいだ」
「入れ替わりが激しい代理店さんというのは珍しいですね。でも次期社長が五十過ぎ位の若い方だったら、まだ良いですよ。そこは今の社長と奥さんで始めた代理店さんですか」
「そう。四十年前に社長が証券会社から脱サラして起業したらしい。奥さんの実家が資産家で、その支援もあって会社を何とか軌道に乗せたようだ。廃業していく代理店の契約を買ったり、一人の稼ぎだと食えない代理店を従業員として雇ったりして吸収合併を繰り返しながら大きくなったんだろう。今は生保や他の金融商品の販売にまで拡大し、株式会社にしているから、後継者は別に身内じゃなくてもいいのかもしれない」
「娘さんが継ぐという話は無かったんですか」
「そう、それだよ。前任者がその辺を突っつき過ぎたから大問題になったのさ」
「どういうことですか」
彼はさらに声を潜めて説明してくれた。
「実はだな。綿貫も知っていると思うが、当時は輝海上の担当部署の課長と社長の相性が悪かったから、ツムギ損保としては絶好の攻め時だったんだよ」
「でも輝海上の担当者とは上手くいっていた、と聞いていましたけど」
「ああ。そこで大きく差を付けるにはどうすればいいか、色々と探っていた訳さ」
「それが後継者問題ですか」
「そうだ。社長が七十を超える手前だったし、当時ちょっとした体調不良で仕事を休んだことがあるらしい。だったらそろそろ考えた方が、と提案したんだろうな」
「でもそれは当然の流れですよね。輝海上さんも同じことを考えていたはずでしょう。元々はあっちの専属代理店でしたよね。だったら付き合いも古いし」
「そうなんだ。でも課長と上手くいっていなかったから、素直に話が聞けなかったのかもしれない。そこでうちの出番とばかりにしゃしゃり出たのが、俺の前任の村山さんだよ」
「そう言えば最初、娘さんについて聞きましたよね。それと何か関係あるんですか」
「大ありだ。社長が娘を溺愛していると知り、だったら後継者は娘さんにと話したらしい」
「それも普通ですよね。ただまだ二十代なら少し若すぎる気はしますけど。娘さんは保険の仕事を手伝っていたんですか」
「いや、していない。それどころか高校を中退して、ずっと家に引き籠っているようだ。それは今も変わらないらしい。といっても俺は全く会ったことがないから良く知らないが」
「だったら後継者というのは無理でしょうね」
「そうなんだよ。でも父親としては心配だろう。そこで村山さんが、この問題を解決すれば大きな得点になると考えたんだ」
「なるほど。確かに成功すれば相当な信頼を勝ち取れたでしょうね。でもプライベートな問題にまで首を突っ込むのは、ちょっとやり過ぎでしょう。リスクが大き過ぎます」
「普通はそう思うだろうな。だけど村山さんは勝負に出た。何しろ五億以上の代理店で、まだ三億近い契約があったからな。しかもあの輝海上から奪取したとなったらどうだ。単年度で一億ほどひっくり返すだけで社長賞ものだろう」
「要するに功を焦って、逆に大失敗した訳ですね。ただ三年近く経っても解けないほど怒らせたって、一体何をしたんですか」
「まず本人と話をさせて欲しいと頼んだけど了解を得られなかった村山さんは、社長の家に時々張り込む等してでも会おうと試みたらしい。その内に引き籠りの原因を知ったんだ」
「それは凄い執念ですね。で、何だったんですか」
周りを見渡して誰も聞いていないかを確認した彼は、さらに小声で囁くように言った。
「同性愛者だったんだよ」
「え、」
余りに想定外の言葉に一瞬絶句したが、思わず疑問を投げかけた。
「そんなこと、どうやって分かったんですか」
「夜遅く出かけるのを見かけ後を付けたらしい。それでそういう人達が夜な夜な集まるバーに入ったのを見た上、店の中でどういうことをしているのかをスマホで盗撮したんだよ」
ちなみにそこは拓雄達の会社近くに今でもあるらしく、その為偶然発見できたようだ。
「それはやり過ぎですね。え、もしかして、その映像を社長に見せたってことですか」
「見せたんじゃない。最終的にばれたんだ」
社長の娘は、チラチラと何度もこちらに視線を向ける怪しげな男に気付いたらしい。そのため店員に声をかけておかしな奴がいると告げた所、村山は声をかけられ問い詰められたという。そして盗撮していると知られ、さらに社長の娘を追いかけてきたと白状したようだ。その為に娘は激怒し、家に帰って両親を責め立てたのである。
村山が尾行までしたのは、会社の後継者として娘が相応しいかを確認する為だったと口にしたから当然だ。保険の仕事なんてする気のない彼女は絶縁宣言し、家を出ていくとまで言ったという。焦った社長は、会社を継がせるなど考えてもいないと娘をどうにか宥め、なんとか家出は阻止できたものの、未だ部屋に引き籠って関係は悪化したままらしい。
「それで社長の逆鱗に触れた訳ですか」
「その通り。周りから話を聞く限り、親子関係が改善する事はまずないそうだ。それは村山さんの件が無くても、以前からそうだったんじゃないかと口にする人もいたよ。だけど社長は、あの件があったせいで大事に育ててきた娘が口も聞かなくなったと言い続けている。正直、いいがかりとも言えるが」
「それでこんなに長引いているんですね。きっかけは村山さんで悪いのも確かですけど、そこから後は上手くいかない親子関係を、うちのせいにしているだけじゃないですか」
「実際はそうでも、口が裂けたってそんな事は言えないだろう」
「言えませんね。でも社長はそう思い込んで、うちとの代理店契約すら切ろうとしているんでしょう。まあ、余計な事に首を突っ込んだのが大きな過ちだったのは確かですけど」
「そうなんだよ。だから俺達が今さら何を言ったって聞きやしない。社長は娘と上手くいかない苛立ちを、俺達にぶつけているだけだから。じゃあどうすればいいって問題さ。それこそまた娘に会って、何とかしてくれと泣きつく位しかないとまで上は言い出す始末だ」
「それはさすがにできないでしょう」
「だよな。綿貫だってそう思うだろう。もう失うものはないと割り切ったって、取引先といえどもそこまで首を突っ込む道理はない。他にも訳ありの問題があるらしいという噂を聞いているから余計だ」
「上は本気で娘さんと会ってでも、数字の減少を食い止め反転攻勢するつもりなんですか」
「はっきりと命令された訳じゃないが、腹の中ではそう思っているかもしれないな。だけど一方ではここまで来たらあと三千万だし、もう少しの辛抱と考えている節もある。その分、どこかから奪い返して来いと言うのが本音かもしれない」
「そっちでしょう。私が本部長や支店長の立場なら、そう考えます。だって今更またそんなセンシティブな問題に関わったら、下手をすると訴訟問題に発展しかねませんよ」
「今度また娘がキレたら、うちの会社を訴えると言いかねないからな。実際村山さんの騒動の時もそんな話が出たと聞いたし。最悪そうなったらおしまいだ。俺達担当者や課長が地方に飛ばされるくらいじゃ済まないよ。本部長辺りの首が危うくなってもおかしくない」
「といって三千万円の減収を埋める穴は、そうそう見つかりませんしね。一千万円増収させるだけでも一苦労なのに」
「そうだよ。綿貫の課のような大企業が相手だと、大口契約がポロっと出てくることもあるだろうが、こっちは雑多な取引先の集団だからな。コツコツ積み重ねないと何ともならない。それにただでさえ他にも厄介な問題を抱える代理店だっているから、頭が痛いよ」
「お疲れ様です」
内心はムッとしていたが、大人気ないと思いそう素直に頭を下げておいた。
彼が言う通り、確かに突然大きな工事が入るまたは多額の機械設備投資等により、スポットで三千万円程度の大口契約が成立する事はままあった。だが同じように、突然そのくらいの大口が消失する可能性だってある。だからそう簡単に増収できると言われたくなかった。
とはいえ大企業の担当経験のない彼に説明しても理解できると思えず、反論は止めた。分からない人に理解させるのは相当の労力が必要だ。そうした余計な骨など折りたくない。
本当は彼の愚痴を適当に聞き、適度な所でこちらの懸案事項についてどう思うか尋ねたかったが、拓雄は諦めた。余りに重い内容だった為、言い出し辛い雰囲気になったからだ。
それに聞いただけで疲れてしまい、課に戻り仕事の続きをしようと思い直し切り出した。
「では、そろそろ私は戻ります」
飲み干したコーヒーの缶を所定の場所に捨てながら言うと、彼も頷いた。
「そうだな。俺も残っている仕事を片付けないと」
二人はそこで別れ自分の席に向かった。拓雄はその道中で、三日前に送られてきたSNSのDMを頭に思い浮かべた。今日の夜十時、ある場所へ来いと書かれていた件だ。しかしその相手が誰なのか、全く心当たりがなかったのである。
拓雄の趣味はサッカー観戦と読書、特にミステリー小説を読むことだ。そうした好きなことの情報を収取したり、同じ嗜好を持つ人達と交流したりする為、専用のSNSアカウントを持っていた。これは学生時代に始めたもので、拓雄のこだわりとしてこの二つ以外の話題には一切反応しない、書き込まないというルールを定めている。そうしないと、つい時事問題、特に政治などの話題で意見が別れ、議論から非難が始まりやがては誹謗中傷合戦にまで発展してしまうことがあるからだ。
拓雄はそうした面倒事に巻き込まれたくなかった為、どれだけ仲が良くなった相手が時事問題などで全く同意見のことを書き込んでも、スルーし続けてきた。
第一仲が良いと言ったって顔や本名、どこに住んでいるかも知らない人であり、あくまでSNS上だけの浅い関係だ。そんな匿名の人と意見をぶつけ合うことに、時間と労力を費やしたくないという考えを持っていた。よってあくまで情報収集、交換の場だと割り切っており、そんな考えを尊重してくれるアカウントだけフォローするようにしていたのだ。
その為現実での友人や知人だけでなく血縁者にも、アカウントの存在は長年隠し続けてきた。それは当然、社会人になってから知り会った会社関係の上司や同僚、後輩達でさえそうだった。つまり、アカウント主が拓雄だと知っている人はいないはずなのだ。それなのにDMで指定されたのはこの東東京で、しかも会社からは歩いて十数分程の場所だったから驚いた。
拓雄の出身地は仙台だが、SNSを始めた大学生時代は東京にいた。その後ツムギ損保に内定を貰って就職し、最初の赴任地は京都だ。そこで四年過ごし次に静岡で四年、三十一になる年でこの東京の法人営業課に着任し、今年度で五年目となる。
要するにこれまで何度も住所が変わっており、また個人情報は一切書き込まなかったため、当初から交流のある相手でも保険会社に勤めている事や各地を転々としているなんて知らないはずなのだ。男と女かさえ明らかにしてこなかったほど、徹底していたのである。
だから拓雄が応じられる場所に呼び出すなんて、誰もできるはずがない。だからDMを開き書かれている文言を読んだ時、正直ゾッとした。
いや、正確に言うと拓雄がそのアカウント主だと知る人は一人だけいる。それは婚約者の後田和可菜だ。その為、最初は彼女がいたずらを仕掛けてきたと思った。だが読み進めるにつれ、そうではないと気付いたのだ。
というのもDMには、
“五月十二日金曜日の夜十時、墨田区にあるA橋からB川沿いに〇〇m北へ上がった××ビルの裏に来い。万が一、時間通り指定した場所に来なければ、お前の婚約者が抱える秘密を公に暴露する。そうなれば少なくとも彼女は、今後穏やかな生活を過ごす事は叶わなくなるだろう”
と記載されていたからだ。
そこまでならもしかすると、拓雄が彼女の身を守ろうと行動するかどうか、試す為の悪ふざけとも考えられた。しかしその後に、
“心配ならば、指定した場所に婚約者を同行させても構わない。但しその他の誰かを連れてくれば、あなたは後悔するだろう。保険会社に勤務し、高収入を得ている今の地位も危うくなるかもしれないと覚悟するように”
との条件と脅し文句が書かれていた為、和可菜ではないと考えた。
さらに彼女とは明日の土曜日、朝八時から待ち合わせの約束をしており、デートを兼ねて今後の結婚式や籍を入れる段取りなどを話し合う予定が入っている。その上彼女の勤務先である会社や自宅から、指示された場所までは少し距離があった。
もしその時間に呼び出せば、帰宅時間はかなり遅くなるだろう。結婚前ということもあるし次の日の予定から考えれば、和可菜がそんな仕掛けをするなんてまず考え難かった。
また念の為、昨日の夜に別のアプリを使ったメールで連絡を取り、彼女の金曜日の夜のスケジュールを何となく探ってはみた。だが飲み会の予定もないしあっても断るつもりでいるとか、いつも通り勤務を終えたら早めに自宅へ戻るだけと返事があったのだ。
彼女も同じSNSを使っており、同様に匿名使用しているアカウントは持っている。拓雄と違い、ごく親しい人達の間だけでDMを使ったやり取りをしているという。
だが身バレしないよう彼女とは互いにフォローをしていない。よってDMの送付はできず、書き込みを覗いたとしてもコメントをしたり、いいね、などはクリックしたりしないとの取り決めをしていた。
今回DMを送付してきたアカウントを拓雄がフォローしたのは、ごく最近だ。約半年前から書き込みに反応し、こちらが欲しい情報を流してくれるなど頻繁にアクセスしてくれていた。安易にフォロー返しはしないよういつも気を付けていたが、そんなコメント欄を見てこの人ならいいかと思い、かなり間を置いた上でこちらからフォローしたのである。
それから一ヶ月も経たない内に、いきなり奇妙なDMが送られてきたから困惑したのだ。今から思えば、相手は拓雄がこのアカウントを使っていると知り、何とかフォローされるよう関心を引き、DMでメッセージを送れるよう試みていたのだと分かる。
しかしそこまでして脅迫文を突きつけてくるほど、人から恨みを買った覚えなどなかった。とはいえ高学歴で大企業に勤め、順調に昇進を重ね高収入と高い地位を得ている拓雄に、嫉妬心を抱く者が皆無とは言い難い。
家を出れば七人の敵ありということわざ通り、何気ない言動または何もしなくたって、人知れず憎しみを持たれている可能性さえある。
それにしても一体誰なのか。ここ三日、ずっと頭を悩ましてきた。だが答えは出ない。分かったのは、相手は何らかの手を使い、拓雄がこのアカウント主だと突き止めたことだけだ。
ではどんな手を使ったのか。過去の書き込みを何度も遡って検証したが、そこから拓雄の身元を探り当てるのはまず不可能だと改めて確信した。また他人にスマホを覗き見られ知られた確率もほぼゼロだろう。というのも厳重なロックをかけているだけでなく、プライベートの時間以外で、そのSNSにアクセスしたことは一度もないからだ。
そうなると考えられるのは、知らない内に運営側の持つ情報が漏洩したか、ハッキングなどの不正アクセスで暴かれたかだが、後者のように高度な技術を持った人物に恨みを買ったとも思えない。前者でも、拓雄を脅迫したい相手に偶然情報が流れた可能性は低いだろう。
そこで最も有り得るのは、和可菜のスマホを覗き見た人物がDMの送り主である場合だろうとの推測に辿り着いた。
彼女なら第三者と一緒にいる際、SNSにアクセスして何気なく拓雄のアカウントを検索し、書き込みを閲覧していたとしてもおかしくはない。ただフォローしていない為、通常なら覗いているだけでは、それが拓雄のものだなんて分からないはずだ。
しかし悪意を持つ人物が気付いた可能性はある。また拓雄と結婚する予定の和可菜に嫉妬心を持った何者かが彼女の秘密を握っており、わざわざ突き止めてあのようなDMを送ったという筋書きなら、色んな点で腑に落ちる。
そこまでは推測できたが、さすがに誰かまでは突き止められていない。DMの送信主には、“何を言っているのか分からない。私は東京になんか住んでいないし、保険会社の社員でもなく婚約者などいない、どういうつもりなのか”と返信してみたが、“惚けても無駄。とにかく指示に従え。これから先は何を送ってきても答えない”とだけ送り返された。
その後同じ文言を含め、何が目的かを探ってみたけれど、言葉通り無視され続けていた。そうしている内にとうとう当日を迎え、約束の時間が刻々と近づいているのだ。
ここまでくれば、あとは指示に従い待ち合わせ場所に行くか、あるいは無視して行かないか、の二択しかない。しかしまだ決めかねており、藁をもすがる気持ちで染岡に相談してみようと思い付いたのだが、それも不発に終わった。
拓雄は悶々とした思いのまま自席に座り、パソコンを開いて少しばかり残っている仕事の続きに取り掛かった。けれどなかなか集中できず手につかない。
気が付くと、課長の連城は帰り支度をしていた。時間は八時になろうとしていた。
「余り遅くなるなよ。早めに切り上げられる時には、無理せず帰れ」
いつもよく聞く台詞を口にしながら彼が出ていくと、他の社員達も腰を上げた。かねてから無駄な残業は禁止と何度も繰り返し注意してきたからか、皆素直に従っていた。
拓雄も次席の立場として率先しなければならない。よって同じくパソコンの電源を落とし、片づけ始めた。約束の時間に指示された場所へ向かうにはまだ早い。それでもとにかく退社する必要があった。
行かないのなら、そのまま最寄り駅に向かい歩き地下鉄に乗って社宅へと帰るだけだ。行くとすれば、近くの喫茶店に入り時間を潰すしかない。さあ、どうするか。
会社ビルの出口で立つ守衛に頭を下げ、社員証兼用のIDカードを当ててセキュリティ通路を抜けた。だがその向こうにあるビルの自動ドアをくぐる瞬間まで決めかねていた。
アメリカの某大学教授の研究によると、人は言葉や食事、交通と言った時柄だけでも、一日平均二万回以上も選択しているという。これに歩こうかまたは座ろうといった、どう体を動かすかや会社や自宅で行う決断まで含めれば、三万五千回にも及ぶそうだ。
その中でもし違った選択をしていれば、その事柄によっては人生を大きく変えてしまう場合もあるだろう。例えばよく言われるのは、学業における進路だ。その先には就職がある。また誰と付き合うかという恋愛や、どんな人と結婚するかも大きな選択だ。さらに子供を持つか、どこに住むか、家を買うか借りるかなども、将来設計を左右するに違いない。
しかし拓雄はこの選択が、後に大変な事態になるなんて全く想像もしていなかった。
ここからは、決断のその先にどういった運命が待ち受けるかを綴った物語となる。




