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【短編版】愛のない契約結婚ですが、推しができたので問題ありません!〜不運令嬢は推しに溺愛される〜




「どうして、そんなに泥まみれなんだい? 匂いもひどいし……我がルードリク家への侮辱だろうか」


 ルミティ・アルバンカ伯爵令嬢は、泥まみれの顔を拭い頭を下げた。アルバンカ伯爵家の次女である彼女とルードリク伯爵家次男・ミドとの婚約に向けた顔合わせの日。一時間弱の遅刻をして姿を現した婚約者候補にミドは呆れてため息をついた。


「申し訳ありません。肥溜めに落ちてしまって」

「肥溜め? 確かにアルバンカ伯爵家の邸宅はクラス王国の中でも広い農村地域を領地としているが……貴女はこの大事な日に肥溜めのそばで何を?」

「そ、それは……イヤリングを道に落としてしまって拾おうと屈んだらそのまま。連絡をとお願いもしたのですけど、馬車の馬が動かなかったみたいでお待たせしてしまって」

 まるで童話でも聞いているかのようにミドとその両親は呆れた表情を見せる。ルミティは真実を話しているが、あまりにも不運すぎるその出来事は信じてはもらえないようだった。


「我がルードリク家のミドは次男で後継ぎでもない。貴女にとって納得のいかない婚約だからこのような嘘をついてまで断らせようとなさったんでしょう? 実際、アルバンカ伯爵はこられていないですしね」

「そんなつもりは……父は公爵様にお呼び出しをされたと」

「僕たちにご縁はなさそうですね、申し訳ありません」


 ミドの言葉にルミティは「またか」と肩を落とした。ルミティは幼い頃から恋愛をしようとすると不運に見舞われる特異体質であった。


「初等部で好きになったカール。仲良くしていただいていたのに、たまたまお母様におねしょのことで怒られているところを見られてしまって失恋。それからしばらく私のあだ名はおねしょ令嬢」

 馬車に乗り込み、ルミティは独り言を続ける。

「中等部で好きになったハートク。同じ伯爵家で婚約もなんてお話が進むほどだったのに、突然、第五王女様が彼を婚約者に指名。王宮の学園に転校」

 御者のリックが馬車を動かした。蹄の心地よい音と共にゆっくりと体が揺れる。綺麗な街並みを見ながらルミティは息を深く吐いた。

「それからはこうして、ご婚約のお顔合わせのたびに事故に見舞われてお断り三昧。けれど、お相手に何もなかっただけよかったわ」


 ルミティは前々回のお見合い相手がお顔合わせ当日に収賄容疑で逮捕されたことを思い出してゾッとした。


「やっぱり、家族の中で私だけが劣等生だからこうなってしまうのかしら」


 アルバンカ伯爵家は、優秀な人間が多い。父は王宮からも信頼が熱い学者でその功績によってさまざまな機関を任されている。母は王家の遠縁の出身でまさに良妻賢母という言葉がふさわしいような女性だ。兄・長男ロビンは父譲りの賢さと、寄宿学校を主席で卒業し精鋭騎士となるほどの武の才能を持っている。姉・長女のニナは、聡明で美しく、公爵家に嫁いだあとも王宮で学者として働いている。末妹・三女のマロンは、幼い頃から愛嬌たっぷりで誰にでも愛され、広いアルバンカ伯爵家の領地で一番美しい女性だと言われるほどの美女。


 ルミティは乾いた泥で汚れた薄灰色の髪を手櫛で解きほぐしながらため息をついた。勉強もだめ、運動もだめ、愛嬌はあっても相手を好きになって仕舞えば不運に見舞われて相手から嫌われる結果になってしまう。そんな彼女は「不運令嬢」と噂されるようになっていた。



***


「お姉さまったら、またお見合いだめにしたの?」


 美しい金色の髪に丸くて大きくて可愛らしい緑の瞳。白いレースを繊細にあしらったパープルのドレスをきたマロンは、哀れみを浮かべた表情で向かい側に座っているルミティに言った。

 アルバンカ家の晩餐は、家族揃って。父と母、兄のロビンとその婚約者であるリリー義姉。そして末妹のマロン。


「えぇ、また我が家の顔に泥を塗るようなこと……申し訳ありません」


 マロンは眉を段違いにしてそれから口の端で笑うと


「この際、出家でもなさったら?」


 と言い放った。そこに、長男のロビンが割って入る。


「マロン、言い過ぎだぞ。ルミティのことだ、いつも通り不運に見舞われてしまったんだろう。それに、度量のない殿方だったのだろう。顔合わせに遅れたくらい」


「ロビンお兄様、冗談ですわ。マロンのことを怒らないで」


 ルミティを庇ったロビンにマロンがきゅるきゅると可愛らしい視線を向けた。ロビンは呆れたようにため息をつくとそれ以上マロンを叱ることも、ルミティを擁護することもせず話題を変えるように婚約者のリリーに食事の感想を聞いた。


「とはいえ、そろそろルミティも生涯を共にする相手を見つけなければならない歳。昔からの不運は仕方ないとしても……貴方、何か良いお話はないのかしら?」


 アルバンカ伯爵夫人は深刻そうに首を捻る。そんな妻をアルバンカ伯爵は愛おしそうに見つめたあと、出来の悪い娘・ルミティも同じように優しく見つめた。


「お父様、申し訳ございません」

「いいや、ルミティ。君はお嫁に行きたいかい?」

「はい。わがままは言いません。お兄様やお姉様のように我がアルバンカ家のお役に立てるように……」

「ルミティ、お父さんに任せない。ほら、せっかくのシチューが冷めてしまうよ」


 アルバンカ伯爵は優しくそういうと、テーブルの上のパンをちぎってシチューにつけて食べる。「まぁあなた」とマナーの悪さを妻に注意され、伯爵はおどけてみせる。暗い雰囲気だった食卓が少しだけ和やかになって、ルミティもやっと食事に口をつけた。

 

「実はね、お父さんがずっと断っていたお見合い話があってね」


「あら、あなた。そんな話してくださらなかったじゃない。どこのお家の方なのかしら?」


 伯爵夫人は手を止めて興味深そうに少し前屈みになる。しかし、ルミティは伯爵が少し苦い顔をしていたのでその話があまり良いものでないことを察していた。


「ボルドーグ公爵家のご長男・ヴェルズ殿とのご婚約の話だ」


 ボルドーグの名前が出た途端、ロビンとリリーが顔を見合わせた。そして、ロビンが


「お父様、今ヴェルズと言いましたか?」


「あぁ。そうだよ。君と同じ寄宿学校に通っていたお方だ」


「あら、話が見えないわ。ロビン、お母様に説明して」


「ヴェルズは……あまり評判がよくない男でした。数々の御令嬢との婚約をだめにしているとか。僕も何度か話したことがありますがかなり気難しい人で。ルミティとうまくいくかどうか」


 伯爵夫人はそれを聞いた上で首を傾げた。


「でも、どうして数々の御令嬢とのご婚約をお断りした公爵がルミティに?」


「それが、理由はわからない。ただ、随分前にお話をいただいてね。本人の意思に任せるから返事は急がないなんておっしゃるんだ。不思議だろう? 社交界にもほとんど参加されないし、同級生のロビンに聞けばあまり良い話が聞けなかったから返事を先延ばしにしていたんだよ」


 出来損ないだとしても娘を愛している伯爵は「どうしようか」と困ったように眉を下げる。年頃なのに婚約すらできない娘を救ってあげたい気持ちと、評判の悪い男になんて娘をやりたくない気持ちが拮抗しているんだろう。


「でも、お姉さまったらまたお顔合わせでだめにするんじゃなくて? 公爵様だなんてとてもお偉い立場の殿方に失礼なことをしてしまったらと考えると……。お父様、マロンはまだご婚約者のいない身。お姉さまのせいで我がアルバンカ家に傷かついてもしもと考えたら……」


 マロンがルミティに失礼な発言をしたが、ルミティの不運体質でこれまで辛酸を舐めさせられてきた家族たちは否定をしなかった。それを見て、ルミティは涙をこらえる。しかし、伯爵はマロンに反論してみせた。


「それがね、このご婚約はね。『お顔合わせなし、即結婚可』というのが前提条件なんだ。今まで、ルミティは不運にもお顔合わせをまともにできたことがなかっただろう? けれど、これに限ってはお顔合わせがなく、相手方はルミティが良い言えば良いと。そうおっしゃっているんだ」


 まるで、年老いた上級貴族が若い後妻を探すときのような条件だ。とルミティは思った。この国で暮らす多くの御令嬢たちにとって「恋愛結婚」に近い結婚が憧れとなっている。爵位の近いご婚約などはお顔合わせから逢瀬を重ねて相性を確かめたりもする。もちろん、昔から主流である家同士での政略結婚や生まれてすぐに許婚となるような例もあるが。

 何よりもこのような条件は爵位の高い方が低い方へ出す条件では考えられない。普通は逆である。となれば、ボルドーグ公爵は訳ありと考えるのが妥当なのだ。

 


「ルミティ、どうなの?」


 伯爵夫人のその質問は「はい」と答えるほかないようにルミティは思った。お顔合わせがうまくいかない彼女にとって『お顔合わせなし、即結婚可』というのはあまりにも好条件であったし、何よりも公爵という格上の家に嫁げるのは名誉なことだからだ。

 ルミティは食卓につく自身の家族を見た。かわいそうな人を見るような目でルミティを見つめる兄夫妻と哀れみの中に嘲笑の混ざったような表情の末妹。母である伯爵夫人は少しの威圧感と娘に対する厳しさを含んだ視線を、父である伯爵はルミティの解答を待っていた。


(あぁ、やっぱり私を厄介払いしたいんだわ。お父様もお優しいけれど断らずに持っていたということは私を追い出す最後の手段としてとっておいたんだわ)


「……ます」


「え? ルミティ、どうするんだい?」


 伯爵が優しく聞きなおした。


「お受け……します」


 こうして、ルミティは大きな不安を抱えながらも『お顔合わせなし、即結婚可』の条件でボルドーグ家に嫁ぐことになったのだった。



***



 ボルドーグ家の邸宅はクラス王国の都市部に位置し、アルバンカ家の領地とは馬車で数時間の距離であった。貴族街の中でも一際大きく豪華な邸宅に、ルミティは驚いていた。


(私、何事もなく無事に辿り着いたんだわ)


 馬車を降りて、玄関ロビーへと案内される。執事のブルーノはシックなシルバーブロンドをオールバックに整えた老紳士。何人かのメイドを紹介したのち、ルミティのために用意された部屋へと彼女を案内した。豪華な赤絨毯が敷かれたロビー、大理石の廊下には額縁に入った絵画や高そうなアンティークが並んでいた。ブルーノによると、先代のボルドーグ公爵のコレクションで価値をつけるのが難しいほど貴重なものが並んでいるらしい。


「あの、ブルーノさん」


「奥様、ブルーノで構いません」


「ブルーノ。旦那様はどちらに? ご挨拶をと……」


 ルミティがそういうとブルーノは胸の内ポケットから手紙を取り出してルミティに渡した。


「旦那様から、こちらを奥様に渡すようにと。それでは失礼いたします。何かございましたら私か使用人をお呼びください」


 ブルーノが部屋の扉をゆっくりと閉めた。案内された部屋は可愛らしい小鳥のアンティークや小花柄の陶磁器が飾られている。星をあしらった小さなハープや木彫りの妖精がたたずむサイドデスク、本棚には童話やラブストーリーメインでずらっと本が揃えられている。桃色のレースをあしらった天蓋付きの大きなベッドには、肌触りの良さそうな寝具が並び、奥には煌びやかなドレッサー。


(まるで、お一人で眠るような部屋だわ)


 ルミティは部屋に疑問を抱きながらも、猫足のチェアに腰掛けて受け取った手紙を読み始めた。


『ミルティ嬢へ。このような挨拶となり大変申し訳ない。ただ、君に伝えるべきことはただ一つ。我々の結婚は愛のない契約結婚として受け入れてほしい。僕が大きな問題を解決するまでは、君に会うことも叶わないだろう。君がいるその邸宅は好きに使ってくれて構わないし、僕との婚姻を続けてくれるのであれば何をしてくれてもいい。それではお元気で ヴェルズ・ボルドーグ』


 手紙の最後の方は走り書きになっていた。封筒の中にはダイヤモンドをあしらった指輪が入れられていて、それはルミティにぴったりのサイズ。お飾りの妻として左手の薬指にしておけということなのだろう。

 ルミティはガックリと肩を落とす。無事この家に着いて執事のブルーノも使用人たちも優しくて、もしかしたら「不運」なんて嘘だったのかもしれないと彼女は思っていたのに、この手紙を読んだ彼女は自分が自惚れていたのだと強く思った。


「公爵様は愛などに興味のないお方だったんだわ。名前だけの妻が欲しかったんだわ。私はここで誰にも愛されることなく、朽ちていくのね」


 ルミティの瞳から涙が溢れる。今までに経験したどんな「不運」よりも辛い結婚初夜を一人きりで過ごすことになった。



*** Side ??? ***


「無事、到着されました」

「様子は?」

「……——で、以上ありませんでした」

「なるほど、こちらの推測は正しかったと」

「おそらく。……様の計画を遂行しても問題ないかと」

「わかった。明日から計画開始だ」

「では……」



*** *** *** ***



「奥様 朝食のご準備が整いました」


 朝、部屋の前で声がして眠れなかったルミティは目を擦った。いつも眠っていた実家のベッドとは風景が違って脳がおかしな感覚になる。横になっていたのに体の疲れは取れていないし、泣いていたせいか目元が少し赤く腫れていた。


「今日はお部屋でいただいてもいいでしょうか」


「かしこまりました。お持ちいたしますね」


 ブルーノの優しい声に安心して、それからルミティはベッドから起き上がるとバルコニーにつながるお大きな窓を開け、朝の光を浴びた。都市部にある大きな時計塔の鐘の音。庭にある大きな噴水からは爽やかな水が跳ねる音が響き、バルコニーの欄干では小鳥が羽を休めていた。

 朝日に照らされた景色がとても綺麗で見入っていると、部屋に入ってきたブルーノに「冷えてしまいますよ」と声をかけられた。


「あぁ、ブルーノ。朝食をありがとう」

「奥様、ご体調に不安が?」

「いえ、新しい場所で……まだよく眠れなかっただけ。ごめんなさい、本来なら食堂で……」

「ご体調は? 医師をお呼びしましょうか」

「大丈夫よ。朝食を頂いたら少し横になって休むわ」

「何かあれば私にお申し付けください。旦那様より奥様のことは蝶よりも花よりも大事にするようにと……」

 ルミティがあまりにも悲しそうに俯いたので、ブルーノは言葉に詰まった。

「奥様……?」

「いいえ、ごめんなさい。旦那様にそう思っていただけて嬉しくて」

 作り笑いを浮かべ、ルミティはテーブルに並んだ朝食に手をつける。搾りたてのオレンジジュースにふわふわのオムレツ、甘くてカリカリしたクロワッサン。


(あぁ、旦那様に愛されているフリをしないといけないなんて辛いものね。けれど、大丈夫。立派に妻としての立場をいただけたのだもの。もっと前向きに考えてここでその仕事を全うすればいいのだわ。お父様やお母様のためにも)


「奥様、ご体調が戻りましたら本日は旦那様のご手配で外商が参ります。日々お召しになられるドレスやアクセサリー、日用品などをお選びください」


「ありがとう。午後にはきっとよくなると思うからお願いするわ」


 テーブルの下でルミティは強く手を拳に握った。爪が手のひらに食い込むほどに強く、強く。しばらくしてゆっくりと拳を開くとじんわりと痺れて血が腕全体にめぐる感覚がした。


(大丈夫、幸せに不自由なく暮らしていけるんだもの。恋愛に縁のなかった私にとっては最高の結婚なのだわ)


 数多くの「不運」を受け乗り越えてきた彼女は悲しみと向き合い、愛されることを諦めた。そして、愛されたいという願いを手放して仕舞えば少しだけ気持ちが楽になった。

 まだ朝食を食べている最中なのに腹がなって、ブルーノが優しく微笑んだ。


「クロワッサンをもう一つと、暖かくて甘いラテをいただいても?」

「ええ、奥様。すぐに」



 午後、外商がやってくるまでルミティは邸宅の中を散策していた。地下一階から地上三階建てで隅々まで掃除の行き届いた建物には数えきれないほどの部屋があった。


(小さい頃、お父様と訪れた美術館のようですわ)


 ボルドーグ家の先代公爵がアート作品をコレクションするのが趣味だったとは聞かされていたがこれほどまでとは思っていなかった。隣国で有名な画家の作品から歴史的価値の高そうな骨董品まで。その中でも一際目立っているのは、応接室に置かれた壺だった。大きさはルミティの腰の高さほどあり、繊細な金をあしらい、曲線が見事な白い壺。

 ルミティが壺に見入っていると、どこからともなくブルーノがやってきて彼女に声をかけた。


「そちらがお気に召されましたか? 奥様」

「ひゃっ」

「おや、驚かせてしまいましたね。ご無礼をお許しください」

「いえ、ごめんなさいね。あのこの壺は?」

「こちらは、先代公爵が王家から贈呈された壺でございます。歴史的価値も高いものですが、先代の功績を讃えられ贈られたものだそうで。なんでもその価値はこの邸宅3つ分とか」

「まぁ……」


 ルミティがその壺から一歩離れるとブルーノが優しく笑い「冗談です、邸宅ひとつ分です」と付け加え、彼女は顔を真っ赤にした。


「とても高いのには変わりがないのね」

「えぇ、我々もお手入れをするのに緊張をしてしまいますね」

「本当に……」

「奥様、外商がもうじき到着するかと。試着も兼ねるので2階の奥のお部屋にご移動を」

「応接室ではなくて?」

「はい、2階の一番奥は衣裳部屋を兼ねたお部屋になっておりまして……外商を呼んで買い物をするための部屋でございます。この邸宅には週に数度、呼べばすぐに外商が参りますので専用のお部屋と奥様用の衣裳部屋をつなげているのです」


 ブルーノに案内されながら、衣裳部屋に向かいルミティは実家である田舎の伯爵家と都市部に邸宅を構える公爵家の違いに驚いていた。実家では外商が来るのは月に1度。家族が多かったこともあって応接室で一気にドレスを選んだり試着したりしていた。もっぱら、ルミティは姉のお下がりを着ることが多く外商から買い物をするのは末妹のマロンが中心だった。


「あの……とっても広いですね」

「そうでしょうか。旦那様はこれでも狭いのではとおっしゃっていましたが」


 通された部屋は見渡すほどの広さであった。ルミティは邸宅の図面を想像してハッとする。この場所は1階奥にある食堂の真上なのだ。何十人もを招待して晩餐会を開けるような広い食堂と同じ広さ。手前は床から天井までの大きな姿見があり、外商が商品を広げるようなスペース、一人が腰掛けるようのソファ。そして、間仕切りの奥は全てウォークインクローゼット。中身は空だが、何百着というドレスを収納できそうだった。


「ブルーノ。私、ドレスは数着しか持っていないの。こんなに……広すぎるかもしれないわ」

「奥様、旦那様からは奥様の気のすむまでドレスを買い、場合によってはオーダーしろと命を受けておりますゆえ、心配ございませんよ」


 ドアの向こう、廊下がざわざわと騒がしくなりしばらくするとメイドの「ご到着でございます」という声が響いた。ルミティはブルーノに目配せをして、ドアを開けてもらう。



「奥様! 初めてお目にかかります。私はこのボルドーグ公爵家を担当されていただいておりますジョエンヌと申します。あぁ、旦那様から伺った通り。美しい薄灰色の髪に薄灰色の瞳。真っ白な肌と華奢なお体……本日百着ほどのドレスを仕立ててまいりました。それから、アクセサリーに靴、小物……」


 ジョエンヌと自己紹介をした中年の女性はルミティの手を握ったまま捲し立てるように言った。彼女の後ろには部下の女性たちがドレスを手にずらっと並んでいる。

 あまりのことに圧倒されるルミティは


「私、ドレスにあまりこだわりはなくてですね。えっと……普段は姉のお下がりばかりでしたから」


 と謙遜する。しかし、ジョエンヌはそんなことお構いなしに


「奥様、好きなお色はございますか? それと、普段着になさるドレスの着心地にお好みは?」


 ルミティは少し考えるが、好きな色と言われても思い浮かばない。ただ、ひとつ言えるのであればドレスの窮屈さが少し苦手であった。だからこそ、姉のお古を着るのに抵抗がないどころか、誰かが着古して柔らかくなった服の方がむしろ心地よかったのかもしれない。


(とはいえ、お飾りでも公爵夫人として恥ずかしいことは言えないわよね)


「着心地は……座って本を読むことが多いのでゆったりとしたものが好みかもしれませんわ。お色はこだわりはありませんわ」


 ジョエンヌは、メモをとりその後後ろにいた部下の人たちに何やら伝える。その間、何度かルミティを見て彼女はメモをとった。


「奥様、早速試着に参りましょうか。みんな、準備を」

「はいっ! ジョエンヌ様」

「えっ、あっ、えぇっ!」


 ジョエンヌに肩を掴まれてぐいぐいと間仕切りの奥に押しやられ、瞬く間に身につけていたドレスを脱がされてしまった。


「まずは、旦那様一押しの桜色」

「旦那様が?」

「えぇ、薄灰色にはよく似合うと言われているお色味です。桜というのは極東に原種を持つ薄い桃色の花でございます。はい、少しきゅっとしますよ」


 少しどころではなく腰を絞められ、ルミティは「くっ」と声にならない声で苦しさを表現する。しかし、そのドレスを着てしまえば、自然と苦しさはなくなった。


「まぁ、とってもよくお似合いですわ。ささ、姿見の前へ」


 間仕切りの奥から姿見のある場所まで移動すると、ブルーノやジョエンヌの部下の女性たちが「おぉ」と声を上げる。そして彼女たちは口々に「美しいわ」「さすがはヴェルズ公爵のお見立てだわ」と噂する。ルミティは少しだけ嬉しい気持ちになりつつ、姿見に映った自分を見つめた。


 桜色、薄い桃色のドレスは何枚もの生地を重ねて作られた繊細なドレス。プリンセスラインでふんわりしたスカートには小さなダイヤモンドがあしらわれていたし、露出を抑えるために胸元から首にかけては白いレースで仕立てられている。


「さ、靴をこちらへ! それからアクセサリーもよ」


 それからは、社交界用のドレスから普段着までルミティは数十着を着たり脱いだり。ブルーノがお茶を持ってくる頃には、彼女は目が回りそうなほど疲れていた。テーブルに並んだ紅茶とクッキー、ジョエンヌはお茶休憩の間も部下の女性たちに何やら指示を出したり、ルミティをじっと見てはメモを取ったりを繰り返している。


(とっても、パワフルなのね)


「奥様、お買い物はいかがですか?」

「私には勿体無いくらいのものばかりで緊張をしていたところよ。どれをいただくが、まだ迷ってしまって」

 ブルーノは少しだけ考えてから

「奥様は慎ましいお方なのですね」

 と言いつつ、彼はまだルミティに売り込みをしようとするジョエンヌを視線で抑えた。普段は物腰穏やかな老紳士のブルーノだが、その瞬間見せた威圧感はまるで主人を守る番犬のよう。ジョエンヌは手に持っていた煌びやかなブレスレットを箱に戻すと用意された紅茶を一口飲んだ。


「ジョエンヌさん、もし宜しかったら一番最初に試着させていただいた桜色のドレスと、ゆったりとした普段着を何着かいただいても……?」


「まぁ、かしこまりましたわ。奥様、それではドレスに合うヒールをいくつかとアクセサリーをお見せしますね」

「あぁ、アクセサリーはあまり身につけませんので靴だけで構いません。イヤリングって耳がすぐに痛くなってしまうので」


 ルミティがクスッと笑うと場の空気が少し和んで、ジョエンヌがルミティーの耳にそっと触れる。


「奥様はお耳が小さくていらっしゃるから、強く締め付けないとイヤリングが落ちてしまわれるのでは?」

「はい、なのでつけないことが多いかもしれないですわ」

「オーダーで作らせてみてはいかがでしょうか? ウチのお付きのアクセサリー職人に作らせますわ。採寸を……よし。次の訪問の際にお持ちしますわ」

「嬉しいです」


 やっと笑顔になったルミティを見てジョエンヌはほっと胸を撫で下ろし、虎視眈々と売上アップのために営業を続ける。とはいえ、生まれながら質素で物欲のないルミティの牙城を崩すのは容易ではない。彼女は目の前に魅力的な商品があっても実際に使うかどうかを想像して「勿体無いわ」「またの機会にするわ」と口にするのである。


(旦那様のお飾りの妻として最低限のものだけあれば十分だわね。たくさん着てあげないとドレスの方も可哀想だわ)



「全部買ったらいいんじゃないか?」



 見知らぬ声にルミティが振り返ると、そこには見慣れない男の姿があった。騎士服を身に纏った彼はスラっと手足が長く、絵に描いたような美しい顔は少し軽薄そうな笑みを浮かべている。


「おや、エリアス殿。お早かったですな」

「ブルーノ爺。そりゃそうさ、ヴェルズから美人な奥さんの騎士になるように命じられたんだからね。あぁ、申し遅れました奥様。僕はエリアス。ヴェルズ家に仕える騎士でございます」


 エリアスが立膝をつく最敬礼をすると、サラサラした金色の髪が揺れる。彼は顔を上げると、シルバーの瞳でじっとルミティを見つめた。


「はじめまして、ルミティと申します」

「やっぱり、ヴェルズから聞いた通りだ。僕は彼と寄宿学校の同級生で……」


(ということはロビン兄様のこともご存知かしら)


「それでは、我が兄もお世話になったかと」


 ルミティの言葉を聞いて、エリアスは驚いたように小さく息を吸ってそれから一瞬だけ目を泳がせた。そこでブルーノが咳払いをし


「エリアス殿。奥様はお買い物中でございます。騎士として仕えるのであれば、ご挨拶もほどほどに部屋の外で待機するのがマナーでは?」

「あ、あぁ。そうだね。お買い物が終わったら、ゆっくりと自己紹介をさせていただけると。あはは〜、失礼しました」


 エリアスが部屋を出ていくとブルーノはすぐにフォローするように


「彼は旦那様の幼馴染にございます。ボルドーグ家の騎士として奥様を守るように明示されておりますので後ほどお話を」


 とルミティに言った。


「騎士様が? 私に?」

「奥様、奥様はボルドーグ家の公爵夫人となられた身。専属の騎士があなたをお守りすることは当然でございます。彼は少々軽薄なところもございますが……何かあればこのブルーノにお申し付けを」


 紅茶を飲み終えると、ルミティは読書時のブランケットと入浴時のバスローブを注文し本日の買い物を終えたのだった。




「ハーブティーとスコーンでございます」


 ルミティは自室に戻り、騎士エリアスと二人きり。彼は相変わらず笑みを浮かべていて、あまりに美しい造形の顔に見惚れてしまいそうになった。

 夕食までの短い間、お付きの騎士となる彼との挨拶の時間である。トレイを持ったブルーノが部屋を出て扉が閉まると、エリアスが先に口を開いた。


「大丈夫、ブルーノ爺にはこっそり人払いを頼んだから」

「人払いですか……?」


 ルミティが首を傾げる。猫足のテーブルセット、ルミティと向かい合って座っているエリアスは立ち上がってぐっと近づいてくる。テーブルの上のハーブティーが揺れ、あまりの至近距離にルミティは身を引く。しかし、背もたれに邪魔されて逃げきれなかった。

 すぐ耳元に彼の唇がせまり、


「契約結婚のことだ」


 と言われた。ルミティは、こんなにも至近距離での会話が初めてなことと、契約結婚を他に知っている人間がいた両方の驚きで心臓が飛び出そうになった。

 エリアスが離れてからゆっくりと声を出す。


「それをご存知なんですか」

「僕はヴェルズの親友です。知っていますよ奥様。それと、もう少し気軽な関係で良いかと。とにかく敬語はやめていただけると嬉しいな」


 ルミティは動揺しつつ「えぇ」と答えた。エリアスは「よし」と笑顔になると椅子に腰掛けてハーブティーを一口飲んだ。


「ヴェルズは気難しいやつでね。僕から謝らせてくれ」

「いえ、私は……」

「不運令嬢だから十分だって?」

「それも、ご存知でしたか」

「敬語」

「知っていたのね」

「あぁ、ヴェルズもね。けれど、ここへきてから不運なことは起こったかい?」

「そう言われてみると、旦那様に『愛のない契約結婚だ』とお手紙をいただいたこと以外は何も」

「だから、君は今の状況を受け入れていると?」

 ルミティは少し諦めたような笑みを浮かべ、俯いてから

「そうかもしれない。私の不運はお相手に移ることもあるから。愛がない契約結婚の方がうまくいくのかもしれない。なんて思っているの。旦那様はお会いしたこともないけれど、私の不運体質を知ってそう言ってくださったのかも」

「僕は納得いかないけどな。こんなに綺麗で優しい奥さんを邸宅に閉じ込めておくなんて」

「ありがとう。でも私は満足よ」


 エリアスが真剣な表情になる。ルミティは見つめられていることに気がついて目を泳がせた。


(契約結婚とはいえ私は夫のいる身。他の男性にドキドキしては……彼はとても素敵な男性だけど、こんなに良くしてくださる旦那様を裏切るわけにはいかないわ)


 ルミティの心が少し揺れてしまったのには理由がある。目の前にいるエリアスという男は、彼女が幼い頃から憧れていた『華麗なる王子』という童話のエリート王子にそっくりなのである。


(まるでエリート王子が絵本の中から出てきたみたいだわ)


「お優しい人だ。奥様、こちらお近づきの印に」


 ルミティは手渡された小さな箱を開けてみると、そこにはブルーの宝石があしらわれた小鳥のブローチだった。手に取ってみると不思議なほど軽くて、彼女は驚く。


「幸運の青い小鳥をモチーフに、魔除け効果のあるラピスラズリを使ったブローチです。僕の魔力を込めているので、奥様に危機が迫った時すぐに気がつくことができる。だから、僕がそばにいないときは身につけおくか持ち運んでおいてもらえると」


「わかりました、ありがとう」


 そう声堪えるのが精一杯で、ルミティはごまかすようにハーブティーを飲んだ。目の前にいる男があまりにも美しすぎるのだ。何よりも、生まれて初めてと言って良いほどの幸運に体も心も慣れておらず落ち着かない。


(だめよ。私は既婚者。彼はお仕事で騎士をやってくださっているだけ。素敵な方だけれど童話と同じく眺めるだけにしましょう)


「奥様? 少しお顔色が悪いようだが……」

「いえ、えっと……」

 ルミティは体調が悪い訳ではなかったが、本日自身に訪れた幸運のラッシュに気疲れしてしまっているのを感じた。『愛のない契約結婚』のはずが、夫は妻のためにドレスを注文していたり騎士まで手配してくれていた。誰一人としてルミティに意地悪をする人やプレッシャーをかける人は存在しないし、大事な場面で小鳥のフンが顔に掛かるとか、熱々の紅茶をこぼしてしまうとかそういう今まで起きてきたような不運も起きない。

 彼女にとっての日常が非日常になって、幸せなことに慣れていないからだろう。


「もう休んだ方がいい。奥様、失礼しますよっと」

 

 エリアスはツカツカとルミティの方へ歩み寄るとさっと彼女を横抱きにした。小さな声で「掴まってください」と彼女の手を首元に誘導し、優しい視線を落とす。そのまま、ゆっくりと歩いてベッドまで移動し、彼女を下ろした。


「夕食になったらブルーノ爺が呼びに来てくれるように手配しておこう。無理をさせて申し訳なかった」

「いえ、あの旦那様には?」

「ヴェルズ?」

「ええ、本日お会いしたりするのかしら」

「無論、屋敷の施錠が終わったら彼に今日の報告をするが……」

「外商さんにドレスをお願いしてくださっていたこと……桜色のドレスのことお礼を伝えていただける?」

 エリアスが眉間に皺を寄せる。

「君にこんな仕打ちをしているあいつに?」

「仕打ちだなんて……きっとご事情あってのこと。とにかく、お会いできたら『ルミティは幸せです』と伝えてほしいの」

「わかった」


 エリアスは不満そうに、何度か瞬きをしたあと横になっているルミティの手の甲にキスをしてそっと部屋を出ていった。

 ルミティは彼のあまりの麗しさに緊張をしながらもこれからこの屋敷で過ごす日々が楽しみになっていった。



*** Side ??? ***


「これは彼女にかけられた呪いを解くために必要なことだ。あぁ、愛しのルミティ。もう少し辛抱しておくれ」

「坊ちゃん、仮の姿はいささかそのまますぎるかと」

「でも、使用人のみんなは騙せていただろう? 髪だって。変えたし」

「一部、古くから仕えている者たちは怪しんでおりましたぞ。表情をもう少し、変えてみると良いかと」

「わかってるって。そうだ、ルミティは何が好きだ? 次の贈り物は?」

「そう言えば……こんなことをおっしゃっていました」


*** *** *** ***



〜翌日〜


「ブルーノさん」

「ルナ、どうかしましたか」


 ボルドーグ公爵家の大きな裏庭で公爵婦人とお付きの騎士を見守っている二人は暖かな風に吹かれいる。裏庭の広い敷地では栗毛の馬に乗った婦人と、それをエスコートする騎士の姿が小さく見えていた。


「どうして、エリアス様が旦那様の愛馬・カローニャ様を?」

 

 ブルーノは咳払いをし、少し沈黙してから


「エリアス殿は旦那様の右腕とも名高い騎士。旦那様にしか懐いていない愛馬も彼の言うことなら聞くのですよ」

「うーん、私はこのお屋敷でご奉仕を初めて三年になりますけれどそもそもエリアス様のことを知ったのは奥様が来てからです。それに、エリアス様ってどことなく旦那様に似ているような……?」

「ルナ。貴女が旦那様にお会いしたのはいつです?」

「三年前、このお屋敷に来た時に一度だけ」

「では、曖昧な記憶かと。変な想像はおやめなさい。そうだ、お二人のためにティーセットの準備を。それから、カローニャ様ににんじんとりんごを。食べやすい大きさにカットして園芸用のバケツに入れて」

「かしこまりました」


 ルナは納得がいかない様子で首を傾げつつ、執事であるブルーノに言われた通り準備をしに屋敷へと戻った。一方で、勘の良い後輩をうまく躱した彼はほっと胸を撫で下ろした。




*** 数時間前 ***


「奥様、せっかく騎士の僕がいるのだから、もうすこしわがままを言ってもいいんだよ」

「けれど、わがままって言われても思いつくものがないわ。普段はわがままを言われる側だったし。それに、ここでの暮らしは夢みたいに贅沢なんだもの」

「初めてのわがままを僕に言ってみては?」


 エリアスは「ねぇ、奥様」と軽薄に微笑むとルミティの手の甲にキスをする。彼の美しい顔でそう言われるとルミティは断れず、必死でわがままを考えた。


「私……乗馬がしたいわ」

「乗馬?」

「えぇ、私の実家は農業地区にあったから牧場なんかでお馬さんを見る機会はたくさんあったのだけどね。乗馬は危ないからって禁止されていたの。なんでもアルバンカ家の5代目のお嬢さんが落馬で亡くなった事件があったそうで……。けれど、お馬さんにのって駆け回れたらどんなに素敵かって夢見ていたから……」

 

 エリアスはふっと笑みを浮かべると「よし、乗馬をしよう」と彼女の願いに応えた。


「ボルドーグ家の裏庭とその奥に厩舎があってね。今馬車を引いている馬たちとヴェルズの愛馬が住んでいるんだ。おそらく、僕の頼みなら背に乗せてくれるはずだ」

「まぁ、厩舎があったなんて知らなかったわ」

「そりゃ、奥様に案内する必要のない場所だからね。まさか、わがままが乗馬だなんて」

「あまり、わがままを言うのに慣れてなかったからかも。うちでは末妹が可愛いわがままをいう担当だったしね」


 エリアスはさっと立ち上がると執事のブルーノに


「ブルーノ爺。昼食後、カローニャを歩かせる準備をしてくれ。奥様に合わせたい」

「エリアス殿。カローニャ様は旦那様の言うことしか聞かない気難しい牝馬でございます。奥様にもしものことがあれば大問題ですぞ」

 ゴホンとブルーノがわざとらしく咳払いをした。

「大丈夫、僕はヴェルズとは旧知の仲だしカローニャにだって認められているんだ。頼むよ」

「だん……エリアス殿。かしこまりました。今日はたまたまシェフが人参を多く発注しておりましたのでカローニャ様のご機嫌も取れるでしょう」

「助かるよ」


「ごめんなさい、わがままを言ってしまって」


 ルミティはそう言いながら二人の顔を交互に見る。エリアスは「気にすることない」と優しい表情で、ブルーノの方は何やら心配で冷や汗を流している。


「奥様、旦那様の愛馬・カローニャ様は気難しい牝馬。くれぐれも彼女の後ろには立たず、エリアスのそばにお立ちくださいね。ささ、とにかく昼食へ」

「おっと、僕も一緒に昼食を頂こうかな。ブルーノ爺、今日の昼食は? あぁ、腹が減った。さ、奥様、行きましょうか」

「え、えぇ」


 エリアスにエスコートされながら食堂へ向かったルミティは、エリアスとブルーノの二人の会話がやけに親しいことに少し違和感を抱いたが、昼食に大好物のマッシュポテトが用意されておりすぐに忘れてしまったのだった。




 昼食後少し休憩した二人は、広い裏庭を抜け厩舎にやってきていた。よく手入れされた木の建物には五頭の馬が住んでいて、うち四頭は馬車を引くおとなしい馬だ。四頭は隣り合った馬房の中にいて、穏やかに過ごしている。厩舎に二人が入ってくると馬房から顔を出して覗き込んだり、人懐こい馬はフンフンと鼻を鳴らしてルミティに近づく。

 厩舎の馬番は先ほどルミティたちが乗った馬車の御者。彼はブルーノと同じくらいの年齢で、代々この公爵家で馬番・御者をしている。


「奥様、騎士様。手前の四頭はとても気の優しい性格の馬、ぜひ撫でてやってください。まずはこうして手のひらをゆっくりと差し出して匂いを嗅がせてやってください。そうすれば自ら頬を寄せてきますよ」

「ありがとう。まぁ、こんにちは」


 ルミティは馬房から顔をだし、鼻を突き出していた黒い馬に手のひらを差し出した。馬は彼女の掌の匂いを嗅ぐと、ふにふにの唇で挟んだりつついたりしてルミティの手のひらを弄ぶ。

 その感触が柔らかくてくすぐったくて、ルミティがくすくすと笑うと隣の馬房にいた馬も顔を出して彼女をみながら大きく首を振る。


「おや、この子たちはさっき僕たちの馬車をひいてくれていた子たちだな」

「まぁ、ありがとう」


 人懐っこい黒い馬の額や頬を撫でると、馬が気持ちよさそうに目を細め馬の長いまつ毛が揺れる。ルミティはそれを愛おしそうに眺め、エリアスはそんな彼女を愛おしそうに眺める。

 一方で、一番奥の一番広い馬房は少し殺気立っていた。ヒヒンヒヒンと神経質な声、蹄を細かく鳴らす音は明らかに厩舎に入ってきた人間を警戒していた。

 ルミティはその馬房の前のプレートを見て納得する。


「奥様、そちらは……」


 馬番が申し訳なさそうに言ったが、ルミティは興味津々でゆっくりと奥の馬房の前まで歩く。


「あの子がカローニャ?」

「そう、ヴェルズの愛馬さ。カローニャ。奥様に挨拶は?」


 馬房の奥、警戒するように首を下げこちらを睨んでいるのは栗毛の大柄な馬だった。一際毛艶がよく、後ろ足の筋肉は大きく美しい。栗毛の体毛に光り輝く金色の立髪と尻尾は高貴さすら感じさせるほど。けれど、彼女はルミティを見ると威嚇するように足を踏み鳴らす。ブヒヒーンと一際大きな声を出して前歯を剥き出しにしたり、後ろ足だけで立ち上がったりと落ち着かない。


「あら、怒らせてしまったかしら。ごめんね、カローニャ」

「ちょっと気難しい子でね」


 エリアスは柵をくぐって馬房の中に入り込んだ。


「騎士様、危険です!」

「大丈夫、僕は騎士だよ。どんな馬も乗りこなすさ」


 馬番は「あぁ、なんということか」と震え、ルミティは心配そうに見つめている。カローニャは馬房の端っこまで逃げように身を寄せ、歩いてくるエリアスを警戒した。エリアスは手袋を外し、威嚇する馬に臆することなく近づき触れた。

 カローニャは後ろ足を浮かせ、大きく嗎いたがそれでもエリアスは彼女の頬に触れてゆっくりと撫でた。ルミティたちには聞こえなかったが、カローニャに優しく何やら語りかけていく。次第に、カローニャは落ち着きを取り戻し、おとなしく手綱を装着された。エリアスは慣れた手つきでカローニャを誘導すると、ルミティのいる馬房の入り口までやってくる。


「さ、カローニャ。お前の旦那様の大事な大事な奥様にご挨拶を」


 カローニャは頭を下げ、片方の目でじっとルミティを見据えた。つぶらで大きな瞳、長いまつ毛が揺れ「あなたは誰?」と言っているかのように感情のある瞳であった。ルミティはゆっくり優しく口を動かした。


「はじめまして、ルミティよ。カローニャ、驚かせてしまってごめんなさいね」


 フンフンと鼻息を鳴らし、カローニャからルミティに近づいた。ゆっくりとルミティの胸元に頬を寄せ、ふわふわの三角耳が細かく揺れる。ルミティはカローニャの顔をそっと抱きしめて、優しく頬をさすってやる。


「本当は賢くて優しい子。その上、旦那様のことが大好きな忠実な子なのね。気難しいなんてこちら側の都合だもの。そのままの貴女でいてね」

「あのカローニャがこんなに気を許すなんて……さすがは奥様でございます。騎士様、鞍はこちらに」


 馬番が用意したカローニャ専用の鞍を装着し、ゆっくりと馬房の柵をあげる。エリアスが手綱をしっかりと握り、ルミティはその後に続いた。馬番はいつも気性の荒いカローニャがこうもおとなしくなるかと驚きつつも、怖がる他の馬たちの世話に戻る。



 カローニャを連れて裏庭に出た二人は綺麗に整えられた芝の上をゆっくりと歩く。午後の柔らかい日差しがじんわりと体温を上げ、少し冷たい風がそれを調整する。風はほのかに紅茶の香りがして、ルミティはここが都市部なのだと改めて感じた。


「さ、カローニャ。奥様を背中に」

「待って、エリアス。少し、一緒に散歩してからでもいいかしら? カローニャもいきなり人間を背に載せるのはきっと窮屈だわ。ね、ほらあっちの花壇まで歩きましょう」


 カローニャは「そうよ」と言わんばかりに首を振るとルミティについて歩いた。ルミティの歩幅に合わせるようにゆっくりと蹄を鳴らす。

「エリアスはカローニャとは長いの?」

「あ、あぁ。僕はヴェルズとも長いからね。よく知っているよ。この子は前の飼い主にひどい仕打ちを受けていたところヴェルズが引き取ってね。非常に優秀で体も強い馬だけど、彼にしか懐かなくて」

「エリアスにはよくなついているじゃない?」

「あ、あぁ。僕も認めてもらうまで大変だったよ」

 エリアスは苦笑いをして誤魔化したが、カローニャが足を止めてじっと彼を見据える。エリアスは軽薄な笑みを浮かべ直すと

「お嬢さん方、あまり僕をいじめないでくれよ」

 とおどけて見せた。カローニャは「フン」と鼻息を鳴らすと、ルミティに頬づりをして再び歩き出した。

「エリアス、嫌われちゃったかも?」

「奥様の方がカローニャと気が合いそうだ。そうだ、もしも奥様が望むならヴェルズに伝えてここから少し行った場所にある領地の一部を乗馬場にしてって頼むのはどうだい? ちょうど僕も騎士として乗馬訓練場が欲しかったんだよなぁ」

「ちょっと、それは私の希望じゃなくってエリアスの希望じゃない。旦那様にそんなわがままいってご迷惑かけてはダメよ」

「奥様は厳しいなあ、な? カローニャ。広い牧場で日向ぼっこができて、砂浴びができる場所があって駆け回りたいだろう?」

 カローニャがじっとルミティを見つめていた。まるで「お願いよ」と言っているかのようだ。

「確かに、カローニャたちのためを思ったらわがままを言ってみてもいいかもしれないわね」


 裏庭の端っこ、城壁のような塀の下は花壇になっていて、さまざまな花が咲き誇っている。甘い蜜の香りを楽しむように、カローニャが花の香りをフンフンと吸い込む。優しい瞳がじっとルミティを見つめ、ルミティは彼女の首元を優しく撫でた。


「馬が好きかい?」

「えぇ、動物はみな好きよ。お父様は危険だなんて言ったけど、人間がお馬さんを怖がらせてしまうからいけないの。こうして、向き合って理解し合えば仲良くなれるのに。ねぇ、カローニャ」

「もしも、カローニャが君を認めなかったらどうしていた?」

「そうねぇ、きっと彼女の好きな食べ物を毎日持っていって好きになってもらえるように努力をするかしら。それでもダメなら、遠くから彼女を眺めて我慢するわ。こんなに美しいんだもの、それで十分よ。ね、カローニャ」


 カローニャはルミティに声堪えるように、彼女が履いていた乗馬用のブーツを甘噛みした。それは「背に乗っても良い」という彼女のなりの合図で、今まではヴェルズにしかしたことのない仕草であった。


「さ、奥様。ここに足を、そのままゆっくり、よし」

 ルミティはエリアスに補助されながらカローニャの背に乗った。普通の牝馬よりも一際大きなカローニャは何事もなかったかのようにゆっくりと歩き出す。カローニャに合わせて作られた鞍は大きく、ルミティは落っこちないようにバランスを取る。


「ふふ、ありがとうカローニャ」

 エリアスが手綱を握り、カローニャの顔の横を歩く。ルミティはとても楽しそうな笑顔で景色を眺めた。裏庭から見える屋敷の構造はとても美しい。まるで美術館のような重厚な石造の建物、金色の窓枠に午後の日差しが反射してキラキラと光っている。

 遠くに見える二つの人影はブルーノとメイドのルナだ。ルミティが手を振るとブルーノは胸に手を当て会釈し、ルナはスカートを少し広げて挨拶を返す。しばらくすると、ルナの方が急いで屋敷の方へと走っていき、ブルーノは相変わらずルミティたちを見守るように木陰へと移動した。


「さ、少し速度をあげようか。カローニャ、いいかい?」

 カローニャはエリアスの掛け声に彼の手を甘噛みして答えた。すると、エリアスは彼女の鼻をなで、軽やかに背に乗った。

「きゃっ」

「奥様、少し前にずれて手綱を握って。大丈夫、最初から二人乗り用の鞍にしているよ。カローニャ、いいよ。ゆっくり加速して」

 ルミティは手綱を握り、それをエリアスが後ろから手を重ねるようにして握る。彼に後ろから抱き込まれるような体制になって、彼女は思わず顔を赤くした。

 主人からの嬉しい命令にカローニャの方は徐々に早歩きに、ピョンピョンと足を跳ねさせるように走り、最後には風のような速さで駆けた。


「大丈夫、僕とカローニャを信じて」

 耳元でそう囁かれて、ルミティは恥ずかしそうに頷いた。手綱を握り、視線を前に戻す。カローニャの立髪が風に煽られ、金色に輝く。広い裏庭を横切れば彼女は華麗にカーブをするとまた走り出す。ルミティの頬を撫でる風は冷たいはずなのに、彼女の体温は熱い。背中に感じるエリアスの体温のせいであろうか、彼の心臓の音がかすかに背中に伝わってまた体温が上がったような気がした。



 ルミティはエリアスと共に充実な日々を過ごしていた。公爵であるヴェルズは全く姿を見せなかったが、暮らしに不自由はなかったし、何よりも不運に見舞われることがなくなって彼女は少しずつ自信を取り戻していく。

 まるで絵本の中から飛び出てきた様な騎士はルミティの心を癒し、恋愛関係にはならないものの良き友人として笑いあえる仲になっていた。


「そういえば、エリアス。貴方、おやすみをとっていないわよね?」

「基本的の僕の仕事は貴方の護衛だから……休みはないな。けれど、明日の午前は王宮に呼び出されていてね。少しおくれるかも」

「それはダメよ。貴方にも人生があるのだから。そうだ、明日はせっかくだし王宮でのお仕事が終わったらそのままゆっくりしてきたらどう? 私、ちょうど読みたい本を見つけてね。明日はお部屋の中でゆっくりしようと思っていたの」


 ルミティの精一杯の気遣いにエリアスは断ることもできず


「お言葉に甘えて」


 と答えた。



*** Side ヴェルズ ***


「ブルーノ。ここにある材料を材料庫から持ってきてくれ」

「はい、旦那様。空瓶は一つでよろしいですか?」

「あぁ、ありがとう」


 ブルーノが材料を持って戻ってくるとすぐに調合が開始された。正しい材料を正しい順番で、古代魔術の力の宿った容器で作ることで簡単に解除薬は完成した。無色透明のそれを丁寧に小瓶へと詰める。猫の額ほどの大きさの小瓶につまった聖なる水をヴェルズはブルーノに手渡した。


「まさか、奥様の不運に陥れていた呪いがこんなにも短絡的な黒魔術だとは」

「十中八九、術者は分かっているが……明日、ルミティの紅茶に混ぜてくれ。呪いの原因を探るのに長く時間がかかってしまったな」

「旦那様が明日説明と一緒にお渡しをすればよいのでは?」

「知っているだろうが、僕は明日王宮に呼び出されてしまってな。理由はここのところ職務怠慢だからだ。多分、あの王宮の栄誉騎士かいうジジイに絞られるんだろうな」

「旦那様、ジジイではなく栄誉騎士様でございますよ。ここのところ、エリアスとして日中王宮を開けていたのは事実。それも、王宮では『新婚で妻にかまけている』なんて噂になっているほどです」

「だから、頼んだよ。ルミティの呪いを解いてやってくれ」

「かしこまりました。旦那様はいつ頃ご到着に?」

「昼過ぎには帰るよ。栄誉騎士様をぶっとばしてもね」

「旦那様、王宮で問題を起こされては奥様が悲しみますよ」

「そ、そうだな……」

「それから、もう一つ問題が」

「なんだよ?」

「呪いをかけた術者がまだ姿を現しておりませんし、その術者にどの様な制裁を? 一旦、奥様の呪いを解くことを優先としても危険な分子がそばにある可能性がある以上……」

「あぁ、必ず制裁を加えるよ。それに……目星はついている。優しいルミティはきっと術者を許してしまうだろうから。少し術者にエサを吊るしてやろうと思ってね。必ずルミティは守るが」

「かしこまりました。旦那様、ちなみに栄誉騎士様は第3区画で売られているチーズケーキが大好物だそうで。明日の朝9時にボルドーグ家の名前で予約を入れております」

 ヴェルズはできる執事に最大の感謝をしつつ、明日、最愛の妻に会えることに胸を躍らせていた。


***     ****




「奥様……お客様でございます。ダメだと言ったのですが」

 ブルーノが申し訳なさそうにいった後ろにはピンク色のドレスを着た可愛らしい令嬢が立っていた。

「お姉さま。おひさしゅうございますわ」

「マロン、どうしたの? とても急じゃない」


 昼食を済ませたあと、食堂から自室へと戻ろうとしたルミティは玄関ロビーで押し問答をするブルーノとマロンを見つけたのだ。


「あのね、都市部にお見合いにきたついでにこちらへ寄ったのだけれど……お姉さま。マロン、すごく寂しかったわ」


 そう言って彼女はルミティにぎゅうと抱きついた。それからチークキスをしてそっと離れる。ルミティはブルーノに


「ブルーノ、妹は長旅で疲れているみたい。応接室でお茶をお願いできる? えっと、マロンが好きなのはアップルティーだったわね」

「えぇ、お姉さま。さっ、行きましょう。積もる話があるの」


 ルミティはマロンを連れて応接室へと向かった。応接室はボルドーグ公爵家の権威を表すかの様にさまざまな高級アンティークが置かれている。特に一番目立つ位置に置かれている壺だ。大きさはルミティの腰の高さほどあり、繊細な金をあしらい、曲線が見事な白い逸品は、国王の式典で貸し出しを頼まれるほどの代物である。


「お姉さま、ここでの暮らしはどう?」

「とても幸せよ」

「あら、今日はロビンお兄様のおっしゃっていた騎士様の姿はないのね。とっても麗しい方だと聞いたからお会いしたかったわ」

「今日はお休みなのよ」

「そう、マロンはすごく心配していたのよ。お姉さまの不運」

「それがね、ここに来てからは全く」

「そうなの。マロンは安心だわ」


 運ばれてきた紅茶。ルミティは何事もなく口に運ぶ。それをみてマロンはピクリと眉を動かした。


「お姉さま! そこにある陶器のお人形が見てみたいわ。こちらに持ってきて」

「これ? すごく高いものよ。勝手に動かしてはいけないわ」

「でもマロンの身長じゃ見えないもの。みたいわ! みたい!」

「あぁ、あぁ、わかったわ。ちょっと待っていて」


 ルミティはブルーノに頼んで陶器の美しい人形を棚から下ろしてもらうと、用意された手袋をはめてそっと人形に触れた。


「マロン、流石にあげることはできないから見るだけで我慢してね」

「はぁい」


 マロンの声が少し低くなった様な気がしたが、ルミティは気にせず応接室の紹介を続ける。


「そうそう、このツボは一番高いんですって。なんでも今の国王陛下の結婚式でもアンティークとして貸し出したんだとか」

「へぇ、そうなの。ねぇ、ブルーノさん。お姉さまと二人でお話ししたいのだけど。人払いをしてくれる?」

「お言葉ですがマロン様、お客様と奥様をお二人にすることは」

「お姉さま、お願い」


 ルミティは仕方ないわねと言った顔でため息をついてからブルーノに「大丈夫よ」といった。ブルーノは「かしこまりました」と返事をして部屋を出ていく。しばらくしてからマロンが立ち上がった。


「お姉さま、幸せ?」

「えぇ、そうね。マロンは今日のお見合いどうだったの?」

「そうね、伯爵様だったんだけど……お父様の一押しでね。その人で決まりそうなの。でも変でしょう? 領地で一番優秀で愛されていた私が伯爵家に嫁ぐなんて」

「え?」

「だってほら、お姉さまは公爵婦人。私は伯爵夫人のままじゃあ身分に差が出てしまうじゃない? それに、あらお姉さま。その高いツボに虫が。取らないと」

「本当?」

 

 ルミティはツボを覗き込んでみたが虫などおらず、そっとツボから離れて座り直す。それをみてマロンは舌を鳴らした。

 そして彼女はすっとツボに近づき


「お姉さま、ほらここ」

「え? どこ?」


——ガシャン!


 マロンはルミティの手を掴んで思い切りツボを押した。ツボはそのまま大理石の床に倒れ込んでバラバラに割れてしまった。


「お姉さま! 何をなさってるの! 誰か! お姉さまが割ってしまったわ!」


 大声で叫ぶマロン、ルミティは驚きのあまり動けずにいた。すぐに事態を聞きつけたメイドたちがやってくると、彼女たちは


「奥様、お客様! お怪我はございませんか」

「どうしましょう。旦那様がもうすぐ到着されるのに」

「ここは私たちが壊したことにしましょう。奥様をお守りしなきゃ」


 と次々に口にしたが、ルミティは


「旦那様が帰ってくる……?」


 と血の気が引いた様子で口にした。それをみてマロンはほくそ笑むと、落ちていたツボのカケラでわざと手のひらを傷つけた。


「怪我をしてしまったみたい。痛いわ! お姉さまったらひどい!」


 血を見て慌てるメイドたち、ルミティは「初めて会う主人に嫌われるかもしれない」という恐怖で腰から砕ける様に座り込んだ。ひととき、沈黙が訪れる。ドアをノックする音。ルミティは消え入りそうな声で返事をした。


「奥様、お怪我はございませんか!」


 慌てたブルーノの奥に立っている男は、公爵家にしか許されない礼服を身につけていた。


(あぁ、旦那様だわ)


ルミティが足元からゆっくりと見上げる。ヴェルズはどんな表情をしているだろうか、ルミティは怖かった。自分の不運がこんな時に限って起こってしまい、彼を失望させたのではないか。


「エリ……アス……?」


 そこに立っていたのはあの金髪の騎士エリアスであった。しかし、いつもとは違って真面目な顔つき、別人に見える様な礼服の着こなし。彼は心配そうにルミティを見つめると


「僕がヴェルズ。騙していてすまない」


 彼が指を鳴らすと金色だった髪はみるみるうちに銀色へと戻っていったのだ。ヴェルズは跪いてルミティの手の甲にキスをして、頬に流れていた涙をそっと拭き微笑む。そのまま額にもキスをしてヴェルズは立ち上がった。


「お姉さまがツボを割ったの! 私こんなに怪我を……」


 マロンは派手に出血した左手を見せつけ声高に叫ぶ。ルミティは否定しようと声を上げたがマロンの声にかき消されてしまう。


「お姉さまはいつもそうだわ。こうして不運に人を巻き込むのよ。お義兄様。これではお姉さまにはお世継ぎを産むなんて無理。よければマロンが代わりに」


「マロン嬢、お手を」


 ヴェルズがそういうとルミティは過去の数々のトラウマを思い出してまた泣き出してしまった。不運によって婚約者に愛想を尽かされてきた彼女、今度は不運に寄って夫を失い、妹に奪われてしまうのだと。


「ヴェルズ様」

「ルミティ、下がって」

「そうよ。お姉さまは家宝の壺を壊したのだから離縁されて当然だわ。マロンが代わりに公爵婦人になってあげる。お父様だって許して下さるわ」


 絶望に浸るルミティのそばでマロンはほくそ笑んだ。ヴェルズは自分の手を取ったのだと勝利の笑みを浮かべた。


「さぁ、お義兄様。すぐにお姉さまと離縁を……えっ」


 と言いかけてマロンは口をつぐんだ。目の前にいたヴェルズはまるで蔑む様な顔で彼女を見下ろしていたからだ。マロンにとってみれば大抵どんな男でもルミティよりマロンを選んでいたので絶対の自信があったが、ヴェルズにその手は利かなかったのだ。


「確定だよ。お前が、ルミティに黒魔術で呪いをかけた張本人だな。マロン・アルバンカ伯爵令嬢。僕は王宮の占星術師をしているいわば呪いの専門家。ずっとルミティにかけられた呪いを解く方法を探していたんだ。それから、術者もね」

「え? マロンが? お姉さまが呪い?」

「あぁ、占星術師である僕は『呪いが見える』んだ。初めてルミティを見た時からべっとりとついた呪いの影に驚いたよ。まさか、犯人が身内で妹だとは」

「お義兄様、言いがかりよ」

「言いがかりじゃない。みろ、君の血はこんなに汚れている」


 ヴェルズはマロンの血がたっぷりとついた何かを手に取って掲げた。水晶をナイフ型に切り出したブックライブで黒く澱んでしまっている。


「これは、黒魔術の使い手を炙り出す道具でね。そのものの血で水晶の中身が濁れば……黒。実に古典的な黒魔術。君は生贄を捧げ、ルミティに呪いをかけたんだ。その発動条件は『術者が対象者に触れること』妹である君ならルミティがお見合いに行く前に激励の握手やハグをして触れることが可能だ。でも残念だったな、ルミティの呪いは既に今朝解いてある。だからここで、ルミティが不運に見舞われることはないんだよ」

「くっ……!」

「だから、今までの様にルミティが何かを壊したり不幸に見舞われることはないし、その結果男どもが彼女を振ることもない。もちろん、僕も君の様な人間には騙されない」

「でも、お姉さまがその壺を!」

「まだいうか。仮に、ルミティがその壺を割ったとして……だからなんだ? 僕がルミティを嫌いにならない理由はないし、君を選ぶ理由はもっとない。さぁ、国家警察を呼んでくれ。王宮に使える占星術師の妻に黒魔術を働い反逆者を捕らえろ」


 マロンはガクッと膝をつくとぶつぶつと何かを呟いた。すかさず、危険だと判断したブルーノが彼女の口を布で作った猿轡で塞ぐ。


「おねえさ……たす」


 この後に及んで助けを求めるマロンをみてルミティが立ちあがろうとすると、ヴェルズがそれを止めた。


「ルミティ、助けてはダメだ。もう彼女は救いようがないんだから。君は優しすぎる、優しすぎるよ」


 すぐに国家警察がやってくると、ヴェルズは全てのことの成り行きを説明した。マロンは、何らかの方法で黒魔術に手を染め、姉を呪ったこと。その呪いによってルミティが長年被害を受けていたこと。ルミティの証言によれば黒魔術の発動条件である「生贄の小山羊」は農業地区を領地持つアルバンカ家であれば用意に手に入ること。


「黒魔術の使用は大罪。その初めてが子供であっても、先ほど彼女がしようとした行動を鑑みればこの後は一生檻の中で過ごすことになるだろう」

「ヴェルズ様……私」

「混乱をさせてすまない。君に呪いがかかっていて不運が発動する条件が曖昧だった。愛されようとすることで発動するのか、それとも君が愛されることで発動するのかその二つのどちらかだと推測したんだ……君に不運を起こさせないために『君を愛することはない』と手紙で伝え、エリアスとしてそばで守ることで呪いの解明を進めていたんだ。本当にすまなかった」

「そう……だったの」

「あぁ、妹さんがあんなことになって混乱している時にすまない。でも、言わせてくれ」

「え?」


「ルミティ、愛しているよ。君がここにきてくれて嬉しい」


 ヴェルズの銀色の髪がふわりと揺れる。ルミティは心の混乱を収めるようにそっと彼の手を握り返した。それは長年の不運の答えを知ったことか、それとも本当に愛してくれる人を見つけたことによる安堵かはまだわからない。

 けれど、目の前にいる男が自分だけを見てくれていることは理解ができた。


「はい」


 そっと唇を重ね、二人は遠回りをしたけれど本物の夫婦になった。不運令嬢は幸せな生活を手に入れたのだ。



 



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▼連載版▼

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