13. リリーナの願い
――それは、夕暮れ時の学院での出来事。
生徒会室で業務を片付け、アルシェスタは部屋を出た。あとは職員室を経由して、休暇期間の課題を提出して、帰るだけだった。
公平を期すため、という名目で、優等生のアルシェスタに与えられる課題に、わざわざ教師が目を通すこともないようだ。彼は「お疲れ」と言ってアルシェスタから課題を受け取ると、それをその場で確認せずに、机の上へと置く。
適当にやってもバレなさそうだなぁ、とアルシェスタは心の中で独り言ちたが、流石にそれをするリスクとリターンが釣り合わなさすぎるので、学院へ登校するまでの十数分でさっと片付けるのが恒例となっている。
職員室を出て、馬車乗り場へと向かう途中、中庭を通る。放課後となり、すっかりと閑散とした校舎に、人の気配はほとんどない。平民の生徒たちは課外活動等を活発に行ない、学生棟の方に残って文化的・体育的な活動に精を出している。貴族の生徒たちはさっさと帰宅し、稽古にお茶会にと忙しくしている。
そんな中庭の四阿の付近で、ふと話し声が聞こえて、アルシェスタは足を止める。
「――あれから一月ほど経ちましたが、まだまともにマナーも身についていないようですね。そんな調子で、貴族社会に入る気があるのですか?」
「……申し訳ございません」
聞き覚えのある声が二つ。それがアルシェスタが足を止めた理由のすべてだった。
影魔術でそっと存在感を薄めながら、ゆっくりと覗き込めば、そこには俯くリリーナと、腕を組んで眉間に皺を寄せるグウェンが立っていた。
(ああ……陰険眼鏡がリリーナ嬢を虐めているシーンを目撃してしまった……)
いったい何が気に入らないのか、グウェンは事あるごとに彼女に厳しく当たる。
家の事情のみというならば、公的な場以外での嫌味など吐く必要はない。公爵家として舐められないように、リリーナに厳しい態度をとっているのならば筋は通る。
しかし、このような私的な場で、わざわざ彼女を掴まえて辛辣な言葉を告げるのは、彼の家というよりは、彼個人がリリーナに対して何か思うところがあるのでは、と邪推が進むのは仕方がなかった。
「言っておきますが、貴方程度の心構えで貴族社会に入って来ようとする者を、高位貴族らは決して迎え入れはしない。殿下の厚意に甘えて、その庇護のうちに入れば、貴族たちへの礼を尽くす必要はないと?」
「そ、そのようなことは決して……」
「であれば、その振る舞いをもう少しましにするのですね。創立記念パーティーでも醜態を晒すようならば、二度と貴族社会が貴方を受け入れることはないでしょう」
「……」
グウェンは吐き捨てるように告げると、そのままリリーナから背を向けて、立ち去って行った。
その場に残されたリリーナは俯いて、小さく肩を震わせていた。
アルシェスタは、出て行くかどうか迷った後で――そっと踵を返すことに決めた。今、出て行けば盗み聞きをしていたとバレてしまう。そうなれば、リリーナを傷つけると思ったからだ。
(陰険眼鏡先輩、言ってることは正論なんだけど、人の心が分からない人だからなぁ……)
リリーナ関連のトラブルは、耳に届くだけでもかなりの数のものだ。
第二王子と恋愛をしているという噂が流れて以来、同級生の女子生徒からの当たりがきつくなり、侯爵家、伯爵家あたりの令嬢から痛烈な皮肉を貰うことが増えていると聞く。
そういう意味では、創立記念パーティーでは、自分の実力を示す機会となる。
ここで、貴族の女子として恥じない振る舞いをできれば、少なくともトラブルは幾分か減るだろう。
彼女らの中には、礼儀を知らぬ身の程知らずを叩き出すために動いている者も少なからずいる。相手を認めさせることができれば、母数としては少し減る可能性もある。
ものすごく都合の良い解釈をすれば、グウェンはそれを忠告しに来た、ともとれる。
(い~や、あの人は意地悪なだけだね)
すぐにその考えをかき消した。何せ、娯楽の都の娘であるアルシェスタに面と向かって娯楽への皮肉を口にするような人間だ。
もしもリリーナから手紙が来たら、その時は力になろう。そう思いながら帰宅はしたものの、リリーナから届く手紙は、楽しいことだけを抜粋して述べられる手紙なのだ。
彼女はまだ、パトロンに対して遠慮しているところがある。
しかし、次の日。アルシェスタは思いもよらぬ接触を受けることとなった。
「あ、あの! キングレー様……えっと、すみません」
昼食を終えて教室へ戻って来たアルシェスタを、待ち伏せしているリリーナがいた。
いったい何の用だろう、と思って首を傾げていると、リリーナはもじもじとした後で、意を決したように告げた。
「……わ、わたしに、貴族のマナーを教えていただけませんか」
アルシェスタは、思わず一瞬思考を止めてしまった。しかしすぐに時が動き出すと、小さく首を傾げて、問いかける。
「なぜ、私に……?」
「も、申し訳ございません。私、同じ学年に相談ができる方がいらっしゃらなくて……先生に相談したら、学年が一つ下だけど、キングレー様なら力になってくださるかもしれない、と」
どう考えても教師に面倒事を押し付けられたような気分になってしまった。教師はアルシェスタを優等生として認知しているが、貴族に困らされる平民の面倒を見る人物のような認識をしているのは解せなかった。
とはいえ、昨日あんな場面を見てしまっては、リリーナの力になってあげたい、と思うのも事実だ。
あわよくば、創立記念パーティーで、そういったことを教えてくれる友人を作れたなら、リリーナの立場も多少は良くなるかもしれない。
それまでの臨時の講師なら――そう思ってアルシェスタは、鞄から手帳を取り出して、ぺらぺらとめくる。
週に二日、放課後一時間半程度。それが、アルシェスタの取れる時間の限界だ。
少し足りない気はするが、何とか形くらいは作れるだろうか。そう思って、手帳をそっと閉じた。
「シルファス様は、放課後のお時間は空いていらっしゃいますか?」
「! は、はい。基本的に、いつでも空いております……」
「では、火と木の日の放課後ならば、時間がとれるかと思います。それだけでもよろしくって?」
「は、はい! ありがとうございます!」
こうして、アルシェスタは週に二日、リリーナのマナーを見ることとなった。
目標は、ひとまず創立記念パーティーで貴族の女子としての振る舞いを披露することに定め、ある程度必要なマナーを選定して、教えることとなった。
放課後、実技棟のレッスン室を一部屋借りて、一つ一つ丁寧に教える。
「――では、今日はご挨拶について。この間の新入生歓迎パーティーでは、厳しい言葉を頂戴してしまいましたね」
「……はい。私がちゃんと挨拶をできなかったばかりに、クロスクロイツ様に不快な思いをさせてしまいました」
「そうでしたね。ですが、殿下も仰った通り、失敗しそれを修正することこそ学びというもの。今度は失敗しないように、練習してみましょう」
リリーナは頷き、アルシェスタの話に耳を傾けた。アルシェスタはボードに、花の色を持つ家の名前を書きだしていく。
「これを覚えるのは時間がかかります。今日はメモだけ取っていただいて、時間をかけてゆっくりと覚えれば問題ありません」
「はい……メモします」
「王家より花の色を賜っている貴族家の者へ、初めての目通りとして挨拶をする際には、必ず添えねばならぬものです。もう一つの名前と言っても過言ではありません」
一度挨拶を述べれば、後は簡略しても構わない。例外として、公式の場では形式的に行うこともあるが、それらの多くは表彰を伴う式典などが該当する。
「たとえば、クロスクロイツ卿のご生家、クロスクロイツ公爵家には、宵の秋桜という花の色があります。彼と公式に初対面の挨拶をする際には、教えた淑女の礼を取りながら、こう告げます。エルデシアンの宵の秋桜、クロスクロイツ卿にご挨拶申し上げます、と」
「エルデシアンの宵の秋桜、クロスクロイツ卿にご挨拶申し上げます……」
「これが当主の場合は、クロスクロイツ公爵、夫人の場合はクロスクロイツ夫人、令嬢の場合はクロスクロイツ嬢、というように、人に合わせて変化させてください。家単位でご挨拶をする際には、クロスクロイツ公爵家の皆様、というのが略式です」
リリーナは小さく頷きながら、手元のメモを書き込んでいく。
彼女の勉強意欲は高い。教えたことはきちんと身に着けるし、集中力もある。ここまで来ると、どうしてこのひと月マナーに関して授業以上のもので触れてこなかったのか、という疑問が残る。
シルファス男爵は、マナー講師を雇わないのだろうか。いや、恐らくは人脈がなく、適切な人材を回せないのだろうか。
ウルズ大公に進言しておこう、と思いながら、ボードを見上げて必死にメモを取っているリリーナを穏やかに見守る。
やがて、本日の授業が終わったくらいに、イルヴァンが迎えにやって来た。レッスン室の扉を少しだけ開けて、彼はひらひらと手を振った。
そうだ、せっかくなら実践しよう。そう思って、アルシェスタはイルヴァンをレッスン室の中へと呼んだ。
驚きながらも、イルヴァンは特に疑問を持つことなく、レッスン室の中へとやって来た。リリーナが潤んだ瞳で、イルヴァンを見上げる。
「お疲れ、シェス。俺に何かしてほしいのか?」
「ええ。イルヴァンはそこに立っていてください。……シルファス様。早速、本日のレッスン内容を実践してみましょう」
「は、はい! えっと……」
リリーナは少しだけ思い出すように体を身じろがせた後、一度深呼吸をしてから、淑女の礼を取った。
「エルデシアンの金の向日葵、サンチェスター卿にご挨拶申し上げます」
「! あ、ああ、ありがとう。イルヴァン・サンチェスターだ。シルファス男爵令嬢にご挨拶申し上げる」
イルヴァンもそれに応えるように、紳士の礼を返した。アルシェスタはそれを見て、小さくぱちぱちと手を叩く。
「よくできました。それでは、本日のレッスンはここまでに致しましょう」
「は、はい! ありがとうございました!」
「なるほど……花の色の挨拶について教えてたんだな」
「ええ。挨拶に苦言を呈してくださったクロスクロイツ卿に報いなければ、ですから」
そう告げて微笑めば、リリーナは少しだけおろおろとする。一方で、アルシェスタの陰険眼鏡呼ばわりを知っているイルヴァンは苦笑していた。
「というわけで、改めてご紹介いたします。私の婚約者の、イルヴァン・サンチェスターです」
「よろしく、シルファス嬢。Aクラス、色々と大変だと思うけど頑張って」
「は、はい。ありがとうございます」
「では、次はまた週明けですね。お疲れさまでした、シルファス様。ごきげんよう」
アルシェスタはイルヴァンと共に、レッスン室を後にした。
やることは増えていく一方だが、動いていないと落ち着かないアルシェスタにとっては、心地よい忙しさだった。
ウルズ大公にマナー講師の件を相談すれば、すぐに探すと連絡が届いた。少なくとも創立記念パーティーが終わってからは、その人物に任せておくことができるだろう。
そんなこんなで、リリーナを創立記念パーティーまでに立派な淑女にするための戦いが始まったのだ。




