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届かぬ調べに、心が響き合い  作者: 相沢蒼依


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第六章 恋のはじまりと揺れる未来11

 玄関のドアが閉まる音と共に、家の中は一瞬、静寂に包まれた。息を整えようとするけれど、まだ悠真の吐息が首筋に残っているみたいで、心臓まで震わされている気がした。


 互いに視線を合わせることもできず、ベッドから上半身を起こして、肩が触れ合う距離にいる。手は無意識に絡み合い、唇の感覚が頭から離れない。


「あぁ、もう……」


 小さく呟いた声が、思わず耳元で震える。悠真も同じように小さく吐息を零して、顔をほんの少し逸らす。


 そんな緊張と余韻の中、下から大きな声がかけられる。


「ただいま!」


 父さんの声だった。リモートワークのために早く帰宅したらしい。


 現実に引き戻され、俺たちは互いの手をそっと離す。悠真は頬を赤らめたままベッドから机に向かい、腰をずらして座った。俺も負けじと深呼吸をしてフェロモンを微調整し、椅子に腰かけてからシャーペンを握り直す。


 けれど、まだ胸の奥ではあの熱がくすぶり続けている。肩の余韻、指先の余韻、吐息の余韻――すべてが小さな波となって心臓に響き、頭の中の理性と甘い記憶がせめぎ合う。


 静寂が続く中、ふたり並んで机に向かう。目の前には英語プリント。


(――あんなことがあったあとで、普通に宿題をはじめられるのか?)


 でも悠真が隣にいるだけで、なにもかもが少しだけ、いつもより温かく甘く感じられた。


 プリントを開き、シャーペンを手にする。文字を追おうとするけれど、目の端に映る悠真の横顔に、つい意識が向いてしまう。肩の近くに残る熱、指先に残る余韻――それだけで胸がじんわり熱くなる。


「……ん?」


 悠真が小さな声で俺を覗き込む。自然と視線が合って、互いにほんの一瞬だけほほ笑む。それだけのことなのに、心臓が跳ねる。プリントの文字が頭に入るより先に、指先が偶然触れる。そのたびに、机の下でもっと握りたくなる衝動に駆られた。悠真も同じように小さく息を吐き、机の下で膝を近づけてくる。


「……陽太、ここの答え、こうでいいのかな?」

「うん、そうだと思う」


 教える振りをしながらも肩の温もり、指先の感触に意識が持っていかれる。悠真が少し身を寄せてくると、思わず俺も無意識に体を傾けた。


 互いに気づかれないように小さく触れる指先や、ほんの僅かな肩の重なり。それだけで、ふたりの間に甘い空気がふわりと漂う。


 言葉に出さずとも、余韻と触れ合いが確かに心を満たしてくれる。宿題をやるために並んで座っているはずなのに、ふたりの世界だけが、そっと時間をゆっくり進めているみたいだった。


「よし、ここまでできたね」


 悠真の声に、はっと我に返る。小さく笑いながら、お互いの手を軽く握り直す。甘さの余韻をほんの少しだけ胸に残したまま、次の問題に向かう。


 宿題をやるはずなのに、心は悠真の温もりでいっぱいだった。


 机に向かって集中しようとするけれど、まだ肩や指先に残る悠真の温もりが気になって仕方ない。そんなとき、リビングから父さんの声が響く。


「おーい陽太、ちょっといいか?」


 呼ばれた瞬間、頭では理解しても下半身の事情が邪魔をして、すぐに降りられない。心臓はドキドキ、顔は熱く、どうにも動けない。


「……あ、ああ……ちょっと待って、今すぐ――」


 声だけは平静を装ったけれど、もし父さんが上がってきたら……と考えるだけで冷や汗が滲む。その様子を見ていた悠真が、すっと立ち上がる。


「じゃあ、俺が行ってくるよ」


 小さな声で言われると、なんだか胸がぎゅっとなる。普段は俺が守ってやりたいと思ってるのに、こういうときは逆に支えられてる。


「悪い……頼む」


 俺は肩越しに頷くだけで、なにもできなかった。悠真は軽く笑ってから、階段を下りていく。


 残された部屋には、さっきまでの甘い雰囲気がふわりと漂って、俺の心臓はまだ高鳴ったまま。プリントに向かおうとするけれど、どうしても悠真が戻るまで落ち着かない。


 ――代わりに行ってくれるだけで、なんだか嬉しいのは不思議な感覚だった。



***


 階段を一段一段降りながら公園でのことや、今朝の陽太の浮かれっぷりが頭に浮かぶ。俺に逢えて嬉しそうにふわふわした笑顔、手を握ったときの鼓動、顔を近づけたときの熱――全部が胸の奥で甘く反響して、自然と足取りが緩む。


(……昨日も今日も陽太、ほんとにかわいいな)


 けれど階下から聞こえた陽太のお父さんの声を思い出すと、胸の奥が少しだけきゅっと引き締まる。陽太がすぐに降りられなかった事情も、俺にはわかっている。無理に慌てさせたくない――そんな気持ちが、自然と自分を落ち着かせていた。


 思いきってリビングの扉を開けると、陽太のお父さんがテーブルの前で書類を片手にこちらを見た。俺と目が合った瞬間、ほんの一瞬だけなにかを見抜くような光がその瞳に宿る。


 フェロモンを感知できない俺でも、あのとき部屋の空気に残る濃度が変わったことだけは、はっきり感じ取れた。けれど陽太のお父さんは、なにも言わない。ただ穏やかに笑みを浮かべるだけ。


「悠真くん、陽太の代わりに来てくれてありがとう」


 その言葉に、胸がふっと緩む。軽く会釈すると、陽太のお父さんはすぐに話題を切り替えた。


「今日のお昼どうする? ピザでも頼もうか」


 その一言に、俺も思わず笑みを返す。


「いいですね。それなら俺も、陽太と一緒に食べます」


 陽太のお父さんは軽く頷き、「じゃあ悠真くん、そのこと陽太に伝えてくれないか」と声をかける。俺は「はい」と答えてリビングをあとにした。


 階段を戻りながら胸の奥にほんの少し残る緊張を、甘い期待で上書きしていった。


(……戻ったら、またふたりで宿題だ。楽しみだな)


 そう思いつつ、ふたたび部屋へ足を踏み入れる。

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