38. 共犯者の完成
「おはようございます」
その声が聞こえたのは、アルシェスタの真の姿が、ヴィンスにバレてしまったおよそ四日ほど後のことだった。
教室の入り口から聞こえた、控えめな成人男子の声に、談笑をしていた声をぴたりと止めて、視線が一斉に入り口に集まる。
するとそこには、少しだけ痩せているが、ピンクブロンドを揺らしたクラスの委員長が立っていた。
「委員長! おはようございます!」
「おはようございます、グラッセ卿」
ヴィンスは家格こそ低いものの、真面目で誠実な人柄は人の信用を集めていた。成績もアルシェスタ、ビオに次ぐ学年三位という好成績で、ビオが抜擢されなければ、生徒会に選ばれていたのは確実にヴィンスであったとさえ言われていた。
そんな彼が、一節ほどの休学を終えて登校したのだから、好奇の視線を集めるのは必至だった。
彼に群がっていく生徒たちの様子を、アルシェスタは窓辺から伺っていた。
見た目が何とも愛らしい彼は、女性の母性をくすぐるらしく、密かなファンも多いと聞く。
グラッセ子爵家は、現当主の失踪を明らかにし、情報を求める方向へと舵を切った。恐らくは第一騎士団からの情報を受けて、ヴィンスがそのように判断したのだろう。
彼はあの後、アルシェスタが預けた金や人脈を元手に、偽のグラッセ子爵が築き上げた借金を不当なものとして、偽のグラッセ子爵に叩きつけるために色々と動いたらしい。
「キングレー嬢」
ようやくクラスの雰囲気が落ち着いたとなったその時、ヴィンスは窓辺にアルシェスタの姿を見つけて、歩み寄って来た。
アルシェスタは淑女の美しい微笑を口元に浮かべて、丁寧に淑女の礼を取った。
「ご機嫌麗しゅう、グラッセ卿。お加減はいかがですか?」
「お陰様で、何とか収拾の目途がつきました」
「そうですか。それはよろしゅうございました」
表面上は、何も変わらない二人。
けれどこの数日のうちに、二人の関係は明らかに様変わりした。ヴィンスは声を潜めると、アルシェスタにしか聞こえないようにつぶやいた。
「――お話をさせていただきたいのですが、どちらなら都合がよろしいでしょうか」
詳しい報告だろう。ヴィンスにとっては、アルシェスタは支援者にも等しいことをしている。そのため、報告が必要だと考えているようだ。
あの日口止め料として渡したのは、実際にはカジノで取り返した、偽グラッセ子爵が使い込んだ資産のちょっとした補填だった。ただ、あの場でそれを告げても、ヴィンスは決して受け取らないだろうということが分かっていたので、アルシェスタはわざと、脅迫気味に詰め寄っても金を受け取らせたのだ。
アルシェスタはくすりと口元で微笑むと、同じように声を潜めて、囁いた。
「どうぞ、21時過ぎにあの店で。お待ちしております」
その言葉を伝えると、アルシェスタは窓辺から離れて、優雅に自分の席へと戻っていった。その後ろ姿を見て、ヴィンスは完全に夢から醒めたように、ほっと息を吐き出した。
放課後、アルシェスタは帰宅をして、商談のために出かける。最近、どんどん商会の方に入ってくるのは、プロデュース業やデザイン業だ。王都にあるとある宿のサービスを提案してプロデュースしたところ、その宿が好評となったので、その手の仕事が舞い込むことになったのである。
商談をすべて終えて、アルスが拠点としているクラブ「アルカンシェル」へと帰る。貴族たちが知る穴場の店に常駐しているのは、この店の居心地がいいことに他ならない。アルスは、商会の拠点には滅多に顔を出さずに、あちらはエリーゼが仕切っているからだ。
「支配人。Room00でグラッセ様がお待ちです」
「分かった。僕が対応する」
疲れた肩をゆっくりと回してから、アルスはVIPルームへと踏み込んだ。すると、部屋の中にはこじんまりと体を縮こまらせた、ピンクブロンドの少年の姿がある。
アルスが姿を現せば、彼はほっとしたように息を吐き出してから、笑顔を浮かべた。アルスは軽く手を挙げてから、髪紐を外して、彼の正面に腰を下ろした。
「今日は、少し落ち着いたスーツなんですね」
「この時間だと夜遊びじゃなくて商談帰りだから。一応、それなりの規模の商会の会長なんでね」
「やっぱり、キングレー嬢はすごいです。学業もあんなに優秀なのに、まさか裏で商会長までされていたなんて」
「……あのさ。プライベートでまで貴族令嬢扱いは止めて。そういう息苦しいのが嫌で、僕はこんな格好をしてここにいるんだから。アルスって呼んでよ」
「えっ。で、でも、それって実質的にはあなたのことを愛称で呼ぶことになるのでは……」
確かに、アルスはアルシェスタの愛称だが――アルシェスタの愛称という意味で、その名を呼ぶ人間は、今のところ一人もいない。家族も、イルヴァンも、アルシェスタのことを「シェス」と呼ぶ。
「愛称ともとれるけど、そもそも偽名的な意味合いが強くてさ。まぁ、偽名じゃんって言われるのが面倒だから、愛称ですけど~? って押し切れる名前にしたわけだけど」
「し、したたかな……」
「せめてキングレー嬢は止めてほしいな。今のキングレー伯爵家には娘が一人しかいないし、そう呼ばれてるところを誰かに聞かれたら一発で身バレするんだよ」
「……わ、分かりました、ア、アルスさん」
たどたどしくアルスの名を呼ぶヴィンスに、よし、とアルスは微笑んだ。伊達眼鏡を指先で外してテーブルの上に置くと、ぐいっと体を上へと伸ばした。
噛み殺した欠伸のせいで目元に浮かんだ涙を拭って、氷が所狭しと入れられた冷たい紅茶を飲む。筒状のグラスに注がれたそれは、貴族の令嬢が嗜む上品なものではなく、筒を引っ掴んで口の中に大雑把に流し込む、庶民流の品である。
「さて。それで、今日はどんな話だろうか。楽しい話だと、嬉しいんだけどね」
「……第一騎士団の方から、父を名乗る男への聴取の結果が届きました。あの男の正体は、二節ほど前に横領の罪に問われた、ドルトン元男爵だったそうです」
「……ああ。文化庁の横領の件だっけ。そんなに大事にされなくて、やらかしてた男がこっそりと貴族籍を剥奪されて、男爵家が没落したっていう……」
「はい。しかし、どうやら最近になって、怪しい風貌の男の接触を受け――グラッセ子爵を名乗り、裏の社交場で暴れ、グラッセ子爵家の悪評をばら撒けば、貴族に戻してやると持ちかけられたそうです」
「持ち掛けられた? 貴族に戻してやるなんてうさん臭さマックスの甘言を真に受けたの?」
どう考えても、甘すぎる。貴族籍とは、そんなに簡単に得られるものではない。横領を働いてクビを切られた人間なら、なおさら戻れるはずなどないのに。
だとすれば、それなりの理由があったということだろう。あの男が盲目的に、目的に突き進もうとする、何かを。
「父上は目下捜索中で、第一騎士団の方々は、その怪しい風貌の男の足取りを追うことにしたそうです。ですので、僕の方ではいったん、父からの連絡を待つこととなりました。その間は僕が子爵の代理をすることを、王家に承認していただきました」
「そう。じゃあ、何とか家は続けられるんだね」
「はい。ただ、今回のことで資産のほとんどを失い、戻る目算がありません。なぜか子爵家の金庫が開けられ、中の資産が食いつぶされていたからです。あの男が一体何をやったのかは分かりませんが、金庫を開ける手続きだけは、正式なものだったそうです」
「……」
アルスは顎に手を当てて、思案する。思ったよりも大きなものが背後で蠢いていそうで、目の前の愛らしい少年がそれに食われる様子を思うと、心が痛む。
正義感にまみれた彼の父が、何か大きな事件に首を突っ込んでいたのだとしたら――。
「父が帰ってくるまでは……あるいは、その生死が分かるまでは、僕は何とか子爵家を守ろうと思います。ですが、正直に言えば、アルスさんに頂いたお金をもってしても、爵位の保持は絶望的……父の意志を確認したら、僕は爵位を国に返し、心を病んだ母を養うために、働きに出ようと考えています。……ある意味で、ドルトン元男爵とその背後にいる者の願いは成就したかもしれませんね。こうして、我が家は没落の一途を辿ってしまいました」
それは、あまりにも切実な自立宣言だった。アルスはそっと顔を伏せて、囁くように問いかける。
「……最悪の事態も、想定してるんだね」
「……はい。信じたくはないですが、父は連絡もなしにこれほど家を空けることはありませんでした。そうなってしまったときには、僕には父に代わり母を守る義務があります」
「そっか……分かった。それで。僕にその話をしたってことは、何か頼みごとがあるってことだよね」
アルスが眉をそっと寄せながら問いかければ、ヴィンスは小さく頷いた。
ヴィンスにとって、アルスは今、最も気兼ねなく頼れる唯一の人なのだろう。子爵家の令息だと、高位貴族との繋がりは薄く、なかなか緊急時に頼りになる人間はいない。
特に、下位貴族――男爵家や子爵家は、自分の家を守るので精いっぱいだ。グラッセ子爵家もその例外ではない。
「実は、前々から考えていたんです。その……いうタイミングを、計っていたというか」
「……ん」
「僕、将来はキングレー伯爵領で働きたいなって。娯楽に関わる仕事が、したくて」
ヴィンスの口から出た予想外の言葉に、アルシェスタは目を丸くした。
この国では、実は下級貴族家が他領で腕を振るうのは、それほど難しい手続きはない。ただ、領主の傘下に入り、自分は決して領主及び領地に悪影響を及ぼさないと誓いを立てる。場合によっては爵位を落として元の家と縁を切る必要があるのだが。
この国における子爵家とは、伯爵家以上の高位貴族の補佐をする家に与えられる爵位、または国に仕官し、国の組織の要職に就くことで身を立てる者の爵位だ。
前者なら難しいが、後者ならばそれほど大きな手続きは必要なく、王家に承認されればそれで済む。男爵位まで爵位を落とせば盤石だ。男爵位はもとより国の経済的発展に寄与した商人や、優れた武勲を立てた騎士、あるいは地主として力を振るった者に与えられる爵位だ。男爵家は経済的な影響力はあるが政治的な影響力は直接的にはないので、どこかの派閥に属するということもない。
キングレー伯爵家に今のところ傘下の家はほとんどいないが、領主である以上は、今後増えていくものと思われる。
ただ、現状では、政治に関われないキングレー伯爵家の傘下になるメリットはほとんどと言っていいほどに存在しない。出世や陞爵のためには、どうしても国の政治にかかわらんとするのが近道だ。キングレー伯爵家のように、金儲けで貢献する方法もあるが、これはとても難しい。
政界で力を持つ貴族家の傘下に入り、派閥を作る。それが、力の小さな貴族家が成り上がるための、一般的な道だ。
「だから、学院を出たら雇って貰えないか――功績が必要ならば、どのようなものを立てればよいかということを尋ね、国の娯楽経済の発展に携わるキングレー伯爵家の膝元で、国のため、キングレー伯爵領のため、働きたいと願っていました」
「……知らなかった」
「僕も、昔は娯楽に否定的な面もありました。けれど、あなたと関わるようになってから、娯楽に触れてみて、すごく楽しくて……だから皆が夢中になるんだって、よく分かりました」
「そっか。確かに君は、よく娯楽の話をしていてくれたけど……そんなに好きになってくれていたんだね」
ヴィンスはソファからゆっくりと立ち上がると、頭を下げた。
「実は、父母にも話して、色よい返事はすでに頂いていたので、後は僕の意思次第でした。元より我がグラッセ家は、実に様々な方法で貴族位を保ってきた家ですから」
「確かに。君のその綺麗な髪を齎した歌手は、グラッセ家が男爵家だった頃に興した事業をきっかけにこちらの国に渡って来たし、そもそも最初に爵位を貰った時は確か、平民で近衛騎士にまで成り上がった功績からだったよね」
「よくご存じですね。ですので、キングレー嬢……アルスさんに、お願い申し上げます。将来的に、僕はあなたの故郷の力となりたい。あなたの商会で、勉強させていただけないでしょうか」
予想外のところから、優秀な人手が現れて、アルスは少し戸惑う。
とはいえ、自分の一存だけで決めていいことではないのは確かだ。今後どうなるかは分からないが、少なくとも現在は子爵家の子息であるヴィンスのことは、両親には報告しなければならないだろう。
それに、ちゃんと仕事の適性も見なければならない。彼ほどの優秀さならば、仕込めばほとんどの仕事はできるだろうが――もしもアルシェスタが海辺の発展地の管理をできるのだとすれば、右腕として活躍が見込める貴重な人材だ。
だとすれば、今、彼に対して施すべきことは――そう思ったアルスは、にこりと笑った。
「じゃあ、とりあえず夏季休暇の間、僕の仕事手伝って」
「よろしいのですか?」
「うん。言っとくけど、今年の夏は超忙しいよ。覚悟して、ついて来てね」
こうして、アルスは一人の共犯者を得たのだ。自分の存在を受け入れ、自分に恩義を感じて手足となってくれる、得難い一人の味方を。




