25. 嵐は去り行く
ミカルーシェとの諸々の目通りと諸連絡を済ませ、アルスは誰にも会わないうちに控室に引っ込んで、ドレスを脱ぎ、メイクを落とす。あとは誰にも見られないうちに元の姿へと戻れば、これ以上煙が立つことはない。
着替えを手伝ってくれたアザレア工房の面々に、ロッカーを指し示して、その中にあるものを取り出させる。
紙袋の内側に入っていたものを見て、彼女たちは目をぱちくりとさせた。
「さて。アザレア工房の諸君。僕を美女に変身させたわけだけれど、今度は美男子に変身させることはできるだろうか」
挑発的に笑みを浮かべてそう告げると、彼女たちは目を輝かせて化粧筆を構えた。やる気があるようで結構だ。
アザレア工房の職員たちの手を借りて変身を終えたアルスは、ゆっくりと彼女の元へと向かった。
ファッションショーは大盛況のうちに終わった。見送りを行なった婦人方からはすでに何件か打診があり、デザイナーはそれぞれ後日、屋敷を訪れてオーダーを受けたり相談をしたりと、大忙しになることだろう。その橋渡しをするために、提携先の服飾系の商会と共に、また忙しい日々が始まりそうだ。
ドアをノックして、控室へ入ると、そこにはすでに着替えを済ませたリリーナとスレンの姿があった。彼女たちはアルスの姿を見ると、目を丸くして固まった。
今のアルスは、一目で見て貴族だと分かる格好をしている。いつものビジネススーツではなく、しっかりとした貴族の盛装をしているのである。メイクからヘアメイクまで、しっかりと整えられたアルスの姿は、どこからどう見ても高位貴族の子息のそれである。
「アルス、その恰好は……」
「今からリリーナのことを家に送っていくから。最後に答え合わせは必要かなって。僕の勘だと、あの人たちはまだ居座ってると思うんだ。最後の悪あがきをしてる」
「それは……そうだと思います。叔母様も、従姉たちも諦めは悪くて、父は少し優しすぎるところがあるので」
「うん。だから僕が立ち会ってあげるよ。男爵やリリーナが勇気を出せるように。あの人たちが、誰に喧嘩を売ったのか思い知れば、流石に自分たちがやらかしたのがどんなに重大なことだったのか思い知るでしょ」
「ありがとうございます、アルス。もういい加減に、これ以上ほかの方にご迷惑をお掛けできません。必ず、今日決着を付けます」
アルスはリリーナへと微笑みを返すと、白くて小さな手をリリーナへと差し出した。リリーナは、その手の上に手を重ねる。アルスの手の大きさは、リリーナと同じくらいだ。その小さな手を見て、リリーナは目を瞬かせていた。
その様子には気づかず、アルスはスレンの方を向くと告げる。
「スレン。フェーさんを呼んできて。たぶん、スタッフの控室でご飯食べてると思うから」
「うぃっす! 任せて~」
「で、その後はフェーさんとスレンも一緒に今朝の続きね。もう一回カチコミ行くから」
「あいあいさっ」
スレンはおちゃらけた敬礼を返すと、控室を飛び出していった。リリーナを連れて馬車の中で待っていると、フェルナンドとスレンは後からやって来て、同じように馬車に乗り込んだ。
馬車も、少し豪奢な作りにしてある。黒塗りで銀縁の、高級車だ。中もゆったりと余裕があり、馬は四頭立てで、立派な装具を付けている。
「金掛かってますね。こんなでかい馬車乗ったことないっすよ」
「金って一番強い暴力なんだよね。自分は強い力を持ってますよって誇示することで、大抵の人は諦める。この馬車が長い間道端で止まっていて自分が不利益を被ったとして、馬車のドアを開けて文句を言う人はどれくらいいると思う?」
「いやー……絶対いないっすね。関わりたくないっす」
「理不尽だけどそういうことなんだよね。金は掛けるべきところには掛けないと」
貴族が着飾ったり、自分の屋敷を豪華に飾り立てるのも同様の理由だ。相手に暴力を許す前に、こちらが無言の暴力を叩きつける。交渉の席は、玄関をくぐったその瞬間から始まっているのだ。
やがて、リリーナの家に辿り着いたのは、夜になってからだった。門をくぐり、呼び鈴を鳴らすと、明らかな盛装をして訪れたアルスに向かい、使用人たちは恭しく頭を下げた。アルスはそれに、小さな頷きだけで応える。
応接室で腰を下ろして待っていると、男爵は間もなく現れた。げっそりとした叔母と、憤るように頬を膨らませた従姉たちも後から入ってくる。スレンとフェルナンドは、アルスの意図を察してか、ソファの後ろに背を伸ばして立っている。侍従と用心棒のように。
男爵と叔母は、アルスの姿を見てはっとしたような顔をした。そして、男爵はすぐに恭しく紳士の礼を取った。
「アルス殿……そのお姿、ということは」
「ええ。本日この場には、貴族として訪れております」
「貴、族……え……?」
叔母は、呆けたように呟いた。アルスは目敏く、自分の横に腰を下ろした従姉たちを横目で見やりながら、口を開いた。
「――この家では、客人の隣に家の者を座らせるような無礼な振る舞いを許すのですね」
「な……っ」
「失礼いたしました。お前たち、そこに座ってはいけない。以前にも何度も注意したはずだが」
「どうしてよ! だってここしか空いている場所がないじゃない!」
「この場にお前たちは呼んでいないんだ。席などあるはずがないだろう。さっさと出て行きなさい。出て行かないなら壁際に立ちなさい」
「なんで……っ」
アルスは畳みかけるように、呆れたように息を吐き出すと、叔母を胡乱な目で見つめた。叔母は途端にびくっと体を揺らした。
「貴族令嬢ならば8歳の子どもでも知っていることです。どうお思いですか? ご婦人」
「……っ。し、失礼いたしました。あなたたち、言われたとおりに壁際に立ちなさい」
「な、なに言ってるのよお母さん! 前はそんなこと言わなかったじゃない!」
「いいから! 早く!」
男爵が使用人に目配せをすると、使用人たちが従姉の腕を掴んで立たせて、壁際へと引っ張っていく。しばらく彼女らは喚いていたが、そのたびに叔母はいたたまれないように縮こまっていく。アルスはその様子を見やって、鞄の中から一枚の紙を取り出すと、それを叔母の前にぽいっと投げる。
ガラス製の長方形テーブルの上を、滑らかに移動する紙が叔母の前に移動すると、彼女は恐る恐るという様子でそれを覗き込んだ。
「これは……?」
「今日、あなたがたがリリーナ嬢をこの家から出さなかった場合に請求予定だった賠償金に関連する書類です」
「……っ!? な、なに、この金額」
「何って。リリーナ嬢がいなかった場合に発生する損害の賠償金ですが」
「なんでこんなに高くなるのですか!?」
書面に記されていた金額は、とてもではないが離縁したばかりの女性の個人資産から賄える額ではなかった。
今回のファッションショーは、多くの貴族の夫人を始めとして万単位の人がホールに入って行なわれた催しものだ。非公開だが王太子妃の訪問もあった。
ファッションショーの運営が失敗すればその賠償はとんでもないものに膨れ上がるうえ、もしもリリーナが居なければ、お披露目する予定だったドレスの何着かは人の目に触れないままになっていた可能性もある。
そのうえで、その後のビジネスにも影響が出る可能性がある。何着も売れたかもしれないドレスが売れなかった場合の損害――そういったものを含めて、多くの人の時間を無駄にし、商会の利益に損害を与え、商会の信用を失墜させる妨害工作。
それに対する慰謝料も含めているのだから、金額が膨れ上がるのは当然のことだ。
「何度も申し上げました。かなり大きな規模のイベントだと。開催には何億という金が動いています。あなた方はその金の幾分かをゴミ箱に捨てる行いをしようとしました。それを賠償して貰って、何か問題でも?」
「ですがっ!」
「ああ、ちなみにですがリリーナ嬢の評判はすこぶる良かったですよ。たいへん愛らしく、ステージの上で堂々とアピールをしてくださいました。あなたが心配していたようなことは何も起こりませんでした。なので、これ以上リリーナ嬢には無理だと思った、だなんて的外れな理由は口にしないでくださいね」
「……っ」
叔母は顔を真っ青にして項垂れた。少し虐め過ぎたか、とアルスは舌を出して、指先で書類を回収する。
「まぁ、結果的にあなた方の幼稚な妨害を読んで、一時間早めに集合時間を指定しておいて正解でした。僕に感謝してくださいね。もしもリリーナ嬢がこの催しに参加していなかったら、この男爵家もろとも潰れてましたよ」
「…………」
「舐められたものですよ。よくも子どものような我儘で、我が商会の邪魔をしてくださいましたね。これに懲りたら、二度と他人の仕事に口出しなどしないことです。事が起きてからでは遅いのですから」
叔母は何も言い返せないのか、自分の腕を抱きしめて、体をぷるぷると震わせている。その母の様子を見て、ようやく何かまずいことをしたのかと思い当たった壁際の従姉たちは、喚くのを止めて、口を噤んだ。
軽い説教を終えたアルスは、男爵を見据えて問いかける。
「さて。男爵、妹君と姪御たちの私への不敬を、あなたはどのようにお思いですか?」
「はい。この度は、私の妹と姪たちがご迷惑をお掛けして、たいへん申し訳ございませんでした。あなたの振る舞いを見て貴族とも見破れぬ者どもが、男爵家を名乗ることを、私は家の長の名において認めません」
「お兄様……っ!」
「当然だろう。アルス殿の振る舞いを見ていれば、どこかの高位貴族のご子息だということは一目でわかる。お前たち以外、この家の人間は全員気づいている」
叔母は助けを求めて、周囲を見渡した。しかし、使用人たちは目を伏せて、粛々と頭を下げるに止まっている。本当に、自分たち以外は全員、アルスが貴族だということを知っていたのだと分かり、またしても彼女の顔色は悪くなる。
「リリーナ嬢も、言いたいことがあるなら言った方がいいと思いますよ」
「はい。お父様。私もお父様と同意見です。アルス様は、この家にいらっしゃったとき、非常に分かりやすく、紳士の礼を取ってくださいました。それを見れば、誰もが一目瞭然で貴族だと分かるほどの。それを見ても何も思わぬどころか、アルス様を平民と罵る叔母様とお従姉様方をこれ以上男爵家の籍に置いておくと、いずれ高位貴族に礼を失して、今度こそ男爵家は窮地に立たされると思います。私は男爵家の娘として、家に不利益をもたらす人間を、これ以上野放しにはできません」
「うむ……」
リリーナの凛とした声音を聞いて、叔母は鬼のように形相を歪め、音を立てて立ち上がると、リリーナを罵り始めた。
「あんた……男爵家の血も入っていない下賤な孤児がッ! ここまで育ててやった恩も忘れてッ! お前さえいなければ、私が男爵位を継げたのにッ! お前のせいよ! 何もかも!」
「……それが、叔母様の本音なのですね。残念です。私にとっては、叔母様は母のような方でした。それは事実です。ですが、私は貴族です。家のため、国のためにならないものは切り捨てなければならない。叔母様が何と言おうと、私は正式なシルファス男爵家の娘です。――平民風情が、貴族に向けて何という口の利き方をするの。弁えなさいッ!」
リリーナの精いっぱいの怒声が、叔母を襲う。その瞬間、男爵は目が覚めたように使用人を呼んだ。執事が、ゆっくりと男爵へと歩み寄ってくる。執事は耳打ちで用件を伝えられると、頷いて部屋を辞した。そして、男爵は立ち上がり、妹へと向き合った。
「リリーナの言うとおりだ。私とリリーナは貴族、そしてお前たちは平民。これまで身内だからと甘く見ていたが、弁えて貰おう。身分による序列を理解できない者に、貴族を名乗る資格はないッ!」
「そんな……嘘、嘘でしょ、お兄様。私たちを見捨てるの!?」
「王都の外れに、小さなアパートを借りてやった。一年だけ家賃を援助してやる。そこで母娘三人、仕事を見つけて暮らすが良い。ドレスや宝石を売れば、しばらくの生活費は大丈夫だろう」
「私たちに働けというの!?」
「それを覚悟して平民に下ったのだろう。家を捨てるように嫁に行ったのに、都合のいい時だけ家を頼ろうとするな。もうお前も娘たちも子どもじゃないんだ。面倒は見ん。自分の力で生きて見せろ」
「そん……な……」
叔母はその場に崩れ落ち、顔を覆って涙を流し始めた。しかし、彼女に手を差し伸べる者は、もう誰もいなかった。




