第5章-4 SIDE A-②:行った場合
「何ですって」
拓雄が問い返すと、阿川はもう一度言った。
「被害者と後田和可菜さんが友人だったのは、ご存知かと聞いたのですが」
「し、知りません。本当ですか。あの被害者が和可菜の友人だなんて。信じられません」
激しく首を振り否定すると、彼はさらに問いかけて来た。
「本当にご存知なかったのですか。それに何故、信じられないのでしょう」
「嘘はついていませんよ。何度も言いましたけど被害者が取引先のお嬢さんだった件や、その名前だって最近知ったばかりですから。当然面識はないし、和可菜との話で歩どころか谷内田という名前すら聞いたこともありません。もし友人だったら、うちの会社と揉めている代理店の娘だと知っていたはずでしょう。担当課は違いますが、少しくらい話題に上がってもおかしくありません。だけど一度だってそんな話、したことがありませんから」
「だとすれば、後田さんが隠していたのかもしれませんね。もちろんたまたま話題にしなかっただけかもしれませんが」
「どうして隠す必要があるんですか。そんなこと、」
そう言いかけ、思い当たる点があり口籠った。阿川はそれを見逃してはくれなかった。
「どうしましたか。何か言いかけたようですが。後田さんが被害者と友人関係にあった件を、隠す理由に心当たりがあるのではないですか」
これは誤魔化しきれないと考え、渋々言い淀みながら答えた。
「いや、確証はありません。ただ、ですね。あの被害者は、その、ある種、変わったというか、いや、そういったら差別になりますね。分かりませんよ。私だって噂を耳にしただけですから。あの、もしかすると被害者が同性愛者だったから、和可菜は話したがらなかったのかもしれないと思っただけです」
「ほう。でもどうしてですか。あなたがLGBTQの人に偏見を持っているからですか」
「違います。そんな訳、ないじゃないですか。これでも金融機関に勤めている社員ですよ。顧客や取引先の中には様々な方がいらっしゃいます。だから会社では人権研修など特に力を入れ、神経を尖らせています」
「でも、過去にあなたの会社の社員がそういった差別をしたから、被害者の父親の会社と関係が悪化したのではないですか」
「だからこそ、ですよ。残念ながら当社の社員は一万人以上いるからか、いくら教育をしても偏見を捨てられない人が一定数存在することは確かです。しかしですね。三年前、同じ支店内でそうした問題を起こした人物を私は目の当たりにしました。その結果、どれほど会社に影響を及ぼすか、その恐ろしさを身近に経験してきたのです。そんな差別発言など、私生活を含めて一度たりともした覚えはありません。和可菜に聞いてみれば分かります」
「だったらどうして後田さんは、被害者について話さなかったのでしょうか」
「本当のことは分かりません。ただそうしたセンシティブな話題は、余程の事がない限りしないでしょう。歩さんでしたっけ。その人と私に接点などほとんどありませんから、する必要がないと彼女が判断した可能性はあると思います」
「接点がない、ですか。私はそう思いませんが。綿貫さんは後田さんと結婚されるご予定ですよね。式は挙げられないのですか」
「挙げる予定ですよ。ただいつにするかは、まだこれからです」
何故そうなのかを簡単に説明すると、阿川は納得したようだ。
「なるほど。場所は東京で決まっているけれど、時期や誰を呼ぶか決まっていない訳ですか」
「何人規模でやるかも、まだ詳細な打ち合わせはしていません。式場をまず決めた後、先方と打ち合わせをする中で予算に応じ、人数をどれだけにするかを相談しようと思っていました。だから誰を呼ぶかなんて、具体的な名前までは話していません」
「そうですか。もしそんな話を既にしていたとすれば、友人として谷内田歩さんの名前が挙がっていてもおかしくないと思ったのですが」
「一切していません。私の友人の名前だって、彼女は一人も知らないと思います。雑談の中で会社関係の人の名は出したことがありますが、それ以外で話題にした記憶はありません」
「そんなものですか」
もちろん友人と呼べる奴はいる。東京の中高一貫校にいた為、思春期である六年間を共に過ごした仲間は、今でもたまにだが連絡を取り合っていた。大学時代の友人だってそうだ。
しかし転勤族として今年十三年目、東京に戻ってくるまで京都に静岡と、地元から離れた土地を渡り歩いてきた。また多くは結婚し、子供が生まれ家庭を築いている年代だからだろう。それぞれの生活で忙しく連絡も途切れがちとなり、直接会ったのは何年も前になる。
また仙台時代の同級生達とは完全に関係を絶っていた。余り触れられたくない過去を思い出すからだ。よって和可菜との話題も、自然と現在の身近なものが多かった。
それでも多少の思い出話をすることはあったが、その際だって面識のない人物で合わせる機会もなかった為、わざわざ固有名詞は出さなかったはずだ。高校時代の友人で、とか大学のゼミの一人が、としか言わなかった記憶がある。
特別印象に残るエピソードなら、名前を挙げたかもしれない。だがそんな過去に遡った友人の話題など、彼女とした覚えはなかった。逆に彼女からも聞いたことが無い。結婚を決めたけれど、確かにまだ知らないことは多いと気付く。
「そんなものです」
拓雄の答えに取り敢えずといった様子で頷いた阿川は、さらに話を続けた。
「そうですか。しかし綿貫さんが知らなかったとしても、後田さんが被害者の友人だったのは確かです。本人からも事情聴取をしたので間違いありません。これは偶然でしょうか」
「どういう意味ですか」
「婚約者の友人が、たまたま階段から落ちた現場を目撃した事です」
「何を言いだすのですか。当たり前でしょう。私は被害者が頭から血を流している様子を見ていたのに、女性だとすら気付かなかった。そんな見知らぬ相手が、たまたま和可菜の友人だっただけじゃないですか。それとも被害者と和可菜の間に、何か問題があったとでも言うのですか。どちらにしたって私には知る由もないですが」
そう告げると黙ったまま、話を聞き何やらメモを取って久利の様子が変わった。しかし阿川は無表情のままだった。その為気になって尋ねた。
「ちょ、ちょっと待って下さい。もしかして和可菜と被害者は揉めていたのですか」
「詳細は差し控えます。それに綿貫さんが知りたいのなら、ご本人に確かめてみればいいでしょう。ただ事件があったあの日、後田さんに確固たるアリバイはありませんでした」
「冗談じゃない。まさか揉めていた相手が和可菜で、それを私が目撃したとでも言いたいのですか。もしかして、男が走り去るのを見たとの証言自体、嘘だと思っているのですか」
「その可能性も否定できない、と考えています」
これにはさすがに血が頭に上り、激しく反論した。
「馬鹿馬鹿しい。だったら通報なんかしないでしょう。私が彼女を庇おうとしたなら、そのまま一緒に逃げれば済みますよね。通報が早かったから一命を取り留めた、と聞いています。ということは、放っておけば被害者は死んでいた可能性が高い。だったらそんな真似、する訳ないと思いませんか」
「そうとは限りません。通報後、突き落としたのが後田さんと知った場合は矛盾しません」
「いい加減にして下さい。あの日、和可菜なんて見かけてないし、話もしてない。嘘だと思うのなら、通話記録でも確認すれば分かる。いくら疑うのが警察の仕事と言っても、限度があるでしょう。何だよ、馬鹿らしい。人助けだと思ってわざわざ通報したら、こんな扱いですか。うんざりする。任意の事情聴取だから断ってもいいですよね。今後二度と来ないで下さい。例え犯人らしき人物が現れても一切協力はしません。もう帰って下さい」
声を荒らげた拓雄は席を立った。
「すみません。ただ一つの可能性を言っただけにすぎなかったのですが、言い過ぎました。お詫びします」
阿川が座ったまま頭を下げると、横にいた久利は立ち上がり、同じく謝罪した。それでも怒りが収まらなかった為、阿川を見下ろしながら顎をしゃくった、
「もういいです。とにかくさっさと部屋から出てって下さい。さもないと他の警察を呼びますよ。許可なく居座ったら、例え刑事だって不法侵入に当たりますよね。帰らないならここで動画を取って、世界中に拡散しますよ。当然刑事告発も辞さない」
「分かりました。今日の所は帰ります。申し訳御座いません」
ようやく阿川は椅子から腰を上げた。その態度が気に食わず、リビングに置いてあったスマホを手に取り、さらに彼を責めた。
「あなた、すみませんだとか申し訳ないとか言っているけど、何を謝っているのか分かっていますか。私が何に怒っているのか、本当に理解していないでしょう」
「そんなことはありません」
「だったら私が何に怒っているか、説明して下さいよ」
これまでと違う拓雄の変貌ぶりに、久利の方はやや怯んでいた。これまで飄々としていた阿川でさえ、表情を歪めている。
「なんだ。やはり分かってないようですね。もういい。帰って下さい。二度と来ないように」
「ちょっと待って下さい。あなたの証言を疑ったのは申し訳ありませんでした」
阿川の返答を鼻で笑った。
「ほら、全く分かっていない。ミステリー小説は散々読んできたから、警察が第一発見者の証言を疑うことぐらい当然だって知っていますよ。そこじゃないでしょう」
「では、婚約者の後田さんを疑ったことでしょうか」
「そう。私はしょうがない。だけど友人関係にあっただけで、まるで犯人かのような言い草をしたのは許せません。関係者を疑うのが仕事だろうけど、言い方ってものがあるでしょう」
「申し訳ありませんでした」
演技ではなく本気で怒りをぶつけられたのは、彼女が間違いなく犯人でないと知っていたからだ。また歩が階段から落ちる原因を作ったのが拓雄だからこそ、彼女があらぬ疑いをかけられてしまった責任は、自分自身の愚かさにあることを腹立たしく思えた為だろう。
言いたいことを吐き出し二人が再度頭を下げた為か、やや冷静さを取り戻した。そこで少し考えた上で、この状況を利用しようと意図的に怒った口調のまま言った。
「神経を逆撫ですると分かって私が嘘をついていると言うほど、和可菜は被害者と揉めていたのですか。他にトラブルを抱えた人物がいないから、最有力容疑者に仕立て上げているんじゃないでしょうね」
「そういう訳ではありません」
阿川が首を振ると、久利が思わずといった調子で続けた。
「明らかに揉めていた関係者は、他に何人かいます」
「こら」
口を滑らしたことを阿川に咎められ、彼は首をすくめた。拓雄はこの機会を逃さなかった。
「何人かいるのですね。それでも和可菜が一番揉めていたというのですか」
口を噤んだ二人に対し、尚も追及した。
「何か言って下さいよ。一番揉めていたかいないかくらい、話せない訳ないでしょう。先程阿川さんは言いましたよね。最有力容疑者に仕立て上げた訳ではないと。久利さんだって、明らかに揉めていた関係者が、と口にしたじゃないですか。だったら他の奴らの方が抱えていたトラブルは大きいって事でしょう。イエスかノウで答えられるはずです。首を縦に振るか横に振るかも出来ないのですか」
最後の方では語気を弱め、かつ呆れたように久利の目を見て言ったからだろう。彼はうっかり頷いたのだ。咄嗟に横の阿川から肘鉄を打たれ、慌てていた。
「ほう。やっぱり他に怪しい奴らがいるようですね。それなのに、まるで和可菜が犯人かのような言い方をしたのはどうしてですか。阿川さん。教えて下さい。返答次第では本当に今後一切協力しませんし、警察からそうした態度を取られたと谷内田社長にも伝えます。ご存じですよね。私が社長からとても感謝されているって。被害者の父親が、娘をあんな目に合わせた犯人を見つけられないのは的外れな捜査のせいだと知れば、一体どう思うでしょう」
逡巡していた彼だったが、止むを得ずといった口調で話し始めた。
「私達が今隠しても、後田さんに確認されれば分かる事情なので申し上げますが、被害者は仕事関係で何人かとトラブルを抱えていたと分かっています。友人の後田さんもご存じだったようで、そうした供述をされていました」
「仕事関係、ですか。WEBを中心にした小説家でしたね。それなら編集者とかですか」
「はい。具体的な名前までは私達の口から言えませんが、確かなようです」
「なるほど。だけどそれ以上に揉めていないのに和可菜を疑った理由は何ですか」
「後田さんは被害者に、綿貫さんとの結婚を反対されていたようです」
ハッとした。あの日の夜、和可菜と別れろと言われた状況を思い出す。最初は元カレと勘違いしていたが、友人として反対していたとなれば事情が変わってくる。
思えば事件の隠蔽を計ろうと必死だった為、発端となったあのDMの意図まで考えが及ばなかった。しかし阿川の説明により、ある疑惑が浮かんだ。そういうことか。
「どうされましたか。何か思い当たることがあるようですね」
頭の中が別件に捉われていたからだろう。大人しくなった様子をみて、再び立場が逆転したかのような口調に変わった。
「い、いや、そんな話、和可菜から聞いていなかったので、ちょっと驚いただけですよ」
動揺を隠せず答えると、さらに彼は続けた。
「そこなのです。後田さんが特別、被害者と揉めていた訳ではありません。ただトラブルの内容が第一発見者の綿貫さんとの結婚だったなら、何らかの関与を疑うのは警察として当然です。決して的外れな捜査ではありません。警察小説等をよくお読みになられているのなら、ご理解頂けると思うのですが」
阿川の言う通りだ。実際にあの夜の出来事は、まさしくそれが原因で起こったといえる。歩が和可菜の友人として結婚を反対していた為に、DMを送りつけ呼び出したのだから。
もしかして、拓雄のアカウントは和可菜が教えたのかもしれない。あのようなDMを送りつけたと知っていた可能性だってある。だとすれば、と様々な想像をして血の気が引く。
「どうされましたか。やはり何か我々に隠していることがあるのではないですか」
別事を考え黙って俯いた拓雄に、阿川が顔を覗き込むようにして言った。
このままだとまずい。後で真実を話すより、今白状した方が余計な詮索をされずに済む。そう判断し、顔を上げ思い切って告げた。
「実はあの夜、偶然あの場所にいたのではありません。私は正体不明の人物から、SNSのDMで呼び出されていました。これを見て下さい」
手にしていたスマホを操作し、例の文面を彼らに見せた。
だが覗き込んで目を通した二人は、それ程驚いていなかった。その反応から、危惧していた予想が当たっていたと分かる。
やはり彼らは何らかの手を使い、あの日被害者がSNSで人を呼び出していた事実を把握していたようだ。その相手が拓雄であるとまで知っていたに違いない。
それなら自ら申し出たのは、やはり正解だったと胸を撫で下ろす。あれ以上隠し立てをしていれば、疑いはさらに深まっていた恐れがあった。
そうなる前に、とさらに付け加えた。
「私はこのアカウントを、学生時代から使っています。内容はサッカーとミステリーに関する話題に限定していますが、身バレしないよう個人情報は一切書き込んでいません。また最近まで誰にも私のアカウントだと教えていませんでした。それなのにDMの送り主は私だと分かった上で、公にされては困る和可菜の秘密を広めると脅し呼び出したのです」
「だからあの日、あんな時間にいたのですね」
「そうです。でも私が呼び出されたのは、被害者が倒れていた場所の対岸です。そこで時間通り着き、送り主は誰だろうと周りを見渡しました。その時、偶然対岸のビルで人が揉め、階段から落ちたのを目撃したのです。だから慌てて駆け付けました。それだけです。信じて下さい。あの時いたのは明らかに和可菜じゃありませんし、もちろん私でもありません」
「何故、今になってその事を教えてくれたのですか」
「被害者が和可菜の友人で、私との結婚を反対していると刑事さんが教えてくれたからです。このアカウントを使っている事は隠していましたが、和可菜にだけは伝えていました。もしかすると、このDMを送って来たのは谷内田歩さんで和可菜から聞き出していた、あるいはこっそり覗いて探り当てたのではないかと思ったからです」
DMを送られるまでの経緯を説明し、いかに執念深くかつ執拗だったかを詳細に告げた。
彼らは黙ったまま何度か頷いていた。だが一通り聞き終わった時点で阿川が口を開いた。
「つまり綿貫さんは私が言った言葉から、被害者がDMの送り主かも知れないと思い、それで疑いを晴らそうと正直に打ち明けてくれたのですね。でもどうしてあの現場や、翌日に事情を伺った時に何も言わなかったのですか」
「あの時点では、事件と全く関係ないと思っていたからです。それにこれは和可菜にもまだ言っていないので、そんな事情を警察の方に話せる訳がありません」
「でも今はお話ししてくれました」
「それはそうでしょう。和可菜や被害者と無関係ではない可能性が高いと分かりましたし、下手に隠せば余計に疑われると思ったからです。刑事さん達は知っていたようですね。谷内田歩さんが、私にこんなDMを送っていたと。だから和可菜に疑いをかける振りをし、私の反応を探っていたのではないですか」
「回りくどい真似をして申し訳ありません。ただこれも刑事の仕事なのです。ミステリー好きの綿貫さんならご理解頂けますよね」
拓雄のセリフを利用した口振りに苛ついたが、見立ては正しかったと安堵した。これで最悪の展開は避けられそうだ。
警察と犯人または探偵と犯人との攻防は、将棋と似ている。相手の出方を予測し、追い詰められないよう回避、または相手の逃げ道を塞ぐ為に先の手を読み、布石を打っていく。
阿川はDMの件を知りながら意図的に隠していたのは、拓雄が怪しいと睨んでいたからに違いない。だが決定的な証拠がないからか、ぼろを出させようと挑発したのだろう。
「今なら理解はできます。ただ実際やられると、良い気分はしませんね。こんなことならあんな呼び出し、無視すれば良かった。行くかどうか、ギリギリまで悩んでいたのです。もし行かなかったら、こんな思いをしないで済んだのに」
「そうですね。もし綿貫さんが現場を目撃せず通報しなくても、他の方が連絡していたでしょうから。ただ今回のように間に合ったかどうかは分かりませんけど」
一安心したはずだったが、阿川の言葉に息を呑んだ。
「どういう意味ですか」
「いたのです。綿貫さん以外の目撃者が」
彼の更なる攻め手に、拓雄は頭が真っ白になった。