第六章 恋のはじまりと揺れる未来20
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昼下がり、窓から差し込む光が机の上のプリントを照らしていた。悠真の部屋に並んで座り、黙々と夏休みの宿題に向かっていた――はずだった。
だが視線を横にやると、悠真のペン先は止まりがちで、俺の横顔ばかりを盗み見ている。そんなことに気づかないふりをして数式を書き込んでいると突然、ドアが勢いよく開いた。
「なにこれ、勉強デート?」
ひょいと顔を出したのは、悠真の姉・朱音さんだった。鮮やかな色のワンピース姿で、腕を組みながら俺たちに視線を注いで、ニヤニヤしている。
「ちょ、姉ちゃん! ノックして!」
「ごめーん、つい。だってふたり並んで座ってるの、めっちゃ甘酸っぱい雰囲気だったから」
悠真が慌てふためきながら赤くなる。俺も思わずペンを握り直した。
「……別に、普通に宿題してるだけです」
「はいはい、そういうことにしといてあげるね」
朱音さんは勝手に部屋に入ってきて、俺たちの机をのぞき込んだかと思うと、両手をぱんっと叩いた。
「よし、特別講義。『恋愛初心者向け・基礎レッスン』を開講しまーす」
「はぁっ!?」
「姉ちゃん、そういうの、俺いらないから!」
俺と悠真が同時に声を上げるが、朱音さんはお構いなしだった。
「まずは手。ほら、自然に繋いでみなさいよ。恋人同士っていうのは、勉強中でもさりげなく触れ合えるもんなの」
いきなりそんなことを言われても、悠真は真っ赤になって俺をちらちら見るだけ。俺も動揺しながら、机の下でそっと指先を伸ばす。触れた瞬間、悠真がびくっと肩を震わせた。
(机の下で繋いだだけなのに……心臓が飛び出しそうだ)
「……ほら、やっぱり意識してる」
朱音さんは愉快そうに笑う。
「次。お互いを褒められる? 『今日の髪、かっこいいね』とか『ノートまとめるの上手だね』とか。恋人はちゃんと口にしないと伝わらないの」
「……っ」
悠真がしどろもどろになって俺を見ながら、勇気を振り絞ったように小さく言った。
「よ、陽太は……いつも頼りがいがあって……すごい」
その一言だけで、心臓が大きく跳ねた。俺は思わず顔を逸らす。
(正面からそんなこと言われたら……もう勉強どころじゃねぇ)
「うわー初々しい! これは重症だわ」
ひとしきり茶化したあと、朱音さんは立ち上がり、俺の肩を軽く叩いた。
「いい? 弟を泣かせたら許さないからね。まず初級は合格。じゃ、中級編いきまーす」
朱音さんはぱんと手を打って、机の上のプリントを端に寄せると、クッションをひとつ抱えて戻ってきた。俺と悠真は背筋を伸ばす。心臓の音がやけに大きい。
「中級の柱は三つ。合図・距離・角度。まず“合図”から」
朱音さんが俺たちの手を見比べる。
「ふたりとも手を繋いで。――そう。でね、親指トン1回=ストップ、親指トントン2回=ゆっくり、ぎゅっと握り返す=OK。言葉が出ないときの合図。覚えた?」
「お、おう」「う、うん」
「次は“距離”。このクッションは“保護者”。ここから30センチ→15センチ→10センチ→5センチって、ゆっくり距離を詰める。そのたびに目を合わせて、合図を確認。息は止めない。吸って、吐いて。――はい、スタート」
俺と悠真は向かい合う。最初の30センチは余裕。15センチで視界にまつ毛が入ってきて、胸が跳ねる。10センチで互いの呼吸が触れ合い、思わず親指が“二回”トントンで速度を落とす。5センチ――鼻先がかすかに触れそうになる。
(あとほんの少し。けど、この寸止めがたまらなく甘く感じる)
「いいじゃん、上手。そこで止まる。その位置が“甘い会話ゾーン”。ここで『見てもいい?』とか『緊張してる?』とか、短くて優しい言葉を交わすの」
悠真が小さく囁く。
「……陽太、緊張してる?」
「当たり前だろ……でも嫌じゃない」
自然と指先がぎゅっと確かめ合う。朱音さんは満足げに頷いた。
「最後は“角度”。まっすぐ突っ込むとぶつかるから、顔は少しだけ斜め、目線は“目→唇→目”の順で戻す。視線が行ったきりにならないの、ここ大事」
俺は言われたとおりに悠真の瞳を見て、ほんの一瞬だけ唇に視線を落とし、また瞳へ戻す。悠真の喉が、こくりと鳴った。
「仕上げに“ゼロ接触のハグ”。おでこコツンまで。――いってみよ」
距離5センチから、そっと額だけを合わせると熱が移る。目を閉じたら、鼓動と呼吸が重なるのがわかった。合図を忘れず、親指で“二回”。速度はゆっくり、心は近く。
「はい、ストップ!」
朱音さんがひょいと、クッションを差し入れてきた。「今日はここまで。いい? これ以上は“保護者なし”じゃ進まない約束」
俺と悠真は、はっと息を吐く。寸前の甘さだけで、足元が少しふらついた。
「復習いくよ。今の流れを言葉で再現してみて。“合図→距離→角度→おでこ”。言葉にできると、いつでも安全に戻れるから」
「合図……親指でストップ、スロー、OK」「距離は30、15、10、5……」「角度は、少し斜め。目→唇→目」「最後に、おでこ」
「はい、満点!」
朱音さんはにこっと笑って、声を落とす。
「それから、ふたりは“香りの事情”があるでしょ。窓を少し開ける、扇風機を首振り、ミント系のガム。ドキドキが強すぎたら“合図一回”+“深呼吸三回”でクールダウン。いいね?」
悠真が真剣に頷き、俺も小さく「おう」と返す。
「では宿題。“言われて嬉しい一言”を三つメモ。次会うときに、最初の“距離15センチゾーン”で交換ね」
「……え、またあるの?」
「もちろん」
朱音さんはウィンクして、ドアへ向かった。
「弟を大事にしてくれてありがと、陽太くん。――ふたりとも、ちゃんと勉強もしなさいよ」
ドアが閉まると、部屋に静けさが戻る。けれど、さっきの5センチの熱が空気に残っていて、机に戻っても手が少し震えた。
「……陽太」
「ん?」
「さっきの“二回”。覚えててくれて、嬉しかった」
悠真が照れた声で言う。俺は笑って、指先を“ぎゅっ”と握り返す。OKの合図――言葉よりまっすぐに通じた。
「……よし、まずは宿題からな」
ふたりでプリントを開く。おでこに残る温度と、合図の安心を胸にしまいながら。
すると出てったハズの朱音さんがいきなり戻ってきて、ドアをバンと大きく開けた。その物音に、悠真と一緒に振り返る。
「忘れ物! 上級編を置き土産にしておくね」
俺と悠真が同時に顔を上げると、朱音さんは指を三本立てた。
「上級は“場所・時間・逃げ道”の三点セット。これをちゃんと準備できる人は、安心して恋愛できるんだよ」
(……まだ続くのかよ。でも、不思議と嫌じゃない)
「場所……?」
俺と悠真に関する大事なことなので、聞き逃さないようにちゃんと耳を傾ける。
「そう。例えば部屋。カーテンを半分だけ開けておく。外の光や音が入ると、ふたりだけの世界に“ブレーキ”がかかるでしょ。逆に全部閉めきると、勢いがつきすぎるの」
俺と悠真は同時に頷く。確かに、今日の部屋の空気はどこか濃かった。
「次、時間。長時間ベッタリはおすすめしない。一番盛り上がっても、区切りを作る。夕方のチャイムとか、部活の時間とか。時計を味方につけなさい」
朱音さんは指をくるりと回して、三本目を立てる。
「最後に逃げ道。どっちかが“もうダメかも”って思ったら、すぐに距離を取れる工夫をしておく。ベッドに座るなら出口側は空ける、机越しに向き合うなら片方はイスを引けるようにしておく。強制終了できる状態を作ってから近づく。これが一番大事」
悠真が小さく呟く。
「……それなら、俺でも安心していられるかも」
朱音さんはにっこり微笑んだ。
「そういうこと。ふたりとも初心者なんだから、ルールを作った方がずっと甘くなれる。ルールなしで突っ走ると、結局苦しくなるだけだからね」
俺は思わず真剣にメモをとっていた。悠真は横で笑いを堪えきれずに覗き込む。
「陽太、まじめすぎ」
「バカにすんなよ。大事だろ」
「うん、大事。……ありがと、姉ちゃん」
「どういたしまして。かわいい弟と、その彼氏をよろしくってやつだね」
そう言って、ようやく本当に部屋を出ていった。
残された空気は、さっきまでより落ち着いているはずなのに――おでこに残る熱と、朱音さんの“上級”の言葉が混ざって、かえって胸がじんわり火照っていく。
悠真がぼそりと囁いた。
「ねぇ……“おでこコツン”、もう一回だけしていい?」
俺は笑って頷き、額を寄せる。静かな触れ合いの中で、朱音さんの言葉が確かに胸に残っていた。
(大丈夫。ルールを作れば、もっと甘くなれる――)




