43. 平民と貴族の壁
魔術競技会の前日。
アルシェスタは、適度な訓練を終えて下町に下る。今日は、珍しく本部へと足を運ぶ日だった。オフィスと言っても、常駐しているのは数人ほどで、ほとんどの社員は、現場に出向いて仕事をしている。たまにこうして、全体で大きな会議がある日に出向く程度だ。
「エリーゼ。彼の準備はちゃんとしてくれた?」
「はい。社長の仰せのままに」
会議が一旦終わりになり、紹介したい人がいると告げて一時解散を待機して貰った。アルスはエリーゼと共に会議室から出た。
エリーゼは眼鏡を軽く押し上げて肯定した後、隣の部屋のドアをがちゃりと開けた。すると、そこには白と薄灰色を基調としたビジネススーツに身を包んだヴィンスの姿がある。彼のピンクブロンドはやはり特徴的で愛らしく、ビジネススーツとの親和性はかなり弱めだ。着慣れていない様子も、彼がいかにスーツに着られているかを表していた。
ヴィンスはやや落ち着かない様子で、そわそわと自分の体を見つめていた。
「さて。今日はうちの商会で預かることになったグラッセ子爵令息の初陣だよ。うちの上役たちときっちりとファースト・コンタクトを果たしてね。それが終わったら、うちが経営してる店を回るから」
「は、はい。よろしくお願いします!」
ヴィンスは右手と右足、左手と左足を同時に前に出しながら、ぎこちなく歩き始めた。大丈夫かなぁ、とアルスは小さく息を吐き出すと、彼の背中を軽く叩いた後、会議室へと彼を通した。
アルスの商会は、既存の商会に比べて業務内容がかなり特徴的だからか、上役たちも曲者ぞろいだ。ヴィンスが会議室の中に踏み入れると、刺さんばかりの視線が、体中に突き刺さったのを感じて、ヴィンスは少しだけ背筋が伸びる。
しかし、アルスは軽い調子で声を掛ける。
「皆聞いて。彼がこの間から話していた、この夏職業体験としてこの商会に入ってくれるヴィンス・グラッセ子爵令息だよ。勉強したいみたいだから、いっぱいこき使ってあげてね」
アルスが音頭を取れば、彼らは各々が自分たちのペースで頭を下げて、挨拶を述べる。ヴィンスは少しだけほっとした後、丁寧に紳士の礼を取って、挨拶をする。
「この夏、ACEでお世話になります、ヴィンス・グラッセです。若輩者ですが、精いっぱいやらせていただきます。よろしくお願い申し上げます」
軽い拍手の音が響き渡る。ヴィンスは、何となく完全に歓迎されているわけではなさそうだ、と感じる。
ここにいるのは、全員が自分の仕事に誇りを持っている精鋭ぞろいだとアルスからは聞いた。新たな市場を開拓すること、そして娯楽を広めることを目標に動いている商会にとって、道楽の貴族の職員は必要ないのだろう。ましてや、貴族である商会長が連れて来た人材――商会長を困らせて強引に職業体験を迫ったという風に取られても仕方のないことだ。
アルスとエリーゼと共に馬車に乗り込み、移動する。その途中、アルスはぽつりとつぶやいた。
「うちは実力主義だから。まずはきっちり仕事して貰わないとね。そしたら、あの面白いおじさんたちも、かわいがってくれるよ」
「はい。分かっています。僕は身分を見て欲しいわけではありませんから」
「そりゃ結構。まぁ、マジな話をするならたぶんだけど、おじさんたちは困ってるんだよ」
「困ってる?」
「貴族の子息との距離感に。僕もエリーゼも貴族だけど、社員の皆にはたまに忘れられてるからね。お行儀のいい挨拶をしたグラッセ卿との距離感を測りかねてるのさ」
身分制度は絶対の理だ。この国には、爵位が下の方の名誉男爵、騎士爵でさえ、庶民と比べれば圧倒的な違いがある。持つ権限も、保証される権利も、段違いなのだ。軽い調子で境界を飛び越えると、すぐに飛び火する。
であるからこそ、子爵令息と名乗り、貴族のマナーを披露して完璧な挨拶を述べたヴィンスに対して、どのような対応をするべきかかなり迷っている、というのがアルスの見解のようだ。この国では、まだまだ貴族と平民が混じって働く職場はかなり難しい。国の公務員でさえ、貴族の上役に話しかけるときには、ものすごく気を遣うそうだ。
「アルスさんの身分については?」
「まぁ、社員は皆知ってるよ。ただ、僕が普段どんな令嬢を演じてるかは知らないだろうけどね」
「アルスさんは、皆さんとどんな付き合いをされていらっしゃるんですか?」
ヴィンスは少し隣の部屋で漏れ出る声を聞いたくらいだが、男の大きな声で交わされる議論はかなり容赦なかったように思う。少なくとも、アルスは貴族令嬢でありながら、彼らに遠慮されないほどの信頼関係を築けているようだ。
その極意を聞いてみたくて、アルスに尋ねれば、アルスは頭の後ろで軽く手を組んで、小さく唸った。
「最初はね。びくびくされてたよ。伯爵家まで行くと、庶民の皆からしたら本当に雲の上って感じらしいから」
「そうでしょうね」
「でもそれだと仕事になんないから、僕のことを貴族扱いしたかったら、貴族に対するマナーを学んできなさい。それができないなら、庶民流でいいからきっちり仕事をしなさい。僕はえら~い貴族様なので、庶民に合わせるなんて造作もないから、僕が社長を名乗る間は、僕のことを庶民扱いしなさい。そう言った」
貴族に対して正しいへりくだり方ができるのは、貴族のマナーに明るい者だけだ。貴族たちは、平民の教育水準が貴族よりも遥かに低く、貴族間で求められるようなマナーが、平民に行き渡るのは物理的に不可能だと理解している。少なくとも、まともな貴族なら。
敬意が伝われば、粗雑な口調でも、マナーが粗暴でも、そこに重点を置かない場においては顔を顰められることはない。商会はその代表の一つである。
「いや、だってマナーも知らない人から、必要以上に気を遣われて、よく分からない様式の挨拶をされたって困るだけでしょ。そんなの習ってないなら分かるわけないんだから、そこに気を回すよりは別のことにリソースを割いて欲しいわけだ。だから僕は、僕のことを貴族扱いするならそれ相応の覚悟を持ってかかってこいよって言ったの」
「なるほど……敢えて、気を遣う方が失礼だと促すことによって、無意味な畏怖を払拭したんですね」
「綺麗な言葉使うね。僕はただ、そういう面倒なのが要らないって思ったから、思ったことを言っただけなんだよな」
実際に、その言葉によって、彼らは容赦なく仕事の話をしてくれるようになり、アルスは満足していた。気安くなりすぎて、たまに会うと頭をぐりぐりと撫でまわされたり、子ども扱いをされてお菓子を握らされることもあるが、まぁそうやってアルスがマスコット的な立ち位置をすることによって彼らの仕事の能率が上がるなら、と放置している。
「この仕事をしていると、貴族のマナーを意識するのは、貴族相手の商談・接待の時のみでございますね」
「その通り。流石に貴族同士だと、ちゃんと気を付けないと先方を不快にすることもあるからね」
「なるほど。では、僕の挨拶はある意味で失敗だったんですね」
「まぁ、70点くらいかなぁ。別に、貴族の令息として身分を公開したうえで入って来てるんだから、挨拶自体はあれで問題ないんだよ。ただね、残念ながら20%も伝わってないマナーなんだよね」
ヴィンスはぐったりと体から力を抜いて前かがみになる。肩に力を入れて、しっかりこなしたファースト・コンタクトが不評であった。優等生である彼にそのような現実が襲い掛かり、不満と恥じらいが入り混じるような、何とも言えない表情をしている。
「……難しいですね。全然意識してませんでした」
「まぁ、グラッセ卿って、平民の生徒たちにも同じような挨拶の仕方してるもんね」
「アルスさんは違いましたっけ……」
「僕はまぁ会釈くらいだね。淑女の礼をいきなり取られたら、平民の子たちはどぎまぎしちゃって、それを恐る恐る真似する羽目になるでしょ。彼らの頭に常にあるのは、貴族に失礼があってはならないってこと」
ヴィンスは過去を回想する。そう言われてみれば、アルシェスタは平民の生徒と貴族の生徒、それらに相対するとき、所作が少しだけ異なっていたと感じ取れる。
それらがアルシェスタから平民に対する配慮だと知る。彼女が平民の生徒から人気のある理由の一端を見たような気がして、息を呑んだ。
「会釈なら平民の子たちも気軽にできる挨拶だし、礼も言葉も交わしやすくなる。ま、貴族のお嬢様方には八方美人なんて揶揄されてるけど、どうでもいいことだね」
「確かに、平民に対して礼の形式を変えている意図を正しく貴族の者が理解すれば、少しばかり謗られるのは仕方ないかもしれません……」
「絶対そこまで考えてないよ。あいつらは、僕が平民にも人気で傅かれてるのが気に入らないだけなんだ」
平民に情を移すなと教育される貴族の子女。
アルシェスタはそのあたりの思想に、父母への反骨心で全力で反抗しているので、このような人格になったと言っても過言ではない。
ただ、学院の貴族子女たちの噂話に軽く耳を傾ければ、嫉妬する方向性に若干のずれがあるのは感じ取れる。
彼女たちは若い少女の夢として、多くの人間に傅かれ、侍られる光景に憧れているのかもしれない。
自宅ならば叶う夢だが、学院の生徒たちは、自分の家の家来ではない。声を掛けても気まずそうに逃げられ、慕われることなどない。
そんな中で、平民から絶対的な支持を受けているアルシェスタを見れば、かわいらしい嫉妬の心くらい湧くのだろう。アルシェスタはその程度のことだと結論付けていたので、特に相手にしていなかった。
「初日にして、色々と大きな知見を得られた気がします……」
「何言ってんの。これからが本番ですけど」
「え」
「エリーゼ。じゃあ僕、商談に行ってくるから。グラッセ卿に案内よろしく~」
「かしこまりました、社長」
ヴィンスは状況が飲み込めぬまま、視線をせわしなく左右に動かした。しかしアルスはとある商会の拠点の前で馬車が停まったのを見ると、ネクタイを軽く締めなおして、ヴィンスを置いてそのまま馬車を飛び出して行ってしまった。ヴィンスはぎょっとして目を丸くしていたが、アルスが彼を顧みる様子はない。
「社長はお忙しい方ですので。この先は、私が案内を承ります」
「……よ、よろしくお願いします……」
「まずは、閉店間近のコンセプト・カフェがあるのでそちらから回った後、遊技場を三件、クラブを五件回らせていただきます。それから――」
エリーゼが告げる内容に、今夜中に回りきれるのか、という不安に襲われたヴィンスは、そのままくたくたになるまで、エリーゼからACEの経営する店を連れまわされたのだった。




