第6章-1 五月二十一日(事件の九日後) SIDE B:行かなかった場合
予定がキャンセルになり丸一日自由となった拓雄は、出版社が林立する地区へ足を運んだ。
まずは判田が在籍するキラメキ出版がテナントで入っている、十五階建てビルの前に立った。日曜なので基本的に会社自体は休みだが、休日出勤している可能性に賭け訪れたのだ。
拓雄の勤務先のように、入館時にセキュリティゲートを通らなければいけないかもと危惧したが、杞憂に終わった。大手ではないからかそうした設備の整ったビルではなく、受付にも人はいない。
事前に調べていた通り、案内板でも五階だと確認しエレベーターに乗った。ドアが開くと目の前にすりガラスの扉があり、社名が書かれていた。やはり誰かが中にいるらしく、ぼんやりと灯りが点いている。
鍵がかかっているかもしれないと思いつつドアノブを回し押すと、すんなり開いた。目の前にはカウンターがあり、その奥がオフィスのようだ。しかも入り口から見える範囲内で、男性二人がパソコンに向かっていた。
どちらも拓雄の入室に気づかなかった為、思い切って声をかけた。
「すみません。お仕事中申し訳ありませんが、ちょっとよろしいですか」
休日に社員でない第三者が来るとは思っていなかったのか、驚いた顔で二人が同時にこちらを向いた。それでも構わず続けた。
「こちらに判田さんはいらっしゃいますか」
すると二人は無言で奥の同じ方向に視線を送った。拓雄からはキャビネットと壁で死角になっていたが、そちらにも誰かいるらしい。判田本人か。それとも対応していいのかを、上司に確認しているのだろうか。
そう思っていると声だけが聞こえた。
「あの、どちら様でしょうか。今日は休みですが」
別の場所に座っていたらしい声の主が、こちらに近づいてきた。ラフな格好をしている男性で、三十半ば過ぎに見える人だ。
その容姿から、もしかしてと期待し尋ねた。
「判田さん、判田一樹さんでいらっしゃいますか」
「はい、そうですが」
幸いにも、答えは前者だったらしい。怪しまれないようにと、拓雄がスーツを着ていたからだろう。訝し気ながらも相手の対応は丁寧だ。
すかさず内ポケットから名刺を取り出し、彼に差し出した。
「突然申し訳御座いません。私、こういうものです」
「保険屋さん、ですか」
「保険の営業ではありません。谷内田、いえ畑外山走さんの件でお聞きしたくて参りました」
眉間に寄せた皺が深くなり、背後の社員達を振り返った後、小声で乱暴な口調で言った。
「走の件って、あなた、刑事じゃないよね。休みの日に一体、何の用だ」
「判田さんと同じく、私も彼女の事件で疑いをかけられ迷惑を被っています。だから少しでも早く真犯人が捕まるよう、警察とは別に調べようと思い伺いました」
「え、あんたも、か。いや、ちょっと待ってくれ」
彼はもう一度名刺に目を落とした。名前を確認したのだろう。
「綿貫、という名前は聞いたことがないけど、俺が疑われているって誰から聞いた。あいつとはどういう関係だよ」
「ペンネームは畑外山走、本名が谷内田歩さんですが、私は一切面識がありません。ただ彼女の友人が私の婚約者でして。そこで谷内田さんが使っているSNSの書き込みなどから、判田さんが彼女と揉めていると分かりました。他にも他社の編集者でトラブルを抱えた人がいるとも聞いています」
「ガンマの奴らか。あっちの方が俺なんかよりずっと怪しいのに、警察も馬鹿じゃないかと思うよ。あれ。あんた、あの女の友達が婚約者だと言ったな。もしかして近々結婚する奴というのは、あんたらのことかよ」
ドキリとした。拓雄達の事を知っているなら秘密に関しても、と疑い尋ねた。
「何か、ご存じですか」
「ここでは何だから、外で話をしよう」
彼はカウンターの横を通り、ドアを開け廊下に出た。拓雄がついて行くと、エレベーターのボタンを押して待つ間に言った。
「近くの喫茶店でなら、ゆっくり話が出来る。俺もあんたに確認したい件があるから」
積極的に情報を提供してくれるなら好都合だ。しかも彼の態度が演技でなければ、容疑者を一人減らせる。
もし犯人なら、事件についてなど普通べらべらと話したくはないはずだからだ。また和可菜の秘密を知る人物で脅してくるようなら、それなりの対処も出来る。
ビルの一階に降り、外に出て右に曲がった直ぐのところに店があった。彼は扉を押して中に入る。店長らしき人が挨拶をした口調から、常連なのだと分かった。
十一時近くだったが、日曜だからか店内に客は少ない。その為一番奥の席へと二人は座った。ここなら店員を含め、会話が人に聞かれる心配はなさそうだと、拓雄も安心する。
二人共コーヒーを注文した後、早速彼が口を開いた。
「えっと、綿貫さんだったね。あの女の性癖について、あんたはどこまで知っている」
「性癖、ですか。ああ、同性愛者だとは聞いています」
「そうか。で、俺があいつと何故揉めているか、どこまで聞いた」
得た情報を正直に伝えると、彼は大きく溜息をついた。
「そこまで知っているのか。まったく、冗談じゃないよ。あれはあいつの我儘から始まったんだ。確かに揉めたが、別にあんな奴の作品なんて無理に出さなくても、他にいくらだってある。出してくれる出版社があれば、持って行けばいいさ。あればな。そんな程度で夜遅くに呼び出して言い争うとか、階段から突き落とすなんてあり得ないから」
無実だと主張し、警察や周囲の反応に対する不満を次々と吐き出した。彼の言い分を静かに聞き頷いていると、質問が飛んできた。
「綿貫さんはあの女と面識がないと言ったね。電話で会話した事もないのか」
「ありません。婚約者から紹介されていなかったので。同性愛者の件は又聞きです。彼女の父親が経営する保険代理店の担当者が隣の課にいて、雑談で耳にしただけです」
「ああ。そう言えばあいつの家は保険屋だったな。なるほど。そういう繋がりもあるのか」
「でも私と直接関係はありません。担当が違いますし、父親とも会ったことがないので」
「なるほど。それであんたも警察に疑われているらしいけど、それは婚約者絡みか」
「そこはちょっと複雑なので、そうだと言い切っていいのか分かりません。でもどうしてそう思われたのですか」
「それはそうだろう。会ってもないのに疑われているとなれば、接点がある婚約者絡みしかないと思うが、違うのか」
相手から情報を仕入れるには、こちらの事情を伝える必要があると考え、内容の詳細は伏せた上でDMの件や婚約者との結婚を反対されていた件を伝えた。そうすれば、秘密を握る人物なら何かしらの反応を見せるに違いないと思ったからだ。
すると彼は深く頷いた。
「やっぱり。あんた達だったのか」
「どういう意味ですか」
「あの女には昔付き合ったこともある、今でも好きな女がいたらしい。でも少し前、相手が男と交際しだした上に結婚すると聞いて、激怒していた。その頃に俺と揉め始めたからよく覚えているよ。裏切り者と言っていたところをみると、相手も同性愛者だと信じていたようだ。けど違った。バイだったのだろう。それがあんたの婚約者だな。多分、間違いない」
嫌な予感が当たった。
歩が和可菜との結婚を反対していると知った時から、実は拓雄もその可能性に気付いていた。だがそう信じたくない、別の理由ではないかとどこかで思っていたかった。
けれど今の判田の証言から、それが真実だと考えるしかない。つまりあのDMに書かれていた、公にされて困る和可菜の秘密とは、彼女がバイセクシャルということだったのだ。
ショックを受け呆然としていると、余りの落ち込み具合に驚いた彼が心配そうに言った。
「大丈夫か。知らなかったのならすまない。いや、そうとは限らないぞ。あくまで俺の憶測だ。あの女が好きだった相手の名前も知らない。全く別の相手の可能性だってある」
彼の言動から、秘密を公にして脅される心配はないとホッとする。あとは犯人かどうかだ。そう考えた上で拓雄は首を振った。
「いえ。さすがにそれはないと思います。歩さんの周辺で、私達と同じく結婚を予定していた人が他にもいたというのは、さすがにあり得ません。多分、私の婚約者が歩さんと付き合っていたか、もしくは片思いの相手だった可能性が高いでしょう」
「ま、まあ、そうかもしれないな」
「大丈夫です。薄々そう疑っていましたから。それより判田さんの話を聞かせて下さい。警察から事情聴取されましたよね。疑いが晴れていないのは、アリバイがなかったからですか」
ようやくこちらから質問を返すと、彼は頭を搔きながら言った。
「そうだよ。会社を出たのが夜の九時過ぎで、家に一人でいたから証明してくれる人が誰もいない。マンションに防犯カメラはついていないし。いつもならそんな時間、会社で仕事をしているのに。あの日、たまたま早く帰ったから面倒に巻き込まれたよ」
拓雄と同じだ。その口調から嘘は感じられなかった。しかしそれはあくまで素人による主観だ。警察をも騙しているとすれば、見破るのは難しい。
そこから歩がどんな人物だったかを尋ね、他の揉めていた編集者についても聞いてみた。
「普段は大人しい奴なのに、絶対譲れない一線があるのか、そこを越えるといきなり強情になる。良かれと思って忠告したのに、突然担当を変えろとか偉そうな口を利きやがってよ」
その後の言い分は相当自分勝手で、これなら拓雄でも担当を変えてくれと言いだすかもしれないと感じた。それでも口を挟まず頷いていると、今度は業界の不満を口にし始めた。
その為話題を戻す為、もう一度言った。
「ガンマプラム社の中東という編集者と、辻脇という編集長ってどんな人ですか」
「よく知っているな。辻脇って編集長は、よくいる世渡りの上手い奴だよ。部下だとか若手の作家には厳しいが、上司や売れている作家にはへこへこする男でさ」
「その人にもアリバイが無かったようですね」
「ああ。でもあの辻脇が揉めている作家を個別に、しかも夜遅く呼び出して外で話をするというのは考え難い。俺はあいつより、中東の方が怪しいと思うよ」
「どうしてですか」
「同性愛者かは知らないが、中東は見た目から男っぽく精悍なタイプだ。そうだと言われても納得できる。印税の件だけじゃなく、痴情のもつれがあったとしてもおかしくない」
「そうなんですか」
「ああ。ただ結婚の予定は聞いていないから、激怒していたのは別の奴だと思う」
「しかし中東さんとも、そういう関係だった可能性がある訳ですね」
「無いとは言えないだろう。あの女が出版権を引き上げるとか言った状況からすれば、中東は惚れていたけど相手にされなかったのかもしれない。それで嫌がらせのつもりで、印税を誤魔化そうとしたっておかしくないと俺は思っている」
これは有力な情報だ。彼女なら和可菜の秘密を知っていたとしても不思議ではない。また犯人の可能性さえ出てくる。拓雄は前のめりになって言った。
「彼女にもアリバイはなかったようですね」
「噂ではそう聞いている。今の所だと俺や辻脇、中東が仕事関係では疑われている面子らしい。しかし他にもいるだろうとは思っていたけど、あんた達のような人もいたんだな」
「誰が疑わしいかなんて情報は入ってこないでしょうね。警察は全く教えてくれませんし」
「そうなんだよ。ところで俺達やあんた達以外で、疑われている奴らはいるのか」
「まだ確認できていません。いるかもしれませんし、いないかもしれません」
「ここ最近のあの女の性格だったら、他にもいそうだけどな。よくあるトラブルと言えば仕事や金銭関係もあるけど、一番多い括りは人間関係だ。学校や職場といった集団の関係、家族関係や友人関係の他には夫婦や恋愛関係といった痴情のもつれだってある。あんたの婚約者や中東以外にも、同性愛者で揉めた奴がいても不思議じゃない」
「ここ最近、というのはどういう意味ですか」
「確か去年だったっけ。あいつの母親が家で事故死したんだよ。その頃から情緒不安定になってさ。元々そういう傾向はあったけど、基本大人しい奴だったんだ。まあ、相当ショックだったんだろう。それで俺との関係もここ数ヶ月で悪化したし、中東達とも揉めだしたのさ」
「なるほど。では仕事関係で、判田さんを含めた三人の他にはいないと考えていいですか」
彼は深く頷いた。
「いないはずだ。狭い業界だから、あれば噂で耳に入る。あの女の仕事場は実家だから職場関係がない。だから揉めていたとすれば、あとはプライベートの関係者くらいだろう」
「ちなみに中東さんや辻脇さんは、今日とか休日出勤をしてそうですか」
「辻脇辺りだとしているかも、な。時期的にいうと五月はそうでもないが、出版関係は月半ばが忙しんだよ。俺もそうだが、今頃だと当たり前のように出ていると思う」
どうやら発行日が月末に多く、その前の十日から二週間前が修正の最終である校了日の為だという。その後いくつか質問をしたが、彼との話からこれ以上の進展は望めないと判断し、切り上げる事にした。
コーヒー代を二人分払い喫茶店を後にした拓雄は、次に中東達が勤めるガンマプラム社へと移動した。着いた時にはもう十二時近かった為、お昼でいないかもしれない。それでもと思い、先程同様セキュリティの甘いビルの中に入り訪ねてみた。
ガンマプラム社が入る階のオフィスも、やはり人がいた。声をかけて中東か辻脇が出社しているかを確認すると、辻脇だけがいた。そこで彼にも判田同様の説明をすると、渋々ながら面談を受け入れてくれたのである。
彼は編集長だからか、外ではなく社内の応接間に通された。そして紙コップに入ったお茶を出され、ソファに腰かけ向かい合った状態でいくつか質問をすると答えてくれた。
「判田と会ったのですか。私達について何と言ったか知らないけれど、業界内ではあいつが一番怪しいと言われていますよ。私もトラブルを抱えていたとはいえ、直接の担当者じゃありませんからね。わざわざ彼女を外に呼び出して話を付けるなどありえません。ましてや夜遅くでしょう。同性愛者だと聞いてはいますけど、女性ですからね。このご時世で、そんな非常識な真似はできませんよ」
辻脇は既婚者で、事件当夜は家に居たそうだ。アリバイがないというのは、部屋に籠っていた高校生と中学生の子供達や妻だけだと信憑性が低いからだった。
彼ら全員と口裏を合わせ、嘘のアリバイを証言させているとは現実的に考え難い。ただ警察なら容疑者の一人として外せない理由も理解できる。
「でしたら同性の中東さんなら、あり得るとお思いですか」
拓雄の問いに彼は眉をひそめた。
「私の口から、そんなことは言えません。警察は疑っているようですけど、上司としては部下を信じるしかないでしょう」
「彼女のアリバイは、どう聞いていますか」
「東京駅の周辺でぶらぶらと買い物をしていたようですね」
拓雄の会社から現場までとは全く逆方向だ。しかし人が多すぎてアリバイが確定しないというのも頷ける。
「中東さんも歩さん、畑外山走さんと同じ同性愛者なんですか」
彼は眉間に皺をよせ、首を振った。
「それは知りません。プライベートな話ですし畑外山先生と違い、彼女はカミングアウトしていませんからお答えしかねます。誰が言っているんですか。どうせ判田でしょう。自分が疑われているからって、中東を誹謗中傷するのは止めて欲しいですね」
「私はそんなつもりなどありません。ただ印税や出版権というお金と仕事に関わる問題以外に、そういった別の人間関係で揉めていた可能性があるのかを確認したいだけです」
「ですからお答えしかねます。そんな話なら、あなたの婚約者が一番怪しいのではないですか。それとも警察が疑っているように、婚約者を守るためにあなたが先生と揉めていた可能性はないのですか」
グッと言葉に詰まったが、何とか反論した。
「少なくとも私ではありません」
「だったら婚約者の方かも知れませんよね」
「現時点では、その可能性を否定できません。ただそれは辻脇さんが、中東さんを犯人でないと思う気持ちと似ています。信じたいけれど、断定した否定はできない。違いますか」
「い、いや、そうかもしれませんが」
「それとも中東さんが犯人でないという、何らかの確信や証拠をお持ちですか。突き落としたのは判田さんだから、という理由でも構いませんよ」
「そんな確信はありません」
「そうですか」
その後も問い詰めたが芳しい情報は得られず会社を拓雄は出た。
一時を回りお腹も空いたので、お昼でも食べようと目に付いた近くの喫茶店へと入った。これから中東が休日出勤してくる可能性を考慮し、待ち伏せが出来ると思ったからだ。
日曜日だからかスーツを着た会社員はほとんど見かけず、どこかの作業員らしき客が多い。
拓雄は道路に面した窓際に座ってメニューを開き、オムライスとアイスコーヒーを注文した。運ばれてきた食事に手を付けながら、時折ビルに入っていく中世的な女性がいないかと目で追う。
だが食べ終わって小一時間いたけれど、それらしき人は見かけなかった。
明日以降の平日は拓雄自身が仕事の為、このような時間は取れない。とはいえ無駄に過ごしたくも無かった。実際会って話をするには、平日に辻脇と連絡をして取り次いで貰えるよう依頼した方が効率的だ。彼も無下には断らないだろう。
そう思い、今日は諦め帰ろうと決めて拓雄は席を立った。そして最寄り駅へと向かう途中で考える。
もし犯人が中東でないと分かったらどうするか。その場合、和可菜の可能性が高まる。また中東が秘密を握っていたらどうなるか。そう想像しただけで頭が痛くなった。
犯人となれば、彼女との結婚を諦めることになりかねない。もしくは脅迫に怯え続けるか。
どちらも嫌だ。ならばその点をはっきりさせる必要がある。やはり本人に直接尋ね、確かめるしかないだろう。拓雄はそう腹を括った。