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第5章-2 SIDE A‐①:行った場合

 あの忌まわしい事件のせいで、通常業務に加え面倒な役割を担わされた一週間が過ぎ、ようやく土日休みに入った。

 しかしゆっくりできるのは今日一日だけだ。というのも、明日の日曜日は和可菜が三つの中から選んだ式場の一つに予約を入れている。その為、向こうの担当者との打ち合わせに二人で行かなければならない。

 先週の土曜日のデート兼話し合いの場は、事件の影響を受けキャンセルした。よって電話で彼女が絞った式場を聞いて決めたのだ。

 本当はもっとゆっくり考えたかったし、引き出物をどうするか等も決めておきたかった。けれどそんな精神的余裕を失い、式場なども任せるしかなかったからしょうがない。

 今週は心身共に疲れ果てた。月曜の朝から本部長と遠藤支店長に囲まれた状態で、営業一課の二人も引きつれ谷内田社長の元へと挨拶に行かされた。初めて会ったがしっかりとした体格をしており、白髪にしては年齢より若々しく見えた。

 そこで名乗ると、彼は拓雄の両手を握って目を潤ませながら頭を下げた。

「あなたが綿貫さんか。本当に有難う。ほんの少しでも通報が遅ければ、歩の命は危なかったと病院の先生から聞いたよ。昨年妻を亡くしたばかりなんだ。もしあの子まで失っていたら、私はこの先生きていけなかっただろう。あなたには感謝してもしきれない」

 そういえば今は二人暮らしだと染岡が言っていた。

「あれは大変不幸な事故でしたよね。お風呂場で転倒されたと伺いました」

 支店長が神妙な顔でそう言うと、社長は頷いた。

「私もそうですが、この年になればちょっとした段差で躓いたりして、足元がおぼつかなくなりますからね。そのまま気を失い、貯めていた湯に沈んで溺れるなんて。とはいえ、あれは自ら起こした事故ですが、歩の場合は違います。誰かに突き落されたのですから。まだ予断は許さないけれど、それでもなんとか一命を取り留められただけで幸運でした」

 まだ目を覚ましていないと聞き、心の内で安堵する。一方その娘に脅され呼び出された挙句に揉め、命に危険が及ぶ事故を起こしたきっけを作ったのも目の前にいる拓雄だとは言えず、複雑な心境で礼を返した。

「いえ、偶然目にしただけで、当然の行動を取っただけです」

 すると本部長が口を挟んだ。

「彼は我が社でも大変有能でして。同期の中でもトップの昇進で課長代理になったばかりですが、とても謙虚な社員なのですよ」

 そこからは拓雄の出番などほとんどなかった。支店長や杉本課長、担当の染岡ら四人が、入れ替わり立ち代わり娘の容態を心配し、かつおべっかを使うなどに時間を費やしていた。

 どうにかしてこれまでのわだかまりを解消できないか、そうした言葉を引き出そうと彼らが腐心している様子を、一歩下がった場所で拓雄は冷ややかに眺めていた。

 とはいえさすがに相手の社長も馬鹿ではない。本部長達の意図を知った上で、愛想笑いを浮かべつつ話を聞いていた。

 その態度を察し、余り最初から恩着せがましい発言をすればかえって反感を買うと危惧したのだろう。初回は比較的あっさりとしたお見舞い訪問で済ませ、拓雄達は会社へと戻った。

 だが厄介だったのはその後だ。帰りの車の中で本部長が支店長に告げた。

「今日の所はあの程度で終わらせたが、そう何度も私は来られないから、後は頼んだぞ」

「はい。分かっております。杉本や染岡にはお嬢さんの意識が戻るまで、何度も足を運ぶよう伝えました。私もその合間、合間で顔を出すつもりです」

「当り前だ。数字の減少を食い止めるのは最低限だぞ。社長だって、こんな状況で契約を落としたりはできないだろう。問題は、数字を増やすところまで持っていけるかどうかだ。これまで流れた契約を持つ輝海上だって今回の件は耳にしているはずだし、警戒するに違いない。それでもこっちに契約が回ってくるようになれば、一気に反転攻勢をかけられる」

「社長から契約を戻すという言質が取れれば、直ぐにご連絡します」

「ああ。そうなったらまた来るよ」

「宜しくお願いします」

 ここまでは他人事のように会社員の苦労を垣間見たつもりでいたが、そこからは違った。

「そうそう。綿貫君も協力してくれよな」

 は? と口に出そうなところを何とか耐え、尋ね返した。

「協力、というのは具体的にどういったことをすれば、」

「担当者は染岡と言ったな。日参しろとまでは強制しないが、しばらく彼と一緒に事務所を訪問してくれ。君が顔を出せば、社長もこれまでのような冷たい態度は取り辛くなるだろう」

 本部長の言葉に、支店長も深く頷いた。

「そうしてくれ。連城課長には私から言っておく。法人課の管轄外だが、部全体の業務としては重要だからな。本部長からも念を押して頂けますか」

「法人課の課長は連城だったか。分かった」

 こうして有無を言わさず、拓雄は谷内田社長がいるリュミエールの事務所への訪問を約束させられたのだ。

 営業一課と違って法人課の数字は比較的堅調だが、決して暇な部署ではない。取引先が持つ成績だって上場企業もある為に規模が違う。リュミエールなどよりずっと頻繁に顔を出さなければならない会社も多く、それこそ一つ間違えれば、数億の契約がすぐにでも吹っ飛びかねない。本部長だってそれはもちろん知っているはずである。

 そんな緊張感を強いられる職場において、拓雄は課長代理の立場で管理業務を補佐しつつ、課の中で最も気難しく大きな数字を持った代理店を担当者として抱えていた。だから他部署の余計な仕事まで背負わされるなど、やっていられないというのが本音だ。

 またその日は現場近くで投函した郵便物の回収もしなければならなかったから、怒りと苛立ちを隠すのに必死だった。しかしその場は反論せず黙って聞くしかなかったのだ。

 その後課に戻った拓雄は、幸いスタッフなどに不審がられずスマホを手にできた。

 しかし安堵する暇もなく、連城に話しかけられた。彼も直属の上司である支店長や、その上の本部長の指示には逆らえなかったのだろう。申し訳なさそうに耳打ちされた。

「大変だと思うが、染岡さんがリュミエールに訪問する際はできるだけ同行してやってくれ。もちろん法人課の業務が優先だ。こっちが忙しい時は断わってくれ。ただ時間が作れそうなら、その合間を上手く使って欲しい。しばらくの辛抱だ」

 頭まで下げられた為に分かりましたと答えたが、内心ではしばらくっていつまでだよ、と毒づいていた。

 歩が目を覚ますまでか。意識を取り戻せば言うまでもなく、拓雄の表敬訪問など逆効果にしかならない。となれば、谷内田社長が恩に感じ契約を回し始めるまでなのか。

 けれど一命を取り留めたとはいえ、確実に助かった訳ではない。これでもし娘が死亡してしまったら、契約を戻したりはしないだろう。目を覚ますか契約奪取か、どちらが先か。

 もちろん死んでは困る。ただこの状況で、直ぐに意識を取り戻されるのも煩わしい。それなら一生意識不明のままでいてくれたら、罪の意識を感じずに済むのだろうか。

 いや、それほど拓雄は図太くない。異動が出て部署が変わっても赴任先でビクビクし続けるだろう。いつあの女が目を覚まし、拓雄と揉めて階段を踏み外したと警察に証言するか、気が気でないからだ。この一週間でさえそうだったのだから間違いない。

 そんな想いを抱いている事など知らない染岡に、リュミエールへの訪問同行をあれから三度も頼まれた。

 その内一回は本来業務を理由に断わったが、水曜と金曜の夕方の二度、あの社長の顔を拝む羽目になった。その度に心臓を締め付けられる感覚が拭えないまま意識が戻っていないかを確認し、まだだと知る都度、胸を撫で下ろしてきたのである。

 生きた心地がしないとは、まさしく今の拓雄の状態を指すのだろう。そんな神経をすり減らした日々が過ぎ、ようやくの休みに入ったのだ。どっと疲れが出るのも当たり前だった。

 いつも通りベッドから起きて朝食を済ませ洗顔し、洗濯機を回して干すまでは何とか済ませた。そこから掃除をし、買い物にも出かけなければならなかったが、途中で気力が切れたのだろう。拓雄はソファに寝転び、うとうととしてしまったのである。

 その後インターホンの音で目を覚ました。慌てて飛び起き時間を見たら、まだ寝始めて二十分も経っていなかった。一体誰だと目を擦りつつ画面を覗く。そこで一気に背筋が凍った。

 恐る恐る通話ボタンを押し、はい、と一言答えると相手が告げた。

「先日お伺いした久利です。何度もお休みのところを申し訳ありませんが、また少しお聞きしたい点がありまして、お時間頂けますか」

 断わるわけにもいかない。何を確認したいのだろう。昨日の夕方時点ではまだだったが、もしかしてあの女が意識を取り戻したのか。疑心暗鬼に陥った状態で、

「分かりました。どうぞ」

と伝え、ドアの解除ボタンを押した。二人いてもう一人は阿川だろう。

 彼らが先週と同様に中へと入って来た。突然のことで目覚めはしたが、頭がまだ回らない。それでも彼らを招き入れる為、廊下に出て玄関のドアを開けた。

 二人は目の前まで来ていた。

「すみません。寝ていらっしゃいましたか」

 視線が頭の周辺に向けられていた為、手を当てる。どうやら少し髪の毛が跳ねていたらしい。手櫛(てぐし)で直しながら曖昧に頷いた。

「一旦は起きたんですが、まあ、」

「お疲れのところすみません。なるべく早く済ませますので」

 とにかく人目もある為、前回同様中に招き入れ椅子を用意して座らせた。お茶の用意はせず、彼らの向かいにそのまま座る。

 阿川が最初に口火を切った。

「あれから一週間経ちましたが、何か思い出された事はありますか」

 漠然とした問いに首をひねった。

「いえ、ありません」

 そんな事を聞きに来たのかと腹立たしく思ったが、確認はしておこうと尋ねた。

「被害者の方は、その後意識を取り戻されましたか」

「いえ、まだのようですが、あれ、綿貫さんもご存じでしょう」

「どういう意味ですか」

「何度か谷内田さんの会社に伺っていると聞きましたが。昨日の夕方も行かれたそうで」

 驚いた。何故そんなことまで知っているのだろう。まさか拓雄の行動が見張られているのか。

 一瞬そう疑ったが思い直す。警察だって何度か谷内田社長のところに訪問しているはずだ。そこで拓雄達が来ていると耳にしたに違いない。

 しかし不審に思われたら困ると考え、頷きながら説明した。

「そうなんですよ。担当外なので、本当なら何度も訪問する必要はありません。だけどご存じの通り、うちとは関係が悪化していた先ですからね。私が早期に通報したおかげで一命を取り留めたと、病院の先生や警察の方から聞いたからでしょう。とても感謝をされました。それを上が知って、どうにか関係改善の糸口に出来ないかと駆り出されているんです。あっ、これはここだけの話ですよ。間違っても谷内田社長には言わないで下さいね」

「そうでしたか。なるほど。サラリーマンの悲しい(さが)というやつですね。分かります。私達公務員も、所詮は上の指示に逆らえませんから」

 阿川が笑い、横にいた久利も苦笑していた。

「全くです。通常業務に加え余計な任務を負ったので、正直今週は疲れました。それで一度起きて洗濯までしたのに、休憩のつもりで横になったら寝てしまって。それがこれです」

 まだ跳ねたままであろう髪の毛を触りながら、そう告げた。彼らは愛想笑いを浮かべていたが、突然真面目な表情で質問を投げかけて来た。

「ところで、前回も確認しましたが、綿貫さんは本当に被害者と面識はなかったのですか」

 奇妙なことを言いだした阿川に対し、眉をひそめて答えた。

「ありません。前回言った通り、被害者が女性だとも気付きませんでしたし。取引がある父親の社長すら月曜日に伺った際、初めて会いました。先方に確認すれば分かるでしょう」

「もちろん、父親の谷内田さんとは先日が初対面だと聞きました。しかし被害者ともなかったかは確認できていません。娘さんの交友関係は、ほとんど把握されていませんでしたから」

「しかし引き籠っていた訳でもなかったんですよね。小説でしたっけ。そういうものを書いて出版されていたのなら、誰かしらと仕事上の交流はあったはずでしょう。そうした交友関係を当たれば、私と接触していたかどうかなんて分かると思いますけど」

「一応聞いては見ましたが、何せ肝心のスマホが見つかっていません。恐らく現場から犯人が持ち去ったのでしょう。今時はスマホが無ければ生活できない程、頼っている人が多いですからね。逆にそれが紛失していたから、交友関係を調べるのに手間がかかって大変でした」

「それでも通話履歴とかを調べれば、分かるんじゃないですか」

「通話アプリなどを使っていれば、比較的早く分かります。ただ、SNSを使って連絡を取り合っていた場合、相手を特定するまではかなり時間を要します」

 そう聞いてドキリとした。ということは、時間をかければ分かるということだ。そうなると、遅かれ早かれあのDMを送った相手が拓雄だと特定されるに違いない。

 ただその可能性は現場でも思い付いていた。だから本当はもっと早く通報で来たけれど、スマホなどの証拠物件の隠蔽も兼ね、実際に呼び出しを受けた対岸へ移動してから再び戻り、一一〇番したのだ。

 そうすれば事情聴取で説明した通り、偶然あの場所から突き落とされた現場を見たとの供述に矛盾は生じず、DMで呼び出されたのだろうと追及された際は、素直に認めれば済むと判断したのである。

 何故言わなかったのかと問い詰められても、脅迫めいた内容で婚約者に関する件だったから、と答えれば信憑性は高くなるだろう。DMの送り主があの女だと知らなかったことや、面識がない点は事実だ。また事件が起きた現場は、呼び出し場所と異なっていた点も大きい。 

 あくまで見知らぬ相手に呼び出され警戒しつつうろついていたら、たまたま現場近くにいた被害者が別の人物と揉め、突き落とされた瞬間を目撃したという説明なら筋は通る。

 短い時間でそれらの事を頭に浮かべ考え実行できたのは、あらゆるミステリー小説やドラマ、映画などに長年接してきた経験が生きた結果だ。あの夜こそ、拓雄は犯罪者としての才能を持っていたと、自ら気付いた瞬間だった。

 その後頭の中で何度も描いたシナリオ通りに対応すれば、余程想定外な事態が起こらない限り、拓雄への疑いは逸らせる。

 そう自分に言い聞かせ、気を取り直した。

「そうですか。とにかく、谷内田歩さんとあの事件以前にお会いしたことはありません。そんなことを確認する為に、わざわざ来られたんですか」

「いえ、それだけではありません。あの夜、川の反対側にいた綿貫さんは、被害者が突き飛ばされたように見えた。その様子を偶然目撃されたのですよね」

「そうです。それが何か」

「そこから橋を渡って現場に駆け付け、階段の踊り場で被害者が血を流しているところを発見し、救急者を呼んだ。その際の様子をもう一度確認させてください」

「驚いて、階段から落ちたように見えた人が無事か心配になって近づいた時ですよね。向かっている途中で走り去る男らしき姿を見ましたけど、暗かったし遠かったのでよく分からないと、何度もお伝えした通りです」

「その後、どうされましたか」

 その質問で彼らの真の意図を察したが気付かない振りをし、苛立った口調で話を続けた。

「ですから何度も言いましたが、あのビルに駆け寄ったら階段の踊り場に人が倒れているのが見えたので、大丈夫ですかと声をかけながら登りました。そうしたら血だらけで、驚いたんです。慌てましたよ。そこから、」

 拓雄はそこで一旦言葉を切った。不審に思ったのか、阿川がすかさず尋ねて来た。

「どうされましたか」

「あ、いえ、そうだ。救急車を呼ぶ前に、息をしているかどうかを確認するつもりで、顔を覗きこみました。だけど周りが血だまりになっていて怖くなり、靴が汚れると思ったのもあってそれ程近づけなかったのです。ただ心臓が動いているかは分かるかもと思い、被害者の胸のあたりを触りました。でも腰が引けていたし、動揺もしていたからでしょう。判然としなかったので諦め、階段を降りてから一一九番で通報しました」

「被害者の服に触れたのですか」

「すみません。胸を触った訳じゃありませんよ。おかしな真似はしていません。そんなことをもししていたら、感触で被害者が女性だと分かったはずです。恥ずかしながら、怖気(おじけ)づいていたのでしょうね。服だけを掴んだ形になったかもしれません。だから息をしていたかどうか、よく分からなかったのだと思います」

「服を掴んだ。間違いありませんか」

「は、はい。な、何か悪いことをしましたか」

 怯えたように二人の顔を交互に見た。横にいた久利は少し気落ちした表情を見せていたが、阿川は顔色一つ変えずに言った。

「そうですか。ちなみに綿貫さんは、アルコールの消毒液などを持ち歩いていますか。例の感染症の拡大以降、そういう人が増えましたからね」

「持っています。実は少し潔癖症の気がありまして。コロナ禍は厄介でしたが、あれ以降はマスクとかそういうことをしても、余り違和感を持たれなくなった点は助かりました」

「なるほど。申し訳ありませんが、その時お使いになった消毒液をお借り出来ますか」

「え、構いませんけど、」

 そう言って立ち上がり、隣の洋間を開け通勤で使っている鞄の中から取り出し、彼らの元に戻る途中で言った。

「あっ、もしかして、被害者の服からアルコールの成分か何かが出たのですか」

「どうしてそう思うのですか」

「いや、だって、ドラマとか小説でもあるじゃないですか。鑑識とか科捜研とかで被害者の衣服を調べて、犯人の指紋や何かを検出するでしょう。痴漢なんかでも、衣服に付いた微物の鑑定をすれば、本当に触ったかどうか分かるって聞いたことがあります。そうか。逃げた犯人が突き落としたのなら、服にそうした証拠が付着しているかもしれませんよね。私が服を触ったせいで、余計なものを検出してしまったのなら申し訳ありません」

 恐縮した素振りを見せながら、彼らに消毒液を渡して頭を下げた。だが心の中では、舌を出し笑っていた。こうなるだろうとは予想していたからだ。

 通報後に血を流し倒れている姿を見た時、揉めた際に胸倉を掴んだことを思い出した。そこで後に言い逃れをする為、再度服に触れたのである。

 また矛盾が生じないよう現場でも、生死の確認を試みた件を事前にぼんやりとだが供述しておいたのだ。

「いえ、綿貫さんが謝る事はありません。一応あの夜、指紋やDNAの任意提出と靴の裏などの鑑定にご協力頂きましたから。今回はその延長です。現場に残っていた物からそれらや被害者のものを除かなければ、逃げた犯人の足跡などや痕跡を辿れませんから」

 動揺を隠せない久利とは違い、阿川は首を振って淡々とそう言った。

「足跡や衣服から、他に何か検出出来たのですか」

 椅子に腰かけ直してから、そう質問すると彼は曖昧に答えた。

「まあ、それほど多くはありませんけど、それなりに人の出入りがあった場所ですからね。足跡から辿るのは難しいかもしれません」

「そうですか。でも衣服には、私が触ったところ以外で何か出てきたのではないですか」

「すみません。捜査についてはお教えできないので」

「いや、でも、私が触ったのは胸といっても首に近い辺りですよ。もし突き落とされたとしたら、もっと下か肩か腕辺りじゃないですかね。さすがに遠目でどうやったかまではよく見えなかったけれど、人の体を押す時ってそうなりませんか」

「喉元を押す場合もありますが、そんな様子は見られましたか」

「ああ。相撲でいう(のど)()みたいな感じですか。いや、それだと顔が仰け反りますよね。そんな感じでは無かったと思います」

「そうですか」

「すみません。お役に立てないどころか、捜査を混乱させてしまったようで。だから私が被害者と本当に面識がないか、しつこく聞かれたのですか。そんなものが衣服に残っていたら、私が突き落としたと疑われても仕方ありませんね。でもそんなことはしていませんよ。もし私が犯人だったら、すぐに通報なんてせずそのまま逃げていたでしょうから」

 詫びつつ、疑いを晴らす為にそう告げた。これで今日の聴取は終わりだろう。彼らは第一発見者の拓雄を容疑者に挙げていたようだが、これで外れるに違いないと思った。

 しかし阿川は、さらに驚くべきことを口にしたのである。

「ところで被害者の谷内田歩さんとあなたの婚約者である後田和可菜さんが、友人関係にあったことはご存知でしたか」

 拓雄がこれまで描いていた頭の中のシナリオが、この一言で音を立てて崩れ始めた。

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