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届かぬ調べに、心が響き合い  作者: 相沢蒼依


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第六章 恋のはじまりと揺れる未来

***


 夏だというのに、朝の空気は少しだけ肌寒くて、どこか心を鎮めてくれるようだった。蝉の声が遠くで鳴いているけど、まだ街は目覚めきっていない。


 今日は陽太が家に来て、一緒に夏休みの宿題を進める。彼を駅まで迎えに行くために、玄関先でスニーカーの紐を結び直しながら小さく息をはいた。


(陽太、もう電車に乗ったかな……)


 彼を好きになってからは、頭の中は陽太のことばかり。気がつけば待ち合わせ場所に到着していて、何度目かの確認で駅前の時計を見る。あと五分ほどで電車が到着する時間だった。


 もうすぐやって来ると、胸を高鳴らせたそのときだった。


「悠くん」


 聞き慣れた声が、背後から静かに呼びかけてきた。振り返ると駅前の街路樹の影に、見覚えのあるシルエットが立っていた。


「智くん――」


 黒いシャツに黒いパンツ。一見なんの変哲もない服装なのに、どこか空気が沈んで見える。まるで智くんが影を引きずっているように、俺の目に映った。


 智くんは笑っていた。けれどその目は、まるでどこか違うところを見ているようだった。


「智くん……どうしてここに」

「どうしてだと思う?」


 問い返す声はすごく柔らかいのに、皮膚の上にひりつくような温度を持っていた。


「会いたかったんだよ、悠くん。修学旅行のときは……あんなふうに終わっちゃってさ」


 智くんの声を、少し距離を取って聞きながらゆっくりと答える。


「あれが、俺の答えだったんだ。今も変わらない」

「俺、あれからずっと考えた。なんであんなに悠くんに執着してたのか、なんで離れられなかったのか。でもね、やっとわかったんだ」


 智くんは一歩だけ、俺に近づいた。耳に聞こえる声が低くなる。


「俺さ、ただ“戻りたかった”だけなんだ。悠くんと笑ってたあの頃に。今も……まだ好きなんだよ」


 その言葉を、俺は黙って受け止めた。心臓が小さく鳴る。でも、それは動揺じゃない。目を伏せて、小さく息を吸って――それから、まっすぐに智くんを見つめる。


「智くんありがとう。でも俺はもう、あの頃には戻らない」


 自分でも、はっきり言葉にできることに内心驚いた。きっと心に想う人ができると、自然と強くなれるのかもしれないな。


「悠くん……」

「戻りたくない。今の俺は“今の時間”を大事にしたい人がいるから」

「……そっか。もしかして、それって西野くんなのか?」


 俺は迷うことなく、しっかりと首を縦に振った。


「俺、陽太のことが――」


 言いかけたところで、ちょうど電車の音が遠くから聞こえてきた。駅の改札の向こうに、見慣れた後ろ姿が現れる。グレーのTシャツの裾を軽く揺らしながら、こちらへ向かってくるその人を見て、自然と口角が上がる。


「うん、陽太が好きだよ」


 智くんにというより、自分自身に向かって言った気がした。迷いを捨てたその言葉が、胸の奥をふっと軽くしてくれる。


 智くんは、黙ったまま立ち尽くしていた。風が吹き、彼の髪がふわりと揺れる。


「……そう、なんだ。言うんだね、ちゃんと」


 その目に、僅かに笑みが戻る。だけど、切ないほどに静かな笑みだった。


「わかった。じゃあ、もう追いかけない。悠くんが俺を見ないなら、俺も無理に振り向かせたりしない」

「ありがとう、智くん。本当にありがとう」

「バイバイ、悠くん……元気で」


 智くんは手を振らずに、背を向けてゆっくり去っていく。その背中が小さくなっていくのを、黙ったまましばらく見送った。


「悠真ー!」


 振り返ると、陽太が改札を抜けて駆け寄ってくる。気づけば、胸の奥にあった冷たいものが、少しずつ溶けていくのがわかった。


「ごめん、待たせた?」

「ううん、ちょうど来たとこだよ」


 自然に並んで歩き出すと、指先が少しだけ触れた。でも、もう迷わない。


(――ちゃんと手を伸ばせば、陽太に届くんだ)


 ふたりの足音が並ぶたび、その確かさが胸に積もっていく。もう、過去に縛られなくていい。


 陽太の隣を歩く足取りは、いつもよりずっと軽かった。

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