19. 一歩ずつ前に
創立記念パーティーの数日後。
生徒会室へ向かえば、窓際で珍しくグウェンがぼんやりとしていた。
会議の1時間前に来たので、部屋にはまだグウェンしかいない。無駄を嫌う彼にしては、珍しい光景であることは間違いがなかった。
ふと、彼の手元に視線を落とせば、そこにはよく見慣れたボードがあることに気が付いた。
アルシェスタが提案し、民間の業者で大量生産して貰った、小型の持ち運び用のチェス盤だ。中央で半分に折れ、小型の箱の中に小さな駒を収納して、その折り曲げた盤の内側に収納できる作りは非常にコンパクトだ。白黒のタイルが交互に並ぶ高級感溢れる代物は、実はコストパフォーマンスを最優先にしたもので、庶民でも手が届く程度のもの。
しかしながら、高級な道具を苦労して持ち運ばねば遊べなかったチェスの常識を変えたその商品は、意外と貴族の男子にも人気が出ていると聞いたことがある。
アルシェスタが机に荷物を置いて一息ついていると、グウェンから声を掛けられる。
「……キングレー嬢」
「はい。ご機嫌麗しゅう、クロスクロイツ卿」
「相変わらずあなたは早いですね。……私も今日はたまたま用事がなく、早めに参じた次第なのですが」
少しだけ間の取り方に不慣れさが見える、彼にしては珍しい雑談。
それは皮肉でも嫌味でもなく、ただ相手との穏やかな時間を求めて吐き出される、珍しい言葉だった。
「ところで、キングレー嬢はチェスは嗜まれますか?」
「……ええ、もちろん。兄や領地の大人と遊んでおりました」
「そうですか。では、一局お付き合い願えますか」
娯楽に良いイメージを抱いていないと、面と向かって告げてきた彼。
批判をするだけなら誰にでもできる、という言葉が、思いのほか彼に引っ掛かったのか、グウェンはその娯楽というものに向き合おうとしているような、そんな気がした。
「私でよろしければ、喜んで」
そしてアルシェスタは、勝負を挑まれれば、断れない性分なのであった。
グウェンのチェスは、どこまでも「優等生」だ。定跡をしっかりと覚え、機械的に、丁寧に事を進める。戦局を見極め、そこに合うような定跡を導き出して、それで対応する。
間違いなく、ルールを知っている程度の相手には負けない、そんな実力者だ。
「……私は見誤っていたのかもしれません。あなたのことも、彼女のことも」
そんな対戦の中で、ぽつぽつと彼が漏らしたのは、恐らくは創立記念パーティーを通してあった一連の出来事の話だ。グウェンがリリーナの振る舞いを批判し、リリーナがアルシェスタへ教えを乞いにやって来て、アルシェスタが双方に発破をかけた。
「貴族同士の伝聞で耳に入れることなど、事実の10%も内包されていれば上出来では?」
「あなたは私よりも年下なのに、達観していますね。やはり、意外です」
「……意外?」
「第一印象と実際のあなたにはずれがある。あなたは存外、気が強い」
アルシェスタはそっと口を閉じた。どんなに淑女を取り繕おうとも、本質は変えられない。
処世術で覆いきれない分は滲み出る。面と向かって「批判するだけなら誰にでもできる」と分かりやすくグウェンに告げたのが、彼の中のアルシェスタの印象を変貌させたのだろう。
「こういったものは、踏み込んでみなければ分からぬものだと。不思議な気分です。あなたと彼女のせいで、自分のこれまでの価値観が微かに揺らいでいるのが」
「上辺を撫でるだけの関係は、心地よいですからね」
「……やはり、あなたは何かが違う。何かとは言えませんが……」
グウェンは、アルシェスタの奥にある本当の顔の一端に触れようとしている。
自力で看破しようと試み、アルシェスタの本質に理解を示そうとしてくれているのならば、その一端を見せるのもやぶさかではない。そう思って、アルシェスタはくすりと微笑む。
「それで? 私の本質を知るために、チェス……ですか」
「……ええ。幼き頃より娯楽に触れ、それに誇りを持っているあなたのことを見極めるならば、同じ土俵に立ってみることが肝要かと思い。父上が気に入っていた持ち運び用のチェス盤を借りてきました」
アルシェスタは、今さらっと凄いことを言われた気がして、頭の隅へとその考えを追いやる。
まさか、宰相閣下に評価されていたとは露知らず。変な顔をしてしまいそうになるのを、淑女の笑みの向こう側へと封じ込める。
しかし、グウェンの行動には好感が持てた。相手のことを理解するために、相手の土俵に手を出して、体験してみる。それは、アルシェスタが娯楽を広めるうえで、必要だと思っている手順の一つだ。
「……左様でございますか。でしたら、手を煩わせたぶん、応えねば無礼というもの」
「……!」
「では、私がどのような人間なのか……きっと貴族流の社交で読み解くよりも遥かに、この白黒の盤上で語る方が、分かりやすいかと思います。ご照覧あれ」
アルシェスタはそう告げると、それまで定跡同士の打ち合いであった盤上に、突然嵐を引き起こした。それを見て、グウェンは目を丸くして息を飲み、自らの中にある定跡と照らし合わせて最適解を探す。
かろうじて修正したルートへ、さらに楔を打ち込んでいく。
アルシェスタは、チェスを始めた当初に定跡など学ばなかった。ただ、チェスのルールを根本から理解し、どういう手が最も強いかを何度も試行錯誤した。その末に、何故定跡が強いのか、その本質を理解した。
こういう盤面にはこういう定跡――そんな使い方をしているプレイヤーに対しては、アルシェスタはめっぽう強い。教科書通りにやっていて勝てる相手ではなかった。
「――チェックメイト」
「……。見事です……私の負け、ですか」
アルシェスタの打った漆黒の駒が、敵のキングを追いつめる。グウェンは盤上を見下ろして、打つ手なしと降参を宣言する。
アルシェスタは指先でポーンを弄び、くるくると回しながら、淑やかに微笑んだ。
「……少しは理解していただけました? 私のこと」
「ええ、確かに……あなたと言葉を交わすよりも遥かに雄弁に、この盤面はあなたという人間がどういう人なのかを語ってくれました」
「それはようございました。まさか、クロスクロイツ卿とこうしてチェスで遊ぶ日が来るだなんて思いませんでしたが……」
「……。私は、キングレー嬢がこれほどにチェスが強いとは知りませんでした」
盤上遊戯は紳士のたしなみ。チェスの名手と呼ばれる人物は男性ばかりだ。その筆頭が、件の大公閣下であるわけではあるのだが。
そして、絵に描いたような「優等生」と呼ばれるアルシェスタは、恐らく教科書通りの綺麗な立ち回りを見せると思っていたのだろう。
しかし蓋を開けてみれば、定跡外の攪乱手から、定跡に則った強く容赦のない手順まで何でもござれのトリックスターで、ところどころグウェンの困る位置にわざと打ち込み、反応を見る様子まで見せていた。
恐らく、この時点でグウェンの中から、アルシェスタが教科書通りの優等生である、という印象は消え失せただろう。
「ふふ、娯楽は私の人生の全てですから」
「……全て、ですか」
「一番好きで、一番興味があること。だから、身を賭して、心を捧げる価値がある物なんです」
「……。以前に、娯楽を軽んじた発言をしたのを撤回します。あなたに勝ちたくなりました。定期的にお相手願えませんか」
「私でよろしければ、喜んで」
これまた奇妙な取り合わせではあるが、この日以来、アルシェスタはたまにグウェンとチェスを打つようになったのである。
生徒会での業務を終えて帰宅すると、執務机の上に置かれていた開封済みの手紙を発見する。
リリーナからの手紙だ。大公が読んだあと、アルシェスタに届けられる手紙を開いて読んでみれば、目を丸くした。手紙の下に敷かれていたメモには「すまないが、よろしく頼む」と見慣れた字で書かれていた。
◆◇◆
「それで、同じクラスの平民の子と、あと子爵家の女の子が二人、仲良くなれたんです。上手にダンスを踊ることができて、それを見てよかったって話しかけてくださって」
「そうだったんですね。それは良かった」
シルファス男爵家の応接間。スクルズ子爵に変装したアルシェスタは、リリーナの正面に腰かけて、紅茶を美味しくいただいていた。
どうやらあのパーティーの後、同じクラスの子爵令嬢や、平民の生徒から話しかけて貰えたようだ。彼女にとって、アルシェスタ以外に寄り掛かれる友人ができることは、非常に喜ばしいことだった。
アルシェスタは学年が違うので、いつでも助けに行けるわけではない。身近に、少しでも相談に乗ってくれる人物がいることはありがたいことだった。
念のため、子爵家の令嬢の派閥と寄り親くらいは把握しておきたいと思うが――そのうち、判明したら探りを入れよう。
アルシェスタは優しい微笑みを浮かべながら、リリーナが嬉しそうに話すのを聞いていた。
「……お恥ずかしながら、私は貴族のマナーを軽視していたみたいです。今回のパーティーのために必死に身に着けて、重要性を知りました」
「今までご縁のなかったことに、興味を持てないのは仕方のないことです。ですが気づけたのなら、十分な進歩ではないでしょうか」
「ありがとうございます。それで、あの……アインハルト様。マナーを教えてくれる先生を、ご紹介いただけないでしょうか。次の公式行事までに、もっとしっかりと学んでみたいです」
リリーナの言葉に、アルシェスタはにこりと微笑むと、もちろんです、と頷いた。
アルシェスタのレッスンを通じて、マナーの重要性と、必要性を理解したリリーナは、かなり前向きに貴族社会へ入ることを受け止められたようだ。
――ここ最近、届いたリリーナの手紙には、これでもかというほどにアルシェスタへの賞賛が書き連ねられていた。見てしまった罪悪感を覚えながらも、リリーナの好意が伝わって来て、慕ってくれているのだということがよく伝わって来ていた。
ふと、じっと見つめる視線を感じて、アルシェスタは困ったように微笑んで首を傾げた。
「……僕の顔に、何かついておりますか?」
「あ……す、すみません。アインハルト様が、その……手紙に書いた、私の初めての友人に少し似ているので」
(まぁ、本人ですから……とは、言えないなぁ)
理想のムーブは、バレずに自然消滅。一年間の相談役として、二か月に一度ほど顔を合わせるくらいなら逃げ切れる計算だ。スクルズ子爵への変装時は、目の形などもメイクで変えているので、余程のことがなければ気づかれないはずである。
穏やかにリリーナの近況を聞いていると、ふと小さな鳴き声が聞こえて、ドアの隙間がきい、と開いた。
微かに開いた隙間から、真っ白な毛玉がこちらへと歩み寄ってくる。
みゃぁ、と小さく鳴く声から、それが長毛の猫であることを察した。
「あ……マシロ。どうしたの?」
「みゃぁ……」
マシロ、と呼ばれた真っ白な毛玉の猫は、ひょいっと飛び上がると――アルシェスタの膝の上で丸まり、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。それを見て、リリーナは目を丸くして「えっ」と少し動揺したような声を漏らした。
アルシェスタは驚いたが、足の上に伝わるぬくもりに愛しさを覚えて、そっと毛並みを撫でる。
「……かわいらしい猫ちゃんですね。飼っていらっしゃるんですか?」
「え? は、はい。マシロは、つい一か月ほど前に、怪我をしているのを見つけて、うちで保護したんです。父もメロメロなんですが、あまり人になつかなくて……」
「そうなんですか? すごく人懐っこい子だと思ったんですが……」
マシロには、首輪と、そこについている不思議な色の球状の飾りが見えた。白い毛の中に埋もれているそれにそっと手を触れれば、球の中にあった光が微かに揺らめいた。
「……?」
リリーナが終始、不思議そうな顔をしているのを横目に、アルシェスタはすっかりとふわふわの感触が恋しくなり、手先でマシロの長毛を梳かすことに夢中になっていた。




