第六章 恋のはじまりと揺れる未来3
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気づけば、窓の外はすっかり夕暮れだった。カーテンの隙間から差し込む光がオレンジに染まり、部屋の中に長い影を落としている。
「……けっこう進んだな、宿題」
「うん。陽太とやると、ほんと捗る」
悠真はベッドの上で、俺の隣に横になりながらほほ笑んだ。横顔が少し眠たげで、なんだかやけに色っぽい。
さっきまでノートと教科書にかじりついてたはずなのに、いつの間にか手は止まり、俺たちはふたりでベッドに横になり、ぼんやりと天井を見上げていた。
繋いだ手はまだそのまま。指を絡ませながら、少しも離れようとしない。時折、小指だけをゆるく擦り合わせると、悠真が恥ずかしそうに笑う。その仕草がかわいすぎて、胸がきゅうっとなった。
「悠真このまま、もうちょっとだけ、こうしててもいいか?」
俺がそう聞くと、悠真は小さく頷いた。
「いいよ……俺も陽太を帰したくないって思ってた」
束縛を感じさせる悠真のセリフに、心臓が跳ねる。けれどそれは不安じゃない。嬉しくて愛しくて、どうしようもなく甘いやつだ。
でも――。
「……って、言ってる場合じゃないかも」
「え?」
「時計見てみろよ。もう五時半」
「……やば」
悠真が一気に跳ね起きた。その勢いで、つないだ手がふわっと解ける。けど、まだ熱が残ってた。
「そろそろ、朱音さんが帰ってくる時間だよな?」
「そう。ていうか帰って来ていて、リビングにいるかも……」
悠真がドアの外に耳を澄ます。その姿はまるで、ふたりで作戦行動してるみたいでなんか楽しかった。
「玄関の音、まだしてない。今のうちに!」
「了解っ!」
俺はそっと立ち上がり、荷物を肩にかける。足音を殺して階段を下りるふたり。声を出さないように、顔を見合わせて小さく笑った。
だけど玄関の影に、誰かの気配が確実にあった。
「悠真~、そこにいるの?」
「っ……姉ちゃんっ!」
悠真が息を飲んで俺を見た。どうする? って目で訴えかけてくる。けど俺は、逆にちょっと吹き出してしまった。
「階段の下、向こう側からは見えないよな」
「……うん」
「じゃあ、あとでちゃんと“家を出た風”に挨拶してくれれば問題ない」
俺は小声で言って、指先で悠真の手を掴んだ。ほんの数秒だけ。さっきまで握ってた手を、最後にもう一度ぎゅっとする。
それから、そっと指を離して――靴音を立てずに玄関の戸を開けた。ドアの隙間から夕焼けが差し込む。空はすっかり茜色で、さっきまでのふたりの時間が夕焼けに包まれて、そっと背中を押されるみたいに終わっていった。
「じゃあ、また連絡する」
「うん、今日は来てくれてありがとう」
階段の上の影から、悠真が小さな声でそう言った。俺は笑って手を振るフリをして、戸をそっと閉めた。
でも胸の奥では、もう次に悠真に会える瞬間のことばかりが、あたたかく渦を巻いてる。
(……まだまだ悠真と過ごす“ふたりの夏”はこれからだ)
***
(んー……やけ静かね。この静けさ、逆に怪しいじゃないの)
冷蔵庫から取り出したグレープフルーツジュースのパックを片手に、リビングへ戻った。
私が帰宅したとき、玄関に見慣れないスポーツシューズが一足あった。それなのに家からは、人のいる気配がまったくしない。悠真は出かけずに、夏休みの宿題をするって言ってたのに。
ジュースを飲みながら、リビングの様子をチェックする。テーブルの上にはふたり分のグラス。ストローは片方、まだ濡れてる。 そのストローの口元が、ちょっと凹んでる感じが悠真のじゃない。そしてソファのクッションが、微妙に沈んでいるあたりも。
(ふたりで仲良く並んで座ってたな、これは……)
階段を上がる音は聞こえない。代わりに、キッチン横の壁越しから――。
「姉ちゃん? ジュース冷やしてたの、飲んでもいい?」
しれっとした声で呼びかけてきた弟に、私はニヤリと笑ってから答えた。
「どーぞー。というかさぁ……」
わざとゆっくり話す。
「陽太くん、何時に帰ったのー?」
しばらく間が空く。さっきまでの即レスとは明らかに違う。階段の途中で固まってるであろう弟の気配に、こっちもわざと沈黙で返す。
「……さっき」
もごもごとした声を出しながら、リビングに顔を出す悠真。あからさま過ぎる弟の動揺に、笑いを隠すのに必死になった。
「ふーん?」
私はストローでジュースを吸う音を立てながら、ソファにどかっと座る。
「別にいいけどね?」
そう、なにも問題はない。普通に仲のいい友達が遊びに来て、宿題をして帰っただけなんだから。ほんとにそれだけなら。
でもね――。
「弟の顔がちょっとだけ赤いとこも、クッションのへこみも、ストローの濡れ具合も、あと……うふふっ」
ふと、自分のスマホを見てニヤッと笑う。
(……駅前の防犯カメラの位置、全部把握している姉としては、“こっそり帰らせた感”が微妙に甘いんだよねぇ)
言葉に出す気はない。でも、弟には伝わってると思う。明日あたり、アイスでも買ってこようとするだろうな。今みたいな動揺した顔で。
でもまあ。
(――悠真が笑ってるなら、それでいいか)
ストローをくるくる回しながら、私はテレビのリモコンを取った。
弟が“ちゃんと好きになった人”を大事にしてるなら、それだけで姉としては、もうなにも言うことはない。




