42. 少しだけ近づいた距離
リリーナに抱き着かれたアルシェスタは、ほんの数秒間の間、硬直したのち、目を瞬かせた。耳元では感極まったようなリリーナの嬉しそうな高い笑い声が響いている。
少しばかり下心が働いた指先を動かした後、ゆっくりとリリーナの髪を撫でれば、リリーナは我に帰って、すごい勢いで体を離した。
「ご、ごごごごごごめんなさい! アルシェスタ様! つ、つい……」
「いえ。びっくりしましたけれど。良かったですね、光の特質が顕現したみたいで」
アルシェスタの藍玉に映る苗木は、神秘的な光の粒子を微かにまき散らしながら、空調の風の流れに揺られて揺れている。
枯れ果てたぼろぼろの命は、見事に芽吹いたのだ。リリーナはそれを見つめて、感極まったように瞳を潤ませた。
「本当に、ありがとうございます。アルシェスタ様のお陰です!」
「私は何も。あなたのことをよく見ているお節介な方に、その言葉を差し上げるとよろしいかと」
「私のことを、よく見ている、お節介な方?」
三秒ほど、丁寧に拍を置いたそぶりがあった。やがてリリーナは閃いたように目を少し開いて「あっ」と小さく声を漏らすと、顔を少し赤くしながら、消え入りそうな声でつぶやいた。
「も、もしかして、オーエン様ですか……」
「ふふ。さぁ、誰でしょうね」
「アルシェスタ様~!」
少しだけ泣きそうな顔をしているリリーナは、表情がくるくると変わって愛らしい。貴族の娘としては隙だらけで心配になってしまうものの、17歳の少女の魅力と考えれば、とても愛くるしく、少女的な儚さがある。
アルシェスタは、すっかりとリリーナを揶揄って変な顔をさせるのに味を占め始めていた。思えば、これほど気軽に口が利ける同性の相手と会えたのは初めてかもしれない。エリーラやエリーゼは、飽くまでも主従関係が前提にあるので、友人という関係とは程遠い。
(こんな風に、僕を慕ってくれているリリーナ嬢も、僕の本性を知ったらがっかりするんだろうなぁ……)
つい最近、ヴィンスに裏の顔がバレてからというものの、何となくアルシェスタの思考の中には、アルシェスタが親しくしている者に、裏の顔がバレたらどんな反応をされるか、という被害妄想が出現するようになった。
夢を見てくれる者、憧れを抱えて慕ってくれている者、それらを裏側では裏切っているという事実。しかし、人は大なり小なり、表と裏の顔を演じ分けて暮らしているものだ。裏の顔に踏み込むならば、それはある意味で自己責任ともいえる。
リリーナが慕ってくれる完璧な淑女という偶像が、崩れる日もそう遠くないのかもしれない。アルシェスタは最近、何となくそんなことを考えるようになっていた。
(まあそれでも、せめて学院を彼女らが卒業するまでは、何とかいい子のフリしなきゃね……)
ウルズ大公に頼まれているパトロンの身代わりの件もある。リリーナが何の気後れもなく貴族社会に入って行けるように、アルシェスタは都合のいい人格を演じた方がいい。
最初は仕事として、義務的に引き受けて来た支援の件だが、三節も四節もこうして深くかかわっていけば、自然と情も湧いた。
「あの……アル、シェス、タ様」
「はい。どうなさいました?」
リリーナは、面白いように百面相をする。戸惑っている顔、緊張している顔、意を決した顔、やっぱり臆する顔。そんな分かりやすい表情を何度も繰り返した後で、顔を真っ赤にしながら、精いっぱい、自分の勇気を絞り出したような、消え入りそうな声でつぶやいた。
「サンチェスター卿が、いつも、呼んでいらっしゃる、アルシェスタ様の、愛称……」
「はい。シェス、と呼ばれておりますが」
「か、か、かかかか、かわいいですよね! すごい、ふんわりとしていて、女の子っぽくって、綺麗で、素敵で、耳触りも良くて」
絶賛の嵐に、アルシェスタは思わずぽかんと口を小さく開いた。
アルシェスタにとって、この呼び名は、母が「女の子らしくてかわいいから」という身勝手な理由で付けたものだ。アルシェスタ個人としては、母への複雑な感情がなくとも、アルスという言葉の方が何となく好きだったのだが――。
けれど、どうしてだろうか。リリーナが口にしてくれると――いや、イルヴァンや、そのほかにも兄たちが口にしてくれるその愛称は、少しだけ良いものに思えて来たのだ。
「ありがとうございます」
「こんな、事……不躾にお願いするのも、良くないって分かってるんです。分かってるんですけど……私も、あのかわいい名前で、アルシェスタ様のことを呼んでみたくって。あの、えっと、二人きりの時だけでいいんです。呼ぶことを、許していただけたりは……」
愛称とは、仲が良い、懇意にしている、家柄的につながりが大きいという、客観視点でも分かる証拠でもある。男女だと、家族と婚約者以外に許さないのがほとんどだ。同性の場合でも、同じ派閥の、近しい人間でしか呼び合わないことも多い。
その点については、リリーナはよく理解していると言ってもいい。公の場で、男爵令嬢のリリーナが、特にかかわりのない派閥のアルシェスタのことを愛称で呼んでいるのを見れば、誰かがキングレー伯爵家が政界で動きを見せたと邪推してもおかしくはない。
それが私的な場でのみとなるとまた趣が変わり、それは親愛のしるしとなる。
「……やっぱり、ダメでしょうか?」
しゅんと捨てられた子犬のように耳を垂らして、瞳を長い睫毛に閉じ込めたリリーナを見て、アルシェスタはどうしても意地悪がしたくなってしまう。どうして、かわいらしい少女のような振る舞いをする彼女に構いたくなるのか。アルシェスタは自分の中に湧いた少し複雑な感情に、笑顔で向き合うことにした。
「いいえ。ただ、あまりにも熱心に、一世一代の告白と言わんばかりの意気込みでしたから、てっきり愛を囁いてくださるのかと期待してしまいました」
「へ? えっ? ふえええええええええええっ!? そ、そんなこと、そんなことできません! わ、私がアルシェスタ様に!?」
「ふふ。確かに、リリーナ様ほどの愛らしい方なら、愛を囁くよりも囁かれる方が画になりそうですね」
「か、かわらかわないでください~!」
またもやふんすふんすと鼻息を少しだけ荒くして頬を膨らませる彼女に一頻り満足すると、アルシェスタは上品に口元に手を当てて笑い声を漏らしながら、リリーナを見上げた。
「構いませんよ。二人だけの秘密ですね」
「……! ありがとうございます、シェス様! ふふ。シェス様、シェス様……」
人の名前を、とても嬉しそうに呼ぶ。つくづく、リリーナと向き合っていると、自分の心の機微が謎だとアルシェスタは自分の胸に手を当てながら想いを馳せた。
――かわいい小動物を、かわいがりたい衝動なのか。好きな女の子に意地悪をしたくなる、幼年期の少年心理なのか。それとも――。
その答えを得られるには、色々とまだ早かったようだ。




